【短編恋愛小説】閉ざされた心、未来への扉 全編
プロローグ 水瀬蒼
十年前のあの日、俺は何も気づけなかった。
栞が何を抱えていたのか。どれほど苦しんでいたのか。彼女が見せる笑顔の裏で、どれだけ心が悲鳴を上げていたのか。
幼馴染だった。隣の家に住んでいて、物心ついた時からずっと一緒だった。同じ小学校、同じ中学校、同じ高校。いつも隣に栞がいるのが当たり前で、それが永遠に続くと思っていた。
高校二年の夏。俺たちは付き合い始めた。告白したのは俺の方だった。夕暮れの教室で、二人きりになった時。「ずっと好きだった」と伝えた時、栞は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「私も。ずっと、蒼のことが好きだった」
その声は優しくて、温かくて。俺は世界で一番幸せな人間だと思った。
それから半年。栞の笑顔が少しずつ変わっていったことに、俺は気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
「大丈夫?」
何度か尋ねた。栞はいつも同じように答えた。
「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
その言葉を、俺は簡単に信じた。受験勉強が忙しいんだろう。そう思って、深く追求しなかった。
二月の寒い朝。栞は学校に来なかった。風邪だと聞いて、放課後に見舞いに行こうと思った。でも、昼休みに呼び出された。職員室で、担任の先生が青い顔をしていた。
「水瀬、お前に伝えなきゃならないことがある」
その瞬間、世界が止まった。
栞は、もういなかった。
自ら命を絶った。遺書には何も書かれていなかった。ただ、俺宛の手紙だけが残されていた。
『蒼へ。ごめんね。あなたは何も悪くない。ただ、私が弱かっただけ。幸せになってね』
何も悪くない? 冗談じゃない。
俺が気づいていれば。俺がもっと栞を見ていれば。俺がちゃんと話を聞いていれば。
栞は死ななくて済んだかもしれない。
それから十年。俺は教師になった。生徒たちの小さな変化にも気づけるように、いつも目を光らせている。でも、誰とも深く関わろうとはしない。
また、誰かを傷つけるのが怖いから。
また、誰かの苦しみを見逃すのが怖いから。
俺が愛すると、相手を不幸にする。そう信じて生きてきた。
それが、あの日まで――
第一章 出会い
駅前の書店で、俺は彼女に出会った。
その日は雨だった。閉店間際の書店に、俺は駆け込んだ。傘を持っていなくて、びしょ濡れだった。
「すみません、まだ開いてますか?」
息を切らせながら尋ねた。カウンターにいた女性店員が、明るい笑顔で答えた。
「はい、あと十五分は大丈夫ですよ」
ほっとして店内に入った。文学コーナーに向かい、授業で使う本を探した。夏目漱石の『こころ』。これを使おうと思って、手に取った。
レジに持っていくと、さっきの店員が笑顔で迎えてくれた。
「良い選択ですね。何度読んでも新しい発見がある作品です」
そんなことを言う書店員は、初めてだった。
「そうですね。学生の頃に読んで以来です」
「お仕事で使われるんですか?」
「ええ、まあ。教材として」
「国語の先生ですか?」
「はい。高校で教えています」
会計を済ませながら、少しだけ会話をした。彼女の声は明るくて、本について話す時の表情が生き生きとしていた。
「ありがとうございました。助かりました」
本を受け取って、店を出た。雨の中を歩きながら、なぜか彼女のことが頭に残っていた。
いや、考えるな。ただの店員と客の会話だ。
それ以上の意味はない。そう自分に言い聞かせた。
二週間後、また同じ書店に立ち寄った。別に、あの店員に会いたいわけじゃない。ただ、駅前で一番大きな書店だから、自然と足が向くだけだ。
店内に入ると、彼女がいた。カウンターで本を整理している。
目が合った。
「あ、こんにちは。また来てくださったんですね」
覚えていたのか。俺は少し驚いたが、平静を装って頷いた。
「ええ。参考書を探しに」
「何かお手伝いできることがあれば、声をかけてくださいね」
彼女の笑顔は、眩しかった。
教育書のコーナーに向かったが、なぜか本の内容が頭に入ってこない。意識が、カウンターの方に向いてしまう。
ダメだ。こんなことは。
適当に一冊手に取って、レジに向かった。
「ありがとうございます。あ、この本、評判良いんですよ」
彼女が本を見ながら言った。
「そうなんですか」
「はい。現代の教育問題について、とても分かりやすく書かれてるって」
会話が続く。俺は適当に相槌を打ちながら、早く会計を終わらせようとした。
「あの……」
彼女が少し躊躇いがちに言った。
「もしよければ、お勧めの本とか、またお話聞かせてください。私、本が好きで、色々な人の意見を聞くのが楽しいんです」
断るべきだ。ここで関係を断ち切るべきだ。
でも、俺の口は勝手に動いていた。
「……ええ、機会があれば」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! 楽しみにしてます」
店を出て、深く息をついた。
何をしている、俺は。
第二章 距離
それから、週に一度くらいのペースで書店に通うようになった。
自分でも、なぜそうしているのかわからなかった。本を買う必要がある時だけでいいはずなのに、気づけば足が向いている。
彼女の名前は、橘陽菜というらしい。名札を見て、初めて知った。
少しずつ、会話が増えていった。本の話。仕事の話。天気の話。
陽菜は、いつも明るかった。前向きで、優しくて。俺とは正反対だ。
ある日、俺は尋ねられた。
「水瀬さんって、どんな本が好きなんですか?」
少し考えてから答えた。
「昔は、色々読んでいました。でも最近は……あまり」
「どうしてですか?」
「……忙しいから、ですかね」
嘘だった。本当の理由は、別にある。
栞が死んでから、本を読むのが辛くなった。特に恋愛小説は。あの頃の幸せを思い出してしまうから。
「私は、本を読むと元気が出るんです」
陽菜は言った。
「どんなに辛いことがあっても、本の中では誰かが頑張ってる。それを見ると、私も頑張ろうって思えるんです」
俺は黙って彼女を見ていた。
そういう考え方もあるのか。
「……そうですね。本には、そういう力がある」
その時、自分の表情が少し柔らかくなった気がした。
「水瀬さん」
「はい?」
「もしよければ、今度お茶でもしませんか? 本の話、もっと聞きたいんです」
心臓が跳ねた。
断れ。今すぐ断れ。
でも。
「……わかりました。でも、少しの時間だけ」
なぜ、承諾してしまったんだ。
第三章 揺れる心
休日の午後、駅前のカフェで陽菜と会った。
彼女は私服で来た。白いブラウスに淡いブルーのスカート。いつもの書店での姿とは違う、柔らかな雰囲気があった。
「お待たせしました!」
少し息を切らせて、彼女が駆けてきた。
「いえ、今来たところです」
嘘だった。三十分前から、ここにいた。緊張して、早く来すぎた。
カフェに入り、窓際の席に座った。コーヒーを注文して、しばらく沈黙が流れた。
「あの……」
陽菜が口を開いた。
「水瀬さんって、生徒さんたちに人気あるんじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
「でも、すごく真面目そうだし、優しそうだし」
「表面だけです」
つい、本音が出てしまった。陽菜は不思議そうに首を傾げた。
「表面?」
「……いえ、何でもありません」
話題を変えなければ。無理に笑顔を作った。
「陽菜さんは、いつから本が好きなんですか?」
陽菜の顔が明るくなった。
「子供の頃からです! 図書館が大好きで、毎週通ってました」
彼女は楽しそうに話し始めた。好きな作家のこと。感動した本のこと。本を通じて学んだこと。
俺はただ、聞いていた。
彼女の声は、温かかった。話す時の表情は、生き生きとしていた。
ああ、これが。
これが、心を開いて誰かと話すということなのか。
栞と、最後にこんな風に話したのはいつだっただろう。
ふと、そんなことを思った。
「水瀬さん?」
「あ、すみません。聞いてます」
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「大丈夫です」
また、嘘をついた。
陽菜は少し心配そうに俺を見ていた。
「水瀬さんって、何か抱え込んでません?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「……どうして、そう思うんですか」
「なんとなく。いつも、どこか寂しそうに見えるから」
見抜かれている。
でも、話すわけにはいかない。
「気のせいですよ。俺は、普通に生きてます」
「そうですか……」
陽菜は納得していない様子だった。でも、それ以上は追求しなかった。
帰り際、彼女は言った。
「また、お話ししましょうね」
俺は、曖昧に頷いた。
本当は、もう会わない方がいい。
でも、もう一度会いたいと思っている自分がいた。
第四章 近づく距離
陽菜と過ごす時間が、増えていった。
カフェでの会話。本屋巡り。たまに一緒に映画を見に行ったり、公園を散歩したり。
気づけば、俺は彼女との時間を楽しみにしている自分がいた。
それが、怖かった。
楽しい時間の後には、必ず罪悪感が襲ってくる。
俺は、こんなことをしていいのか。
栞を守れなかった俺が、また誰かと親しくなっていいのか。
ある日、陽菜が俺の好きな作家の新刊を持ってきてくれた。
「これ、水瀬さんが前に好きだって言ってた作家さんの新刊です」
そんな細かいことまで、覚えていてくれたのか。
「ありがとうございます」
本を受け取った時、彼女の手が触れた。温かかった。
思わず、じっと彼女を見てしまった。
陽菜も、俺を見ていた。
何か言わなければ。でも、言葉が出てこない。
「水瀬さん、今度の休み、空いてますか?」
「え?」
「一緒に、本屋巡りしませんか? 色々な本屋を見るの、楽しいですよ」
断るべきだ。これ以上、深入りするべきじゃない。
でも。
「……わかりました」
また、承諾してしまった。
休日、陽菜と本屋を何軒か回った。
彼女は、どの本屋でも楽しそうにしていた。珍しい本を見つけては、嬉しそうに俺に見せてくる。
「見てください! この装丁、素敵じゃないですか?」
「ええ、綺麗ですね」
「内容も面白そうで……あ、水瀬さん、これ読んだことあります?」
次々と質問してくる陽菜に、俺は答えていった。
久しぶりに、本について誰かと語り合った。
楽しかった。
本当に、楽しかった。
こんな感覚、栞と別れてから感じたことがなかった。
夕方、カフェで休憩した。
「今日は楽しかったです」
陽菜が、満足そうに言った。
「俺も、です」
本音だった。
「水瀬さん、笑ってますね」
「え?」
「今、すごく良い笑顔してます」
自分では気づかなかった。
笑っていたのか、俺は。
「陽菜さんと一緒だと、楽しいので」
そう答えた瞬間、陽菜の顔が少し赤くなった。
「私も……水瀬さんと一緒だと、楽しいです」
その言葉に、胸が温かくなった。
同時に、恐怖も感じた。
この温かさは、いつか冷たくなる。
そう、信じていたから。
第五章 過去の影
陽菜との関係が深まるにつれ、俺の中で葛藤が大きくなっていった。
ある夜、一人で酒を飲みながら考えた。
陽菜は、明るくて、前向きで、優しい。彼女といると、心が温かくなる。笑顔になれる。
でも、それが怖い。
また、誰かの苦しみを見逃すかもしれない。
また、誰かを傷つけるかもしれない。
携帯が鳴った。陽菜からのメッセージだった。
『今日はありがとうございました。楽しかったです。また行きましょうね』
俺は、返信できなかった。
翌日、学校で授業をしていた時。ふと、一人の女子生徒が気になった。
最近、表情が暗い。授業中もぼんやりしている。
栞と、同じだ。
休み時間、彼女を呼び止めた。
「最近、どうした? 何かあったか?」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「え、あ……大丈夫です」
「無理してないか?」
「……」
彼女は黙り込んだ。それから、小さく首を横に振った。
「先生、実は……」
彼女は、家庭の問題を抱えていた。親の離婚。母親の再婚。新しい家族との関係。
俺は、ただ聞いた。そして、できる限りのアドバイスをした。スクールカウンセラーに繋げることも提案した。
彼女は泣きながら、「ありがとうございます」と言った。
この生徒は、救えた。
でも、栞は救えなかった。
その違いは、何だ。
夜、陽菜から電話がかかってきた。
「水瀬さん、最近返信遅いですけど、忙しいんですか?」
「ああ、ちょっと」
「そうですか……」
電話の向こうで、陽菜が何か言いたそうにしている。
「陽菜さん?」
「あの、水瀬さん。私、何か気に障ることしましたか?」
「いえ、そんなことは」
「でも、最近避けられてるような気がして……」
鋭い。陽菜は、気づいている。
「避けてなんか……」
「嘘、ですよね」
陽菜の声が、少し震えていた。
「水瀬さん。私、あなたのことが好きです」
心臓が、止まりそうになった。
「だから、ちゃんと話してください。私が嫌なら、はっきり言ってください。でも、曖昧な態度は……辛いです」
俺は、何も言えなかった。
「ごめんなさい」
それだけ言って、電話を切った。
最低だ。俺は。
第六章 告白
数日、陽菜と連絡を取らなかった。
いや、取れなかった。
何て言えばいいのかわからなかった。
学校でも、授業に集中できなかった。生徒たちが話しかけてきても、上の空で返事をしてしまう。
同僚から、「大丈夫か?」と心配された。
「ええ、大丈夫です」
また、嘘をついた。
一週間後、俺は書店に向かった。
陽菜に、ちゃんと話さなければ。
このままじゃ、彼女を傷つけ続けることになる。
書店に入ると、陽菜がカウンターにいた。
俺を見て、一瞬表情が強ばった。でも、すぐに笑顔を作った。
「いらっしゃいませ」
その笑顔は、いつもとは違った。無理をしている笑顔だ。
「陽菜さん。話が、あります」
彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「……わかりました。閉店後に」
閉店まで待った。俺は店の外で、何度も深呼吸をした。
やがて陽菜が出てきた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
「どこか、行きましょうか」
近くの公園に向かった。夜の公園は静かで、街灯だけが二人を照らしていた。
ベンチに座った。
「この前は、すみませんでした」
俺が口を開いた。
「いえ、急に言ってごめんなさい」
「陽菜さん。俺は……あなたの気持ちに、応えられません」
陽菜は、じっと俺を見ていた。
「どうして、ですか」
「俺は、誰かを愛する資格がないんです」
「そんなこと……」
「あるんです!」
思わず、声を荒げてしまった。
深呼吸をして、続けた。
「俺は昔、大切な人を守れなかった。彼女が苦しんでいるのに、気づけなかった。その結果、彼女は……死んだんです」
陽菜は、息を呑んだ。
「それから十年。俺は誰とも深く関わらないようにしてきた。また、誰かを傷つけるのが怖いから」
「水瀬さん……」
「だから、陽菜さん。あなたは、俺なんかと関わらない方がいい。俺といても、幸せにはなれない」
全部、吐き出した。
十年間、誰にも言えなかったことを。
陽菜は、黙って聞いていた。
しばらく、沈黙が続いた。
「水瀬さん」
やがて、陽菜が口を開いた。
「それは、あなたのせいじゃない」
「俺のせいです」
「違います」
陽菜は、俺の手を握った。
「人の苦しみに気づくのは、簡単じゃない。どんなに近くにいても、見えないことはある」
「でも……」
「あなたは、ちゃんと後悔してる。ちゃんと、彼女のことを想ってる。それだけで、十分です」
「十分なわけない……」
「じゃあ、これからは? これから先、ずっと一人で生きるんですか? それが、彼女の望みだったんですか?」
俺は、黙った。
栞の最後の手紙。
『幸せになってね』
彼女は、そう書いていた。
「私、あなたを幸せにしたい。あなたに、笑っててほしい。それじゃ、ダメですか?」
陽菜は、涙を浮かべていた。
「……俺なんかで、いいんですか」
「いいんです。あなたがいい」
陽菜は、俺を抱きしめた。
俺は、震えていた。
「怖いんです。また、誰かを失うのが」
「大丈夫。私は、簡単には消えない」
「……本当に?」
「本当」
陽菜の温もりが、俺を包んだ。
十年ぶりに、誰かに抱きしめられた。
十年ぶりに、安心できた。
俺は、陽菜の背中に手を回した。
そして、声を殺して泣いた。
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