札幌農学校(北海道大学)の初代校長は誰なのか?
調所 広丈校長
先日、中学生の長男が通学している学習塾で取り扱う歴史の教材を見ていたところ、次の問題があった。
「札幌農学校の初代校長で、農学や英語を教え、多くの優れた人材を育成したアメリカの教育学者はだれか」
札幌農学校は現在の北海道大学の前身であり、また、日本で最初期の学位授与機関(事実上の大学)として設立されたにも関わらず、校長はアメリカ人のウィリアム・スミス・クラークであるという回答を導きだすための設問である。
令和7年7月25日、赤れんが庁舎(北海道旧本庁舎)がリニューアルオープンした。
その二階に「歴代長官・知事アーカイブ」が展示されており、そこに「札幌県令 調所 広丈」の名前がある。
その調所 廣丈が札幌農学校開設に尽力し、札幌農学校初代校長であったという事実を、この赤れんが庁舎に訪れた中で知っている者はどれだけいるのだろうか。
第二次世界大戦後になってようやく、調所 笑左衛門 廣郷の功績が見直され、最近は中学校の教材にも廣郷の薩摩藩での財政改革の功績が掲載されるようになった。
しかしながら、調所 笑左衛門 廣郷の息子である調所 廣丈の功績については、世の中で知っている者は未だに少ない。

札幌農学校開設
今から約150年前、北海道大学の前身となる札幌農学校開設前の札幌学校長 調所 廣丈は、農学校の開設準備に奔走した。
明治9年(1876年)8月14日午前10時から学校の第一講堂で念願であった開校式が開催された。
はじめに黒田 清隆が式辞をし、続いて開拓中判官 堀 基が挨拶した後、同少判官兼札幌学校長 調所 廣丈の告辞が執り行われた。
学生からの答辞の後に、教頭に就任したウィリアム・スミス・クラークより、「日本初の農学校に招かれ、熱心に本分を尽くさん」との祝辞であった。
当時の学校名は札幌学校であり、有名な「札幌農学校」と改称したのは翌月の9月8日である。
札幌農学校の歴史を辿ると、明治5年(1872年)5月に東京に設置された開拓使仮学校は明治8年(1875年)に札幌学校と改称されて札幌に移された後、農学専門校に再編成され、明治9年(1876年)9月に札幌農学校が誕生している。
初代校長は開拓使仮学校校長心得、札幌学校長であった調所 廣丈が継続して担当し、教育には黒田 清隆がホーレス・ケプロンに依頼し、マサチューセッツ農科大学第三代学長の身分のまま、明治9年5月20日から明治10年5月20日迄の1年間の契約でアメリカから招いたウィリアム・スミス・クラークが教頭兼教師として担当することとなった。
クラーク以外の教師には、英語、数学、土木工学担当のウイリアム・ホイラーと、英語、農学、植物、化学担当のデビッド・ピアース・ペンハローがそれぞれ教鞭をとり、明治10年には、ウィリアム・ブルックスが新たに教師として呼ばれている。
札幌農学校設立の目的は、北海道の開拓に従事する専門家の養成であり、学生は卒業後5年間、北海道や樺太の行政を担当するために明治2年(1869年)に設置された開拓使という官庁に勤務することを義務づけられていた。
開拓使については、明治4年(1871年)に東京から札幌に本庁が移され、その主要な役職については、黒田 清隆や調所 廣丈などの薩摩藩出身で明治維新の際に活躍した者が独占していた。
黒田 清隆と調所 廣丈は、開拓使の中では上司と部下という関係ではあったが、同じ年に生まれた薩摩藩出身であり、また、明治維新前後の動乱の時代を共に駆け抜けた仲であり、互いに強い絆で結ばれていたことから、札幌農学校や札幌の現況報告から黒田の趣味の遊猟に至るまで、当時は手紙などで多くの情報を共有していた。
初代校長であった調所 廣丈は、質素な薩摩人らしい人柄で、自ら創建に奔走した札幌農学校のことを誰よりも誇りにしていた。
札幌農学校では教育の一切は外国人教師に任せていたが、その前身となる北海道の開拓に必要な人材を育成することを目的とし、明治5年(1872年)5月、東京に設置された開拓使仮学校においては、生徒達が支給していた洋服の制服を着用せずに着慣れた和服を着用していたことから、洋服の着用について、校則違反とならないよう明治6年(1873年)4月に開拓使仮学校長心得となった調所 廣丈が指導したこともあった。


クラーク教頭
ウィリアム・スミス・クラークは、マサチューセッツ州立アマスト大学から西ドイツのゲッチンゲン大学に留学し、博士の学位を取得後、帰国し、アマスト大学化学教授、マサチューセッツ農科大学長という経歴で、南北戦争での北軍大佐の経歴もあったことから、来日してからは学者というよりは軍人気質の評価が強かった人物である。
クラークは、黒田 清隆の強い反対を押し切ったうえで学生に聖書を配布し、キリスト教の宣教を行った。
また、自ら在学していたアマスト大学と同様に教授も含めて禁酒禁煙の誓約書に署名をさせていたが、クラーク自身は実践していなかったという。
全ての授業は英語であったため、語学力についていけない者は退学した。
アメリカから持参したブランデーの瓶を学生の目の前でたたき割ったこともあり、開校式でのクラークの祝辞「熱心に本分を尽くさん」を実現するために、来日してからの札幌農学校に対する熱い思いが伝わってくるエピソードである。
クラークの日本における実際の札幌滞在期間は明治9年(1876年)5月20日から明治10年4月16日迄で、往復の日数を差し引いた実際の札幌の滞在期間は8か月という僅かな期間であり、クラークの教えを受けたのは、一期生の24人(その後、卒業できたのは13人)のみである。
一期生は札幌学校からの進学組の中で進学テストに合格した13人と、東京英語学校からの進学組11人で、その24人は来日早々のクラークが面接し選抜していた。
学生の資格は18歳以上25歳までで、4年の学業を終えると5年間の開拓使勤務を義務付けられる代わりに、在学中の学費や生活費については官費であった。
任期となった明治10年(1877年)4月16日、調所校長をはじめ、教授や学生たちの関係者25人がクラークの帰国を見送った。
クラークは見送りの一行に対し、訓示を残すが、その意味をさまざまな形に広げて伝えたのは、記録ではなく、その場にいた学生達の記憶からであった。
なお、札幌農学校を去る直前の4月14日には、調所 廣丈がクラークを別盃(送別会)に招くとともに、クラークが自らを撮影した写真の裏に調所 廣丈に対し、今までの敬意をこめたメッセージを残したものを渡して感謝の意を伝えている。
クラークは帰国した後の明治12年にマサチューセッツ農学校長を辞任したが、晩年は不運続きであり、明治19年(1886年)3月9日に亡くなっている。

男爵 調所 広丈
調所 廣丈は薩摩藩出身で、戊辰戦争に従軍し、明治5年(1872年)1月から開拓使に勤務した。
明治6年(1873年)4月に開拓使仮学校校長心得、同年8月に少判官兼札幌学校長、明治9年(1876年)9月から開拓権大書記官兼札幌農学校長を明治14年(1881年)2月迄の4年半の間、歴任し、同校の基礎づくりに尽力した後、明治15年(1882年)札幌県令、明治19年(1886年)に元老院議官に任ぜられ、その後、高知県知事、鳥取県知事などを経て、貴族院議員を勤め、明治33年(1900年)5月、勲功によって男爵を授けられ、明治44年(1911年)12月30日に東京で病死している。
廣丈は、天保11年(1840年)4月1日に調所笑左衛門廣郷の三男として生まれ、弘化2年(1845年)11月22日に調所家本家の調所 廣容の養子となった。
調所の本家は、始祖となる天児屋根命を祖神に持つ藤原 鎌足の子孫である太政大臣藤原伊尹の孫で、藤原 恒親(寛弘元年・1004年頃)の家系を継いでいる。
恒親は神職として京都から大隅国へ赴任するに際し、調所職という徴税職を仰せ付かっていたことから、11世紀初め頃から調所を姓と名乗っていた。
16世紀には島津家の家臣となり、藩政期に入ると姓を調所と呼ぶようになった。

調所 笑左衛門 広郷
調所 廣丈の実父である調所笑左衛門廣郷は、茶道坊主の身分から天保9年(1838年)には薩摩藩の財政立役者として家老まで出世した人物である。
文政10年(1827年)に財政難に陥っていた薩摩藩の財政改革に着手し、国内産物の専売や藩債の強制などで財政を再建し、河川や新田開発などのインフラや強力な軍事力を整備するとともに、多額の貯蓄を築き上げたことにより、後の幕末における明治維新の基盤作りに繋がっている。
天保6年(1835年)4月21日、当時の将軍であった徳川 家斉より廣郷の財政改革の功績が評価された。
徳川 家斉に嫁いで王室となった薩摩藩第9代藩主であった島津 斉宣の姉の広大院の計らいによって、江戸の大奥に招き入れられ、当時家老格であった調所 廣郷に対し名刀が授与されている。
その後、薩摩藩第10代藩主であった島津 斉興の側室の子で、調所 廣郷の財政改革の理解者であり、島津 斉興と調所 廣郷が支持していた島津 久光と正室出生の島津 斉彬(後の薩摩藩第11代薩摩藩主)による後継者争い(お由羅騒動)の中で、薩摩藩が行っていた密貿易が発覚し、そこに江戸幕府が介入したことで、その責任を取らされて調所 廣郷は失脚させられ、自害している。
江戸時代の鎖国体制下で行われた琉球貿易により利益を上げていた薩摩藩の密貿易については、薩摩藩主や藩内、江戸幕府も公然の事実として知っていたことではあったが、当時の薩摩藩主の後継者争いに巻き込まれた調所 廣郷は、密貿易の責任を薩摩藩家老の独断として押し付けられた。
その調所 廣郷の三男であった廣丈については、5歳の時に世間に分からないよう調所家本家へ養子に出されている。
生き残った廣丈は、過去を多く語ることはなかったが、自らの姓を先祖が使用していた本来の読み方である「ずしょ」ではなく「ちょうしょ」と名乗るようにしていた。
財政改革を成し遂げた功績がありながら、財政再建後の薩摩藩を守るために責任を取らされて犠牲とならなければならなかった調所 廣郷の血を引いた息子 廣丈は、どのようにして明治維新後に出世することができたのだろうか。

調所 広丈 明治維新前後の活躍
江戸時代末期の元治元年(1864年)、薩摩藩第12代(最後の)薩摩藩主である島津 忠義(久光の長男)は、弟の島津 珍彦(久光の三男)に自分の代理として、幕末で混乱していた京都を守護する藩兵総裁に任命し上京させた。
当時の薩摩藩は、薩摩藩第10代藩主であった島津 斉興の側室の子で斉興と廣郷が支持したが藩主になれなかった島津 久光が、その嫡男の忠義に代わって実権を握っていた。
調所 廣丈は、その随行を命じられ、京都で勤務することとなった。
廣丈は、国内の混乱で動揺していた時期に、久邇宮朝彦親王や、仁和寺宮(小松宮)彰仁親王、朝廷の重臣であった近衛家などに対し、しばしば密命を受けたうえで、幕末の京都で奔走していた。
同年7月、前年8月18日に発生した政変(薩摩藩と会津藩が中心となり画策し、朝廷内で天皇の支持を得たうえでクーデターを起こし、当時、会津藩の非正規組織であった新選組が出動し活躍した事件)で京都を追われた長州藩が兵を京都に進め、朝廷を武力で掌握しようとした禁門の変が起こると、幕府側についていた薩摩藩の廣丈は皇居に急いで行き、長州藩を相手に市街を転戦し、その後、兵を郊外へ進めて京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎の地に陣を置いた。
その後、薩摩藩は長州藩と同盟することとなり、共に倒幕に向けた路線へと転換することとなる。
明治元年(1868年)1月、廣丈は、薩摩・長州軍と幕府軍との間の戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いに従軍し、皇居を守るために戦い、諸隊との間を伝令した。
同年7月、北陸道を進んでいた官軍の中で、廣丈は部隊長を命ぜられ、その部隊を率いて新潟、村上に進みながら健闘し、さらに進んで庄内藩を降伏させ、平定をもたらした後、東京に凱旋した。
明治2年(1869年)、江戸幕府が降伏した後も、旧幕府の脱走軍が占領を続けていた函館での箱館戦争に際し、廣丈は当時の参謀であった黒田 清隆の命令を受けて軍資金を集めることとなった。
年々続く戦いにより、調所 笑左衛門 廣郷の財政改革による薩摩藩の財政は逼迫し、父の廣郷のように、今度は廣丈が薩摩藩の軍資金を集めるため奔走した。軍資金集めは困難を極めたが、廣丈は軍需物資などを強制的に集めることで、何とか軍資金を確保することができた。
その後、廣丈は、黒田 清隆と共に、薩摩藩がイギリスから購入した軍艦の春日丸に乗って東京を出発し、現在の岩手県の宮古湾の鍬ケ崎に停泊していたところ、旧幕府軍の艦隊が急に攻撃してきた。
停泊していた春日丸の大砲を動かすことができず、廣丈は春日丸に乗っていた兵士達に命じて小銃により、敵である旧幕府軍の軍艦の甲板上と砲門を攻撃させたところ、敵艦は逃亡したため、急いで追跡したところ、敵艦は座礁した後、船を焼いて陸上へ移動したため、廣丈達の兵も岸に上って追いかけ、奇襲してきた旧幕府軍を降伏させた。
この戦は宮古湾海戦として語り継がれている。
続いて青森港を経由して、蝦夷地(北海道)の江差に航海し、旧幕府軍を打ち払い、各方面の新政府軍が一斉に進んで、榎本武揚の率いる旧幕府軍の本拠地であった函館の五稜郭を占領した。
これにより箱館戦争は終結し、廣丈は5月に東京に凱旋した。
明治5年(1872年)1月、廣丈は東京に呼び出され、開拓使に勤務することとなった。
明治7年(1874年)、政府内の対立に敗れて辞任した工藤 新平と島義 勇らが、政府の開化政策に反対し、佐賀の不平士族とともに兵を率いて佐賀の乱が発生した。
廣丈は、北海道開拓次官であった黒田 清隆より密命を受け、大久保 利通とともに佐賀に行き、大久保 利通を補佐し、平定をもたらした後、東京に凱旋した。
同年10月、宮古島住民が台湾に漂着して殺害したことに日本が抗議し、初めて海外へ兵を送ったことになった台湾出兵の事件の後始末のため、特命全権弁理大臣として北京に派遣された大久保 利通は清国(中国)政府と交渉した。
交渉は長期に渡り難航を極め、清国との戦争に発展する可能性があったことから、国内は不安定となっていた。
そのため、太政大臣の三条 実美公と北海道開拓長官の黒田 清隆から、廣丈は秘密の使命を受けて、10月に開拓使の官船である玄武丸を用意し清国の天津に向かった。
当時の清国は日本人の北京への往来を禁止しており、厳重な警備により立ち入ることができなかった。
そこで廣丈は策略を考え、玄武丸のお雇い外国人フロヲンをアメリカの商人とし、廣丈をその従者として偽ることで、なんとか清国の北京に辿り着き使命を果たすことができた。
間もなく、清国政府との交渉は和解へと決着し、廣丈は11月に日本へ帰国した。
その後、廣丈は、12月21日16時から、延遼館(東京都中央区の浜離宮北門にあった館)で大久保利通と食事をしている。
明治10年(1877年)、征韓論(朝鮮侵略論)に敗れ、政府を辞任し鹿児島に帰郷した西郷隆盛らが士族組織として私学校を結成したが、政府との対立が次第に高まり、ついには私学校生徒らが西郷隆盛を擁して鹿児島で挙兵し、熊本城を包囲して反乱を起こしたが、政府軍により鎮圧され、最後は郷里の鹿児島市の城山に立てこもり切腹したという明治維新政府に対する不平士族の最後の反乱となった西南戦争が起きた。
その際に、黒田清隆の指揮により、士族出身者が多くを占めていた北海道の屯田兵を九州へと出陣させた。
屯田兵は北海道の警備や開拓のため、普段は軍事訓練をしながら農耕をして永住していた組織であり、北海道へと移住してからの時間が経っておらず、ほとんどの働き手が西南戦争への応援に従軍していたため、開拓していた北海道の耕地が荒れ果てようとしていた。
そこで廣丈は、さまざまな手を尽くし、その家族を励まし、ようやく農耕を維持することができるようになった。
明治15年(1882年)2月、政府は開拓使を廃止することを決定した。
開拓使廃止後の北海道は、三県(札幌、函館、根室)に分けられたが、同年2月10日、廣丈の今までの功績を評価していた西郷従道と黒田清隆が政府へ具申し、廣丈自身の札幌県令などが含まれた草案について評議中ではあったが、廣丈へ内々に伝えられ、札幌県令を拝命した。
明治25年(1892年)、廣丈が高知県知事から鳥取県知事に就任した際には、就任翌年の明治26年(1893年)10月14日に鳥取県内で台風が発生し、未曾有の大洪水の被害に遭遇した。
八幡神社馬場の前から十日市村高田までの右岸堤防が決壊し、多くの県民が土中から稲穂を掘り出して飢えをしのぐ状況であった。
廣丈は、すぐに復旧事業の計画を策定し、政府に訴えた後、国庫から復旧工事費の支出を確保した。
復興するまで3年の月日を要したが、これにより県内の復興事業に大きく貢献し、復興後の明治29年(1896年)12月8日には、鳥取県民を代表した議員28人より感謝の意を表された。


おわりに
生前、廣丈は10人の子孫を残した。
その中で長女の「いわ」を、初代校長の役職を全うした札幌農学校の一期生の中で首席の栄冠を獲得した荒川 重秀に嫁がせた。
荒川は在学中、後の北海道帝国大学初代学長となる佐藤 昌介と首席を争った秀才で、明治13年7月の卒業式には卒業生総代として英語の卒業演説をしている。
誰よりも札幌農学校を愛し、幕末から明治の時代に尽力し、未開の地であった北海道の開拓に大きな足跡を残した廣丈が亡くなる7年前に、東京から札幌へ赴いた際の一句である。
明治37年札幌にて
夏の暑さ 来さぬ関が 空にある
夏も涼しき 石狩平野

