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看護師20年、人間関係の修羅場で学んだこと

あなたが医療職以外の接客業なら、私にはどうしても手に入れられない大きなアドバンテージを持っている。

たとえば飲食店。
たとえばアミューズメントパーク。
たとえばアパレル。
たとえば美容室やブライダルや占い師。

そこに来るお客さんは、少なくとも何かしらの期待を持ってやって来る。

美味しいものを食べたい。
楽しい時間を過ごしたい。
似合う服を見つけたい。
綺麗になりたい。
知らなかったことを学びたい。
少しだけ日常から離れたい。
自分のことを知りたい。

もちろん全員が上機嫌なわけではない。
理不尽なクレームもあるだろうし、接客業には接客業の大変さがある。
私は医療職のが大変だと言いたいわけじゃない。医療職以外の仕事を軽く見たいわけでは、全くない。
むしろ、笑顔で怒っている人の相手をする接客業の人を見るたびに、心の中で拍手している。
あれはもう立派なスキルのひとつだと思っている。

でも、それでも思う。
その場所に来る時点で、お客さんの多くは
「何かを得たい」
「ここでなら得られる」
という前向きな気持ちを持っている。

では病院はどうだろうか。

「今日は病院に行ける!楽しみ!」

そんな人は、ほとんどいない(産科は別として)

熱がある。
怪我をした。
眠れない。
検査結果が怖い。
痛い。
苦しい。
不安。
家族が倒れた。
昨日まで普通にできていたことが、急にできなくなった。
何が起きているのか分からない。
身体も気持ちもついていけない。
どうにかしてくれ。

病院を訪れる人の多くは、何かしらのマイナスと一般的には表現されるモノを抱えている。
身体の不調だけではない。
怒り、不安、恐怖、焦り、悲しみ、後悔。
そういうものを抱えたまま、受付に来て、診察を待って、検査を受けて、病棟にやってくる。

つまり医療現場は、マイナスから始まるコミュニケーションを毎日している場所でもある。

しかも相手は選べない。
怒っている人もいる。
泣いている人もいる。
認知症で何度も同じ話をする人もいる。
理不尽なクレームだってある。
患者さんやご家族だけではない。

横柄な医師もいる。
自分の機嫌を自分で取れないスタッフもいる。

そして、その全員と関わりながら、患者さんたちの安全を守らなければいけない。

若かった頃の私は、その全員と真正面からぶつかっていた。

看護師になったばかりの頃、私はコミュニケーションなんて教科書通りにやればいいんだと思っていた。
正しく説明する。丁寧に話す。患者さんのために動く。病院のルールを守る。それで伝わると思っていた。

ところが現実は全然違った。

先輩に怒られる。医師に怒られる。患者さんに怒られる。ご家族に怒られる。
私は本気で思っていた。

なんで分かってくれないの?

だって私は正しいことを言っている。患者さんのためを思っている。病院のルールもちゃんと守っている。なのに伝わらない。

その理由が、長い間分からなかった。

当時の私は、コミュニケーション能力が高い人とは、話が上手い人だと思っていた。
面白い話ができる人。説明が上手い人。説得が上手い人。場を明るくできる人。誰とでも仲良くなれる人。

でも看護師を20年続けて、少し考えが変わった。

本当にコミュニケーション能力が高い人は、話すのが上手い人ではない。

相手が何を守ろうとしているのかを、見つけようとする人だ。

横柄な医師は、本当に横柄だったのか

若い頃の私は、怖い人や怒鳴る人が苦手だった。
いや、苦手というより嫌いだった。
できることなら関わりたくなかった。

特に医師。

病院という場所は特殊だ。
患者さんから見れば、医師も看護師も同じ医療者かもしれない。

でも中にいると、立場も役割もまったく違う。

当時の私は新人だった。

知識もない。
経験もない。
自信もない。

あるのは、根拠のない正義感くらいだった。

そんな私から見ると、ある医師は本当に怖かった。

声は大きい。
口調は厳しい。
すぐに怒鳴る。
妥協しない。

ナースステーションに現れるだけで空気が変わる。

質問すると、

「で?」

と返される。
それだけで頭が真っ白になった。

ある日、患者さんの状態が急変した。

病棟は一気に慌ただしくなった。
モニターのアラーム音が鳴る。
スタッフが走る。
家族へ連絡する。
医師を呼ぶ。

急変の現場って、実際はテレビドラマみたいに格好良くなんてない。
みんな必死だ。
もちろん私も必死だった。

その医師は現場に来るなり言った。

「これ、いつから?」

責められている気がした。

「えっと……」

「だから、いつから?」

声が出なかった。
頭の中が真っ白になった。

その瞬間、私は思った。

やっぱり大嫌いだ。

なんでそんな言い方をするんだろう。
もっと優しく言えないのかな。
新人なんだから仕方ないじゃない。

そんなことばかり考えていた。

でも、その患者さんは助かった。

数日後、私は偶然その医師が患者さんのご家族と話している場面を見た。

驚いた。
だって、別人みたいだった。

ものすごく丁寧に、言葉を選びながら説明していた。
家族の不安そうな表情を見ながら、ゆっくり話していた。

私は混乱した。

あれ?
先生、本当は優しいの?
どっちなの?

それから少しずつ観察するようになった。

見えてきたのは、その医師が人によって態度を変えているわけではないということだった。

見ていたのは、患者さんのためになるかどうか。

それだけだった。

夜中の呼び出しでも来る。
面倒な家族対応も逃げない。
自分の仕事じゃなくても動く。

患者さんのためになるなら、自分が嫌われることも気にしない。

その時に分かった。
私が嫌だったのは、自分が傷つくことだった。

でもその医師が見ていたのは、目の前の患者さんだった。

患者さんが助かるか。
患者さんに不利益がないか。
患者さんが安全か。

そこを徹底的に見ていた。

私をいじめたかったわけじゃない。
嫌いだったわけでもない。

患者さんを守ろうとしていただけだった。

そのことに気付いた時、少し恥ずかしくなった。

私は言葉だけを見ていた。
その人が何を守ろうとしているのかを見ていなかったし、見ようともしていなかった。

もちろん、厳しい言い方を全部正当化したいわけではない。

理不尽な暴言もある。
人格否定もある。
そんなものまでまるごと受け入れる必要はない。

でも、

「あの人は怖い人だ」

で終わらせないことはできる。

この人は何を守ろうとしているんだろう。

そう考えられるようになってから、私は少しだけ人との関わり方が変わった。

数年後、その医師に言われたことがある。

「お前だから言ってるんだよ」

短い言葉だった。

私は驚いた。
嫌われていると思っていたから。
ずっとできない新人だと思われていると思っていたから。

違った。

期待してくれていたのだ。

人は、興味のない相手に時間を使わない。
本当にどうでもいい相手には、何も言わない。

優しい人が良い人で、厳しい人が悪い人。

そんな単純な話ではなかった。


泣いてしまう後輩たち

正直に言うと、若い頃の私は人前で泣く人が苦手だった。

もちろん、悲しいことがあった時や大切な人を失った時に泣くのは分かる。

でも仕事中に泣く人の気持ちは、よく分からなかった。

なぜなら私は基本的に仕事中に泣かなかったからだ。
いや、正確には泣けなかった。

悔しいこともあったし、理不尽なこともあった。
帰り道で泣いたこともある。
家に帰って、ご飯を食べながら泣いたことだってある。

でも職場では泣かなかった。

泣いたら負けだと思っていた。
泣いたら迷惑をかけると思っていた。

だから人前で泣く後輩を見ると、戸惑った。

そんなに傷つくことかな。
そんなに大変かな。

今思えば、とても未熟だった。

ある日、一人の後輩が泣いた。

先輩から指導を受けた後だった。
内容は決して理不尽なものではない。

患者さんの安全に関わることで、言わなければいけないことだった。

それでも後輩は泣いていた。

私は最初、何を言えばいいか分からなかった。

「大丈夫?」

そう声をかけても首を振る。

「そんなに気にしなくていいよ」

そう言っても泣く。

どうしたらいいのか分からなかった。
正解ばかり探していた。

しばらくして落ち着いた頃、その子がぽつりと言った。

「患者さんに申し訳なくて」

私は少し驚いた。

てっきり、怒られたことがショックで泣いているのだと思っていた。

違った。

その子が泣いていた理由は、自分が傷ついたからではなかった。

患者さんに申し訳なかったから。
患者さんの期待に応えられなかったから。
できなかった自分が悔しかったから。

私はそこで初めて気がついた。

泣いている人を見て、勝手に弱い人だと決めつけていたことに。

泣く理由なんて、人それぞれなのだ。

管理職になってから、後輩が泣く場面に何度も立ち会った。

ミスをした時。
患者さんを亡くした時。
家族対応で悩んだ時。
先輩に注意された時。

泣く理由を丁寧に聞いていくと、ほとんどみんな真面目だった。

患者さんを大切にしたい。
迷惑をかけたくない。
期待に応えたい。
役に立ちたい。
できなくて悔しい。

そういう気持ちが奥に隠れていた。

そして、もうひとつ気付いたことがある。

泣いている人に必要なのは、正論ではない。

安心だ。

昔の私は、

「次から気を付ければいいよ」

とか、

「そんなに落ち込まなくて大丈夫」

とか言っていた。

今思うと、あまり届いていなかったように思う。

だって本人は、そんなこと分かっている。
分かっていて苦しいのだ。
気にすることないよと言われても、気にするのが人間なのに。

だから最近は、すぐに答えを出さないようにしている。

どう思った?
何が一番つらかった?
何が悔しかった?
どんな風になりたい?

そうやって聞いてみる。

すると少しずつ言葉が出てくる。

患者さんに申し訳なかった。
自分が情けなかった。
期待に応えられなかった。
怖かった。

人は、自分の気持ちを言葉にできた時に、少しずつ整理が始まる。

私は長い間、コミュニケーションとは「何を言うか」だと思っていた。

でもそれだけじゃなかった。

「何を言わせてあげるか」

それも大事なのだと知った。

もちろん患者さんの安全に関わることは指導する。
そこは絶対に譲れないし譲らない。

でも、反省と自己否定は違う。

ミスをした。
そこを反省するのは必要だ。

でもそこから、

私はダメだ。
向いていない。
価値がない。

そんなふうに自分を責め続ける人がいる。

ミスをした人と、価値のない人はイコールではない。

だから伝える。

今回のことと、あなた自身の価値は別だよ。
患者さんを大切にしたいと思っていることは知っているよ。

それで魔法みたいに、すぐに元気になるわけではない。

でも少しだけ、顔が上がることがある。
少しだけ、目の奥が変わることがある。

昔の私は、人前で泣く人が苦手だった。

今は少し違う。

泣いている人を見ると、その奥にあるものを考える。

何を守りたかったのだろう。
何が悔しかったのだろう。
何が怖かったのだろう。

そうやって見ていくと、人はほんの少し優しくなれる。


名前を忘れても、伝わるもの

認知症だから分からない。
認知症だから覚えていない。
認知症だから仕方ない。

看護師になったばかりの頃の私は、そんなふうに割り切っていた。

もちろん悪気は一切ない。

そうしないと働いていられない環境でもあったし、実際に会話が噛み合わずに成立しないこともある。

さっき話したことを忘れる。
ご飯を食べたことを忘れる。
ここが病院だということも分からなくなる。
お財布を盗まれたと怒り出す。

だから私は、どこかで「分からないもの」として関わっていたのだと思う。

今思うと、とても失礼な話だ。

その考えを変えてくれたのは、ある方だった。

私が施設で働いていた頃のことだ。

その方には認知症があった。

私の名前は分からない。
他のスタッフの名前も分からない。
日によって話が噛み合わないこともある。

周囲はよく言っていた。

「もう分からないから」
「言っても無駄だから」

本当にそうだろうか。

私はずっと引っかかっていた。

ある日、その方が体調を崩して入院することになった。

しばらく施設を離れ、数か月後に戻ってきた。

車椅子に座っている姿を見つけて、私はいつも通り声をかけた。

「お帰りなさい」

すると突然、その方の目から涙がこぼれた。

驚いて近づくと、その方は私の手をぎゅっと握った。

そして泣きながら言った。

「辛かったよ」

「ただいま」

「待っててくれたの?」

私は思わず、

「もちろんですよ」

と答えた。

すると、その方は何度も頷いたあと、少し困ったような顔で言った。

「ごめんね」

「あなたの名前は分からないの」

「でもね」

「あなた、いつも来てくれてたでしょ」

私は何も言えなくなった。

名前は覚えていない。
顔だって、はっきり分からなかったかもしれない。

でも覚えていた。

私が部屋に行っていたこと。
顔を見に行っていたこと。
手を握っていたこと。

その時、私は大きな勘違いをしていたことに気付いた。

確かに、記憶は失われる。
名前も忘れる。
出来事も忘れる。

でも全部が消えるわけじゃない。

安心した気持ち。
大切にされた感覚。
嬉しかった記憶。

そういうものが残ること多くもある。

私はその方の名前を呼んで、笑顔で話しかけた。
部屋に顔を出した。
時々、部屋の窓から一緒に空を眺めてた。
特別なことなんて、何もしていない。

高度な技術でもない。

でも、その積み重ねが残っていた。

人は言葉だけで関係を築いているわけではない。

表情。
声。
態度。
距離感。
手の温度。
流れている空気。

そういうもの全部で関係を作っている。

これは、認知症の方だけの話ではないと思う。

職場でも同じだ。

何年前の会議で何を言ったか。
どんな指示を出したか。
どんな内容だったか。

そんなことを正確に覚えている人は少ないし、ほとんどいない。

でも、

あの人は話しやすかった。
あの人は怖かった。
あの人は助けてくれた。
あの人はちゃんと見ていてくれた。
あの人はこんな風に接してくれた。

そういう感覚は残る。

人は内容を忘れるけれど、感情は残る。

だから私は、以前よりも小さなことを大事にするようになった。

挨拶をする。
顔を見て話す。
声をかける。
話を聞く。
忙しい時ほど立ち止まる。

当たり前のことだ。

でも、当たり前だからこそ難しい。

忙しいと削られる。
余裕がなくなると後回しになる。

それでも、その積み重ねが信頼に変わっていく。

あの日、私の手を握ってくれた方は、きっと私の名前を最後まで思い出せなかったと思う。

でもそれでいい。

私の名前を覚えていなくてもいい。

名前を覚えてほしくて、この仕事をしているわけではないから。

ただ、

「この人が来ると少し安心する」

そう思ってもらえたなら、看護師としてそれ以上に嬉しいことはない。

怒っている人は、本当に怒っているのか

私はクレーム対応が好きではない。

好きな人なんて、ほとんどいないと思う。

ナースコールの音によっては、嫌な予感がする。

案の定、

「ちょっと話があるんですけど」

から始まる。

経験上、その後に続くのは大抵いい話ではない。

病院にもクレームはある。

待ち時間が長い。
説明が足りない。
態度が悪い。
連絡が遅い。

もちろん病院側に改善すべき点があることも多い。
そこは真摯に受け止めなければいけない。

でも中には理不尽に感じるものもある。

初恋の人と名前が一緒だから担当を外れろと言われた時の理不尽さったら。

知らんがな選手権があったら、なかなか上位に食い込めると思う。

若い頃の私は、怒っている人が苦手だった。

相手が怒ると身構える。
相手がさらに怒ると、こちらも硬くなる。

当然うまくいかない。

今振り返ると、私は相手の怒りだけを見ていた。

その奥にあるものを見ようとしていなかった。

ある患者さんのご家族の対応をした時のこと。

その方は、とても怒っていた。

電話口でも怒っている。
面会に来ても怒っている。
何を説明しても納得しない。

スタッフの間でも有名だった。

正直に言えば、私は関わりたくなかった。

また怒られる。
そう思っていた。

ところがある日、少しだけ長く話をする機会があった。

怒りの理由を聞こうと思ったわけではない。
ただ話を聞いた。

すると、その方がぽつりと言った。

「もし何かあったらと思うと怖いんです」

その一言で、景色が変わった。

ああ、この人は怒っているんじゃないんだ。

怖いんだ。

怒りは感情のゴールではなく、感情の出口なのかもしれない。

不安。
恐怖。
悲しみ。
無力感。
後悔。

そういうものが積もって、最後に怒りとして出てくることがある。

もちろん全員ではない。

本当に怒っている人もいる。
理不尽な人もいる。
こちらを傷つけるために言葉を選ぶ人もいる。

そんな人まで理解しろとは思わない。

こちらだって人間だ。
傷つくし、腹も立つ。

でも、

「怒っている人」

で終わらせないことはできる。

この人は何を怖がっているのだろう。
何を守ろうとしているのだろう。

そう考えるだけで、関わり方は少し変わる。

楽になるわけではない。
相変わらず胃は痛い。

でも以前ほど、怒りそのものに飲み込まれなくなった。

看護師になって二十年、たくさんの人に会ってきた。

優しい人。
怖い人。
意地悪な人。
理不尽な人。

そして気付いた。

人は案外、単純ではない。

怖い医師の奥には責任感があった。
泣く後輩の奥には誠実さがあった。
認知症の方の奥には、確かな記憶があった。
怒る家族の奥には不安があった。

表面だけを見ていたら、きっと分からなかった。

「また聞いていいですか?」が言える人

看護師になって20年。

もし新人の頃の自分にひとつだけ伝えられるなら、私はこう言うと思う。

分からないことは、何回でも聞きなさい。

たぶん当時の私は嫌な顔をする。

だって聞くのが怖かったから。

忙しそうな先輩。
機嫌の悪そうな医師。
ピリピリした病棟。

そんな中で質問するのは勇気がいる。

一度聞いたことを、もう一度聞くなんてもっと勇気がいる。

だから若い頃の私は、知ったふりをした。
分かったふりをした。

たぶん大丈夫だろう。

そう思った。

今考えると、本当に危ない。

医療の世界で「たぶん」は怖い。

患者さんの命に直結することもある。

でも新人の頃は、その怖さよりも、

「こんなことも知らないと思われたくない」

という気持ちの方が大きかった。

未熟でしかない。

ただ、それは私だけではなかった。

後輩たちを見ていると、同じようなことが起きる。

聞けない。
相談できない。
迷っているのに声を上げられない。

なぜか。

怒られると思うからだ。
迷惑をかけると思うからだ。
できない人だと思われるからだ。

でも現実は逆だった。

本当に心配なのは、何度も聞く人ではない。

聞かない人だ。

分からないことを聞ける人は成長する。

分からないことを隠す人は危ない。

これは能力の問題ではなく、勇気の問題だと思う。

ある後輩がいた。

本当によく質問する子だった。

最初は同じことを何度も聞いてきた。

正直、忙しい日は大変だった。

でも私はその子を信頼していた。

なぜなら、その子は分からないまま進まなかったからだ。

確認する。
相談する。
聞く。

だから大きな事故につながりにくい。

逆に怖いのは、自信満々な人だ。

もちろん本当に優秀な人もいる。

でも中には、自信があるのではなく、確認していないだけの人もいる。

私は何度も見てきた。

だから後輩には、何回聞かれても怒らないと決めている。

「また聞いていいですか?」

もちろん。
何回でもどうぞ。

その一言で患者さんが守られるなら、私は何回でも答える。

これは医療だけの話ではないと思う。

人間関係も同じだ。

夫婦も、親子も、友人も、職場も。

聞けなくなった時に、関係は少しずつ壊れ始める。

どう思った?
何が嫌だった?
何に困っている?

それを聞けなくなる。

聞く前に決めつける。
想像だけで判断する。

だからすれ違う。

本当に大事なのは、

「分からない」と言えること。
「教えて」と言えること。
「助けて」と言えること。

その勇気なのかもしれない。

看護師20年で出会った信頼される人たちは、質問が上手だった。

医師もそう。
ベテラン看護師もそう。
信頼している管理職もそう。

本当にできる人ほど聞く。

確認する。
分からないと言う。

なぜなら、自分が間違える可能性を知っているからだ。

経験が増えるほど、人は自分の限界を知る。

だから聞く。
だから学ぶ。
だから成長する。

若い頃の私は、

できる人になりたい。

と思っていた。

今は少し違う。

聞ける人でありたい。

そして、安心して聞ける場所を作れる人でありたい。

それが今の私の仕事なのだと思っている。

人は、大切に扱ってくれる人の言葉を聞く

私はたくさんの人に出会った。

怖い医師。
泣いてしまう後輩。
認知症の患者さん。
怒る家族。
優しい先輩。
理不尽な人。
尊敬できる人。
できれば会いたくなかった人。

その全員が、私にコミュニケーションを教えてくれた。

若い頃の私は勘違いしていた。

コミュニケーション能力とは、説明が上手いこと。
説得が上手いこと。
面白いことを言えること。

そういうものだと思っていた。

でも20年経った今の答えは、少し違う。

コミュニケーションとは、

「あなたを大切に思っています」

を伝える姿勢なのだと思う。

もちろん言葉も大事だ。
でも言葉だけでは足りない。

人は言葉を聞いているようで、言葉だけを聞いているわけではない。

態度を見ている。
表情を見ている。
行動を見ている。

困った時に助けてくれたか。
忙しい時に話を聞いてくれたか。
失敗した時に見捨てなかったか。

そういうことを見ている。

そして不思議なことに、人は自分を大切に扱ってくれる人の言葉なら耳を傾ける。

逆に、どれだけ正しいことを言っても、大切にされていないと感じた瞬間、言葉は届かなくなる。

私は新人の頃、それが分からなかった。

正しいことを言えば伝わると思っていた。

だからぶつかったし、苦しかった。

でも今は少し分かる。

人は正論だけでは動かない。

信頼があるから、こちらを見てくれる。

信頼は特別なことで生まれるわけではない。

顔を見る。
挨拶をする。
話を聞く。
約束を守る。
困った時に手を差し伸べる。

そんな当たり前の積み重ねだ。

でも、その当たり前が一番難しい時もある。

忙しいから。
余裕がないから。
自分も大変だから。

それでも続ける。

続けた先にしか、信頼は生まれない。

私は看護師だ。

たぶんこれからも看護師だと思う。

きっとまた失敗する。
怒られる。
悩む。
落ち込む。
人間関係の修羅場にも遭遇する。

でも、それでもいい。

人と関わる以上、避けられないからだ。

大事なのは、修羅場がないことではない。

その中で、何を見て、見ようとするかだと思う。

怖い人の奥にある責任感。
泣いている人の奥にある誠実さ。
怒っている人の奥にある不安。
名前を忘れた人の中に残る温かい記憶。

そういうものを見ようとすること。

それが、私がたどり着いたコミュニケーションだ。

看護師20年。

人間関係の修羅場で学んだことは、案外シンプルだった。

人は誰だって、自分の大切なものを守りながら生きている。

だから決めつけない。
まずは知ろうとする。
見えないものを見ようとする。

そして、目の前にいる人を大切に扱う。

それだけだ。

それだけなのに、やっぱりとても難しい。

だから私は今日も失敗しながら学んでいる。

20年経った今でも、まだ勉強中だ。

でも、ひとつだけ自信を持って言える。

コミュニケーションは才能じゃない。
人を大切にしようとする姿勢だ。

私はそう信じている。

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