短編小説 お盆の帰り
「お盆って、本当に帰ってくるのかな」
子どもの頃、おばあちゃんによく聞いた。
「帰ってくるよ。でも怖いものじゃない。会いたい人のところへ帰ってくるんだよ」
その言葉を、あの頃はなんとなく聞いていた。
でも大人になると、不思議な話を馬鹿にするようになった。
幽霊なんていない。
見間違いだ。
科学で説明できる。
だけど、今年のお盆は少しだけ考え方が変わった。
夕方、あまりにも暇だったので散歩に出た。
夕方になると少しだけ風が吹く。
蝉の鳴き声が少しずつ小さくなり、空はオレンジ色に染まり始めていた。
歩いていると、小さな神社が見えた。
境内には誰もいない。
風鈴だけが静かに鳴っていた。
チリン。
チリン。
その音を聞いているだけで、不思議と心が落ち着いた。
線香の香りが風に乗って流れてくる。
「ああ、お盆だなぁ」
そんなことを思いながら帰ろうとした時だった。
「元気にしてる?」
後ろから声が聞こえた。
振り返っても、誰もいない。
聞き間違いかと思った。
でも、どこか懐かしい声だった。
おじいちゃんの声によく似ていた。
もう二度と話せないおじいちゃん。
少しだけ鳥肌が立った。
だけど、不思議と怖くなかった。
むしろ胸の奥が温かくなった。
そのまま歩き続ける。
すると、一匹の白い猫が僕の前を歩き始めた。
逃げることもなく、振り返りながら歩いている。
「ついてこい。」
そう言われているようだった。
僕も何となく後をついて行った。
住宅街を抜け、小さな公園へ着く。
そこには一本だけ大きな木が立っていた。
昔、よく遊んだ場所だった。
ブランコは新しくなっていたけれど、木だけは昔のままだった。
風が吹く。葉っぱが揺れる。
その瞬間だった。
木の下に誰か立っているように見えた。
白い服。優しい笑顔。
一瞬だけだった。瞬きをしたら消えていた。
「……気のせいか。」
そう思った。
だけど涙だけは止まらなかった。
理由なんて分からない。
何も起きていない。誰とも話していない。
それなのに涙だけが流れていた。
人は会いたい人がいる。
会えないから苦しい。
でも、もし一年に一度だけ、本当に帰ってこられる日があるなら。
僕はその日くらい、信じてみてもいいと思った。
全部を否定してしまうのは、少し寂しい。
家へ帰ると玄関で風鈴が揺れていた。
風なんて吹いていない。なのに、一度だけ鳴った。
チリン。
「おかえり。」そう言われた気がした。
家に入り、仏壇へ線香をあげた。
生きていると、失って初めて気付くものが多すぎる。
もっと話しておけばよかった。
もっと笑わせればよかった。
もっと会いに行けばよかった。
その「もっと」は、もう叶わない。
だからこそ、お盆という日は大切なのかもしれない。
後悔を抱えた人たちに、「まだ想っているよ」と伝えられる日。
帰ってきた人たちも、きっとその一言を聞きたいだけなのかもしれない。
「忘れてないよ。」
たったそれだけで十分なのだと思う。
夜になり、窓を開ける。
遠くで花火の音が聞こえる。
子どもたちの笑い声。
どこかの家から漂う夕飯の匂い。
そんな何気ない夏の景色を見ていると、不思議なことを考えた。
もし霊が本当にいるのなら、きっと派手には現れない。
怖い顔で脅かしたり、物を動かしたりするよりも、大切な人が元気に笑っている姿を静かに見守っている気がする。
会いたい気持ちは、生きている人だけのものじゃないのかもしれない。
向こうも、きっと会いたい。
でも触れられない。
話せない。
だから風になる。
線香の香りになる。懐かしい夢になる。
ふと聞こえる声になる。
それくらいしか方法がないのかもしれない。
そう思うと、少しだけ切なかった。
夜空を見上げる。
星が一つだけ強く光っていた。
「また来年。」
自然とその言葉が口からこぼれた。
返事はない。
でもその瞬間だけ、夏とは思えないほど涼しい風が頬をなでた。
偶然だったのかもしれない。
気のせいだったのかもしれない。
それでも僕は、あの日のおばあちゃんの言葉を思い出した。
「帰ってくるよ。でも怖いものじゃない。」
昔は意味が分からなかった。
今なら少しだけ分かる気がする。
霊が怖いのではない。
本当に怖いのは、大切な人を忘れてしまうこと。
名前を呼ばなくなること。
思い出さなくなること。
人は二度死ぬ、と聞いたことがある。
一度目は命が終わる時。
二度目は、誰からも思い出されなくなった時。
だから、お盆という日は命のための日ではなく、記憶のための日なのかもしれない。
会えなくてもいい。
姿が見えなくてもいい。
ただ「今年も来てくれたかな」と空を見上げる。
だって人は、目に見えるものだけで生きているわけじゃない。
目には見えない優しさや、愛情に何度も救われながら生きている。
だから今年のお盆くらいは、少しだけ空席を作って待ってみようと思う。
「おかえり。」
その一言を心の中でつぶやいてみる
