見出し画像

【第2話】ショウタ21歳、大学生「将来やりたいことが見つからない」

21歳のショウタは、大学の校舎で一人、スマートフォンの画面を無機質にスクロールしていた。 就活サイトから届く「あなたにオススメの企業」という通知。SNSに流れる友人の「内定報告」や「インターンでの成長記録」。それらを見るたび、ショウタの胸の奥には泥のような焦燥感が溜まっていく。

彼には、やりたいことがなかった。 これまで波風を立てず、平均的な成績を維持し、周囲に合わせて生きてきた。その結果、いざ「自由にしていい」と言われた途端、自分の足がどこを向いているのかさえ分からなくなってしまったのだ。

「あなたの強みは?」「将来のビジョンは?」 そんな問いに答えようとするたび、自分の中の空白が浮き彫りになる。鏡に映る自分は、背景に透けて消えてしまいそうなほど希薄に感じられた。

逃げ場を失い、あてもなく夜の街へ踏み出した。煌びやかなネオンが自分の空虚さを際立たせるようで、吸い込まれるように入り込んだ薄暗い路地裏。その突き当たりで、闇を押し返すようにぼんやりと光る場所があった。

それは、時代に取り残されたような古い焼き鳥の屋台だった。 煤けた赤い提灯には「やきとり」と書かれている。そこから漏れる煙は、炭火の香ばしい匂いと共に、ショウタの強張った心を優しく解きほぐした。

吸い寄せられるようにのれんをくぐると、狭い店内には炭の弾ける音だけが流れていた。

「……いらっしゃい」

ショウタが丸椅子に腰を下ろすと、寅吉は客の品定めをする風でもなく、ただ黙々と網の上の串を整えている。

ショウタの目は、自然と寅吉の「手」に釘付けになった。 その手は、血管が浮き出し、節くれ立っていた。長年、熾烈な火の前に立ち続けてきたのであろう、肌は浅黒く焼け、指先には炭の粉が深く染み込んでいる。いくつもの小さな火傷の跡が、まるで戦士の傷跡のように見えた。 自分の、白く滑らかで「何もしてこなかった」手とはあまりに違う、重みのある手だった。

「……ねぎまと、レバーを。あとウーロン茶ください」

「あいよ」

寅吉が串を手に取る。その一連の動きには、一切の迷いがない。 串を打つ、炭を置く、うちわで風を送る。その指先の動き一つ一つが、ショウタが直面している「就活」という名の抽象的な議論とは正反対の、圧倒的な「現実」としてそこにあった。

ジュウッという音と共に、脂の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。ショウタは、立ち上る煙の向こう側で、いっさい余分な動きをしない職人の手捌きを見ていた。

「……大将は、ずっとここで焼いてるんですか?」

耐えきれず漏れた問いに、寅吉は手を止めずに答えた。

「ああ。四十年前からな。この屋台と一緒に、ここで歳をとった」

四十年。ショウタの人生の二倍近い時間を、この男は一本の串に込めてきた。

「……僕は、自分が何をしたいのか分からないんです。大将みたいに、人生を賭けられるものなんて、どこを探しても見つからなくて」

とショウタは、今まで悩んでいた自分の思いを口にした。

寅吉は、焼き上がったばかりの「ねぎま」をショウタに手渡して言った。

「まあ食べな。話は腹を満たしてからだ」

黄金色の脂が光る焼き鳥を一口食べた瞬間、ショウタの全身を熱い衝撃が駆け抜けた。それは、自分が「生きている」ことを実感させる、暴力的なまでの美味さだった。

出された「ねぎま」を、ショウタはおずおずと口に運んだ。 香ばしい醤油の香りと、炭火ならではの遠赤外線が閉じ込めた肉汁が、口の中で弾ける。噛みしめるほどに、ネギの甘みが鶏の脂をまろやかに包み込んでいく。

「……うまい。今まで食べた中で、一番うまいです」

「そうかい」

寅吉は、ショウタの絶賛にも驕ることなく、また次の串に集中する。

ショウタは、どうしても寅吉の「手」から目が離せなかった。 節くれ立ち、いくつもの小さな火傷の跡がある。その手は、決して「美しい」と言われるようなものではない。しかし、先ほどから見ていると、その手から魔法のように美味しい焼き鳥が生み出されていく。

「あの……大将。大将は、若い頃からこの仕事をやりたかったんですか? 天職だと思って始めたんですか?」

ショウタの問いに、寅吉は初めて鼻で笑うような声を漏らした。

「天職? 笑わせるな。俺が二十歳の頃なんて、食うのにも困って、その日暮らしのドカタ仕事から何から、手当たり次第さ。やりたいことなんて考える余裕もありゃしねえ。この屋台だって、親戚のじいさんから安く譲り受けたのを、成り行きで始めただけだ」

ショウタは拍子抜けしたような顔をした。寅吉のような達人は、最初から強い意志を持ってこの道を選んだのだと勝手に思い込んでいたからだ。

「最初から『これだ』なんて思って始めた奴なんて、そうそういねえよ。俺だって、最初は煙いし、熱いし、客には怒鳴られるしで、何度もやめてやろうと思った。だけどな、そうやって毎日必死に串を刺して、火の前に立ち続けてるうちに……気づけばこの手が、焼き鳥屋の手になってたんだ」

寅吉は、自分の大きな手を広げて、ショウタに見せた。

「炭が付いて、黒ずんで、汚ねえ手だろ。だけど俺は、この手が俺の履歴書だと思ってる。何万回、何十万回と串を打ってきた証拠だ。やりたいことなんてのはな、最初から頭の中にあるもんじゃねえ。この手が勝手に見つけてくるもんなんだよ」

ショウタは、自分の白く綺麗な手をじっと見つめた。 傷一つない、どこまでも清潔な手。それは、何かに深くコミットしたことも、泥にまみれて何かに没頭したこともない、無垢な、しかし「中身のない」手のように思えた。

「僕は……間違えるのが怖かったんだと思います」

ショウタは、絞り出すように言った。

「最初から『一生続けられる正解』を見つけなきゃいけないと思っていました。一度決めたら、もう後戻りできないんじゃないかって。だから、何も選べないまま、ただ時間が過ぎるのを待っていたんです」

寅吉は、網の下に新しい炭を足した。火の粉がパチリと跳ね、オレンジ色の光が彼のシワの深い顔を照らす。

「後戻りしたっていいじゃねえか。間違えたら、また別の串を打てばいい。人生なんてのはな、そうやって何本も串を無駄にして、やっと一本、納得のいく焼き加減がわかるようになるもんだ。最初から完璧に焼こうなんて、炭火を舐めてる証拠だぜ」

その言葉は、就活エージェントや大学のキャリアセンターが語るどんなアドバイスよりも、ショウタの心に深く突き刺さった。 社会は「最短距離」を求める。効率よく、失敗せず、自分に最適なルートを瞬時に見つけ出すことを強要する。だが、目の前の職人は「無駄にしろ」と言う。失敗の数だけ、手が何かを覚えるのだと。

「学生さん、あんたの手はまだ綺麗すぎる。それは悪いことじゃねえ。これから、何色にでも染められるってことだ。やりたいことが見つからねえなら、とりあえず、目の前にある一番マシそうなものに、その手を突っ込んでみりゃいい。汚れて、傷ついて、それでも残ったものが、あんたの『やりたいこと』の正体だ」

寅吉は、初めて優しく目を細めて笑った。その笑顔は、厳しい師匠が弟子に向けるような、静かな期待に満ちていた。

ショウタはウーロン茶の最後の一口を飲み込み、深く、長く息を吐き出した。胸の奥に溜まっていた「泥のような焦燥感」は、いつの間にか熱い活力へと形を変えていた。

四本の串とウーロン茶を飲み終えたショウタは、千円札と小銭をカウンターに置いた。

「……ありがとうございました。少しだけ、息ができるようになった気がします」

「おう。また腹が減ったら来な。いつでも焼いてやる」

のれんをくぐり、外に出ると、夜の空気はさらに冷え込んでいた。しかし、心臓の奥の方に、小さな炭火が移されたような、確かな温かさが宿っていた。

駅に向かう道すがら、ショウタは自分の手を握り、開いた。 この手はまだ、何の色もついていない。就活サイトの膨大な選択肢に怯えるのではなく、まずは一歩、どこかの扉を叩いてみようと思った。それがもし自分に合わなければ、また別の扉を探せばいい。寅吉が言ったように、何度も「串」を打ち直せばいいのだ。

空を見上げると、ビルとビルの合間に、冬の星座が冴えざえと輝いていた。 相変わらず、具体的な「将来」は見えていない。内定が出る保証もない。それでも、ショウタの足取りは、屋台に来る前よりもずっと確かで、力強いものに変わっていた。

「……やりたいことは、手が作っていくもの」

彼はその言葉を、自分自身への魔法のように何度も反芻した。 明日の朝、リクルートスーツに袖を通す時、きっと今までとは違う感覚があるはずだ。それは、まだ何も描かれていない真っ白な地図に、最初の一筆を書き込む時の、静かな高揚感に似ていた。

翌朝。 ショウタは大学の図書館のPCに向かっていた。 画面には、これまで「自分には関係ない」と決めつけていた、しかしどこか心の隅で気になっていた教育支援のベンチャー企業のインターン募集ページが開かれていた。

「とりあえず、ここから始めてみよう」

彼はマウスを握る手に力を込めた。キーボードを叩く音は、どこか昨夜の屋台で聞いた炭火のぜる音に似ているような気がした。

ショウタの履歴書には、まだ何も書かれていないに等しい。 しかし、彼の「手」は、これから始まる泥臭い試行錯誤の準備を、静かに整え始めていた。 21歳の秋。遅すぎることも、早すぎることもない。 彼は今、自分だけの「焼き加減」を探すための、長い旅路のスタートラインに立ったのだ。



【おまけ】煤けた提灯の下で、寅吉が学生に伝えたいこと

「おい、学生さんよ。最後に一つだけ、覚えておきな。

世の中の連中は、みんな『輝かしい未来』だの『スマートな成功』だのって、キラキラしたもんを必死に探したがる。だがな、本当に人間を支えてくれる大事なもんってのは、案外こういう煤(すす)だらけの煙ン中とか、泥臭い現場に落ちてるもんだぜ。

教科書読んで、ネットで調べて、頭ん中だけで分かった気になっても、それは『知ってる』だけで『やってる』じゃねえ。熱さも、煙たさも、失敗した時の苦い味も知らねえままじゃ、どんなに立派な言葉を並べても薄っぺらいままだ。

さっき、あんたのその真っ白で綺麗な手を見て思ったよ。これからその手が、何かの汚れで真っ黒になった時……その時初めて、あんたは本物の『自分自身』ってやつに出会えるんじゃねえかな。

焦るなよ。旨い焼き鳥と同じで、人生も中までしっかり火が通るには、それなりの時間がかかるもんだ。生焼けのうちに無理に食おうとしたって、腹を壊すだけだぜ」

「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」


次回 【第3話】ヒロキ25歳、営業職「上司のパワハラで精神的にきつい」

いいなと思ったら応援しよう!

昭和の寅吉 おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!