【掌編小説】子々孫々まで
アメリカ・イスラエルの先制攻撃により始まったイラン戦争が激しくなってきたころだった。
早朝、風雅は強引に起こされた。起こした主は父の一平だった。
一平は眠気眼の風雅に新聞を読むように手渡した。
読むように勧められた新聞記事は戦争についての寄稿だった。
軍神岩佐中佐。前橋市出身で、日本海軍において偉大な活躍をされた方です。しかし、岩佐中佐が具体的にどのような活躍をされたかまで詳しく知る人は少ないです。それは、私も同様です。
私自身、会社の先輩から特攻により真珠湾攻撃の成功に大きな功績を残した人物であることを教えて頂いた時、驚きました。
この真珠湾攻撃について、アメリカは、「リメンバー・パールハーバー」と日本を非難します。言い換えれば、先制攻撃を悪として強く否定します。
では、イランに対するアメリカの先制攻撃はどうでしょうか。
アメリカはイランに対する核兵器の開発を阻止するという大義を主張します。
日本の真珠湾攻撃においても、資源がない日本が必死で資源を確保したいという大義があったに違いありません。
よって、先制攻撃として非難される真珠湾攻撃においても、違った検証が必要だと思います。
また、その過程において、岩佐中佐がどう考えて、己をどう納得させて、真珠湾攻撃に向かったのかについて学ぶ意義があると思います。
寄稿者の名前は宮内平。風雅の祖父だった。
十三歳の風雅にとって記事を読了するのは一苦労だったが、祖父の文が新聞に掲載されていたことに感動を覚えた。
風雅が新聞から目をあげたとき、一平はほほ笑みかけた。
「岩佐中佐のお墓参りにいくか」
風雅は朝から何を言っているのだよ、と言い返してやろうと思った。でも、その日の一平はそれを許さない雰囲気があった。また、どうしてだろう。風雅はその誘いで今日という一日が素晴らしい一日になると予見することができた。
「うん」
快諾する風雅の声調は明るかった。
お墓は松竹院という禅寺にあった。
天気に恵まれたこともあったのだろう。松竹院は厳かという言葉そのものだった。
駐車場に車を止めて細い道を歩いて松竹院へ向かった。入ってすぐのところに岩佐中佐のお墓はあった。
次回の墓参の日付が十二月八日を基準に書かれていた。
「十二月八日、何の日か知っているか?」
風雅が首をふると、一平は辛さを隠した優しい目をした。
「真珠湾攻撃の日。第二次世界大戦が始まった日だよ」
お墓には、中佐の功績を紹介する掲示板があり、墓前を正面に両側に岩佐中佐に対する敬意等が刻まれた石碑があった。
一平は墓前に合掌をして頭を下げ、頭をあげた。風雅もそれに倣った。
風雅は一連の動作を終えて、少し視線をあげたところに蜜柑がなる樹を見つけた。
風雅はしばらくその鮮やかなオレンジ色を見つめて、立ち尽くした。
背後から一平の声が聞こえた。
「俺も、お前のおじいちゃんの平じいちゃん。すなわち、俺の父親にここに連れてこられたことがある。おじいちゃんは、戦争は『悪』で間違いない。でも、正義の認識の違いから生じる、と言った。だから、お前にも伝えたかったんだ。正しい正義を疑う正しさを持ってくれよ」
一平が風雅の能力で表現することができなかった戦争というものを言語化したとき、風雅は戦争を忌避するだけでなく、向かい合う強さの必要性を感じた。
あれから二十年以上経った。
今、風雅の娘が岩佐中佐の墓前で合掌をしている。風雅は戦争を知らない世代だ。娘もそうだ。
悔しいけれども、お墓参りでしか学べない戦争のむごさ、子々孫々まで伝えていければと願った。
お墓の傍の蜜柑はその日も鮮やかだった。
(了)
オレンジ色(推敲:2回目 20260426)
深夜までゲームをしていた翌日のことだった。
私は強引に起こされた。起こした主は父だった。
父は眠気眼の私に新聞を読むように手渡した。
一面には、アメリカ・イスラエルの先制攻撃により始まったイラン戦争の記事がおどっていた。
どこを読んだらいいの? と訊く私に、父は投書欄にある戦争に関する寄稿に目を通すことを促した。
軍神岩佐中佐。前橋市出身で、日本海軍において偉大な活躍をされた方です。しかし、岩佐中佐が具体的にどのような活躍をされたかまで詳しく知る人は少ないです。それは、私も同様です。
私自身、会社の先輩から特攻により真珠湾攻撃の成功に大きな功績を残した人物であることを教えて頂いた時、驚きました。
この真珠湾攻撃について、アメリカは、「リメンバー・パールハーバー」、と日本を非難します。言い換えれば、先制攻撃を悪として強く否定します。
では、イランに対するアメリカの先制攻撃はどうでしょうか。
アメリカはイランに対する核兵器の開発を阻止するという大義を主張します。
日本の真珠湾攻撃においても、資源がない日本が必死で資源を確保したいという大義があったに違いありません。
よって、先制攻撃として非難される真珠湾攻撃においても、違った検証が必要だと思います。
また、その過程において、岩佐中佐がどう考えて、己をどう納得させて、真珠湾攻撃に向かったのかについて学ぶ意義があると思います。
寄稿者の名前は祖父だった。父に寄稿者は祖父なのかと確かめた。父は頷いた。私も祖父の文が新聞に掲載されていたことに感動を覚えたが、父はそれ以上に感動したようだった。
「飯を食べたら、岩佐中佐のお墓参りへ行くぞ。駅前にあるそうだ」
スマホを示した父は、出撃、と号令をかける隊長のごとく命令した。
私はいかに感動したとはいえ、朝から何を言っているのだよ、落ち着けよと父をなだめようとした。でも、その日の私は父の思いを受け入れる何かがあった。
「よし。いこう」
私はこの快諾によって、経験値は違えど、祖父、父、私と同じものを感じられる気がした。
お墓は前橋駅から徒歩で十分前後の松竹院という禅寺にあった。
近隣に看板もあったこともありすぐに見つけることができた。
天気に恵まれたこともあったのだろう。松竹院の境内は厳かという言葉そのものだった。
入ってすぐのところに岩佐中佐のお墓はあった。
お墓の手前に次回の墓参の日付が十二月八日を基準に書かれていた。
「十二月八日、何の日か知っているか?」
私が首をふると、父は辛さを隠した優しい目をした。
「パールハーバー。真珠湾攻撃の日。おじいちゃんの文章に書かれていた日本軍が奇襲攻撃をしかけた。第二次世界大戦が始まった日だよ」
お墓には、中佐の功績を紹介する掲示板があり、墓前を正面に両側に岩佐中佐の顕彰が刻まれた石碑があった。
父は墓前に合掌をして頭を下げ、頭をあげた。私もそれに倣った。
なんだ、単純なお墓参りじゃないか、と思いつつ一連の動作を終えた。すると、少し視線をあげたところにオレンジ色の果実がなる樹を見つけた。
私はしばらくその鮮やかなオレンジ色を見つめて、立ち尽くした。
背後から父の声が聞こえた。
「俺も、おじいちゃんに連れてきてもらったことがあるんだ。その時は十二月八日だった。俺はパールハーバーは夏だと勘違いしていた。でも、北半球では十二月八日が夏だから、パールハーバーは日本では冬なんだ。夏と冬。正しいことは正しいのにな。あの時、日本は間違いなく苦しかった。いつか子供ができたら、ここに連れてきてやってくれ」
父が私の知識や能力で表現することができなかった戦争、いや侵略戦争というものを言語化したとき、私は戦争を忌避するだけでなく、向かい合う強さの必要性を感じた。
あれから二十年以上経った。
今、私は娘と岩佐中佐の墓前で合掌をしている。私も娘も戦争を知らない世代だ。
悔しいけれども、画面を通しでは、決して感じえぬ戦争の悲惨さ。
あの日、父が教えたかったことの意味はまだ私には言語化できない。ただ、同じ過ちを犯したくない。それだけだ。
ふと視線をあげた。お墓のオレンジの果実は鮮やかだった。
(了)
オレンジ色
軍神岩佐中佐。前橋市出身で、日本海軍において偉大な活躍をされた方です。しかし、岩佐中佐が具体的にどのような活躍をされたかまで詳しく知る人は少ないです。それは、私も同様です。
私自身、会社の先輩から特攻により真珠湾攻撃の成功に大きな功績を残した人物であることを教えて頂いた時、驚きました。
この真珠湾攻撃について、アメリカは、「リメンバー・パールハーバー」、と日本を非難します。言い換えれば、先制攻撃を悪として強く否定します。
では、イランに対するアメリカの先制攻撃はどうでしょうか。
アメリカはイランに対する核兵器の開発を阻止するという大義を主張します。
日本の真珠湾攻撃においても、資源がない日本が必死で資源を確保したいという大義があったに違いありません。
よって、先制攻撃として非難される真珠湾攻撃においても、違った検証が必要だと思います。
また、その過程において、岩佐中佐がどう考えて、己をどう納得させて、真珠湾攻撃に向かったのかについて学ぶ意義があると思います。
高崎線の車内だった。昔、投稿した文章だ、と言われ渡された父のエッセイを読み終えた。私は生まれも育ちも横浜だ。でも、父の故郷が前橋という関係で、前橋に遊びにくる機会が多い。だから、前橋には馴染みのところも多い。だが、この岩佐中佐という人物は全く知らなかった。
前橋駅の改札を抜けると、父は、ついて来い、とどすの利いた声を出して、前橋駅北口を右に真っ直ぐ歩き始めた。
徒歩で十分前後歩いただろうか。岩佐中佐の墓と書かれた看板があった。
そこから細い小道を抜けていくと松竹院という禅寺に突き当たった。
天気に恵まれたこともあったのだろう。松竹院の境内は厳かという言葉そのものだった。
入ってすぐのところに岩佐中佐のお墓はあった。
お墓の手前に次回の墓参の日付が十二月八日を基準に書かれていた。
「十二月八日、何の日か知っているか?」
私が首をふると、父は辛さを隠した優しい目をした。
「もうお前たちの世代は知らないよな。俺たちの世代だって知っている人間は僅かだと思う。パールハーバー。真珠湾攻撃の日。日本軍がABCD包囲網によって追い込まれたすえに決めた奇襲攻撃をしかけた日だよ」
お墓には、中佐の功績を紹介する掲示板があり、墓前を正面に両側に岩佐中佐の顕彰が刻まれた石碑があった。
父は墓前に合掌をして頭を深々と下げ、それから頭をゆっくりとあげた。私もそれに倣った。
なんだ、単純なお墓参りじゃないかと一連の動作を終えようとした。すると、頭をあげようとしたとき、視線の先にオレンジ色の果実がなる樹を見つけた。私はしばらくその鮮やかなオレンジ色を見つめて、立ち尽くした。
背後から父の声が聞こえた。
「お願いがあるんだ。いつか子供ができたら、ここに連れてきてやってくれ」
「どうして?」
「俺は戦後に生まれている。だから、戦争を知らない。でも、お前に生きたくても、生きることができなかった人がいることを伝えることはできる。それを奪ってしまった戦争というものがあったことを伝えることができる。奇襲攻撃は間違っている。でも、真珠湾攻撃において、日本国民は間違いなく苦しかった。そして、若者を戦争の犠牲にしても構わないという無言の圧力があった。そのことだけは知って欲しいんだ」
父は涙声だった。
「わかった」
あれから二十年以上経った。今、私は娘と岩佐中佐の墓前で合掌をしている。
もちろん、私も娘も戦争を知らない世代だ。だから、見知らぬ人に殺され、見知らぬ人を殺す戦争というものの本当の悲惨さは感じられるはずもない。
でも、その悲惨さを少しでも娘に伝えて、父との約束を果たしたい、と中佐のお墓の前で合掌をして、平和な世の中を祈り、ふと視線をあげた。お墓のオレンジの果実は鮮やかだった。オレンジの果実は娘の視線に入ったのだろうか。私の娘だ。入ったはずだ。伝わったはずだ。
戦争はあってはならない。
私は情熱を持って娘に戦争について語り始めた。
(了)
