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「目的/手段」思考の限界【思想記#10】

私は何かのためにスマホを使っているのか、あるいはスマホが要求するのにあわせて自分の時間を差し出しているのか。

人間のために機械が使われているのか、あるいは機械の要求に人間が合わせているのか。

ここには目的と手段の転倒の問題がある。

ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-1975)は、著書『人間の条件』において、近代社会における目的と手段の転倒の問題について検討している。

労働は生命過程の不可欠な部分であり、しかも労働は生命過程をけっして乗り超えることができない。このような生命過程の内部では、人間は、労働する力を得るために生き、消費するのか、それとも逆に、消費の手段を得るために働くのかというような、目的と手段のカテゴリーを前提とする問いを発することは意味がない。

『人間の条件』, 著者:ハンナ・アレント, 訳者:志水速雄, 筑摩書房

アーレントの言う「労働 (Labor)」とは、ライオンにとっての狩りのように、生命過程と不可分なものである。
そして、消費の手段を得るために働くというのは、生きるために働くという意味だ。
つまり、本来不可分なものについて「働くために生きるのか」、「生きるために働くのか」というような問いを立てても意味がないということである。
それはライオンに対して、生きるために狩りをしているのか、狩りのために生きているのかを聞くのと同様に無意味だと、アーレントと考える。

この考えに対して、「私は生きるために働いているんだ」という反論があるかもしれない。これは、一般的な感覚からしてもっともな反論である。
この主張を要素に分解すれば、「生きること」と「労働」は目的と手段の関係にある、と言える。
つまり、生きるという目的のための手段として労働しているというわけだ。

しかし、この主張にはただちに次の疑問が付されるだろう。
「では、何のために生きているのか?」

これに答えることは極めて難しい。
さらに言えば、仮に「○○するために生きている」と答えられたとしても、その答えにも当然に「何のために○○するのか」という問いが付されるだろう。

目的と手段の思考の内側にとどまり続ける限り、その思考は「目的/手段」の無限の連鎖から逃れることは出来ない。
その連鎖に囚われる限り究極的な無意味が付きまとう。

このような「目的/手段」の無限の連鎖を断ち切るためには、あるものが「目的自体」である、と断言する必要がある。
先ほどの例を使えば、「生きることは目的自体である」ということによって、「何のために生きているのか」という問いに答える必要が無くなる。
この「目的自体」による解決策は、「目的/手段」の無限の連鎖の問題の処方箋になるかのように思われる。

しかし、アーレントは「目的自体」という言葉の問題点を指摘する。

この「目的自体」というのは、実際には、すべての目的に適用できる同義反復であるか、そうでなければ用語上の矛盾である。なぜなら、本来目的とは、それがいったん実現されると目的であることを止めるものであり、手段の選択を導き正当化する能力を失い、手段を組織し生む能力を失うものであって、「目的自体」というのは存在しないからである。

『人間の条件』, 著者:ハンナ・アレント, 訳者:志水速雄, 筑摩書房

目的はいったん実現されれば、目的であることを止める。そして、手段を正当化する能力を失う。
定義からすれば、あるものは目的とみなされることはあっても、それ自体であるというようなことはあり得ない。目的と手段は、その時々に応じて物に付けられるタグのようなものであり、決してそれ自体で存在するものではないはずである。
つまり、目的自体という言葉は矛盾している。

この矛盾は「目的/手段」思考の限界を示している。
この思考では、〈意味〉を理解できないのである。

アーレントによれば、意味とは次のような性質を持つ。

意味というのは、それが達成されようと達成されまいと、あるいはむしろ人間に発見されようと発見されずに見逃されようと、永続的でなければならないし、その性格をなに一つ失ってもならない。

『人間の条件』, 著者:ハンナ・アレント, 訳者:志水速雄, 筑摩書房

目的と対比させると分かりやすい。
目的は人間が作り出し、実現されれば消えるようなものであった。
一方で、意味は、達成されるかどうか、発見されるかどうか、に関係なく、永続的なものである。

例えば、古代ギリシャのポリスにおいて人々が実践した「公の場で自由に語り合う」という活動の「意味」は、ポリスが滅亡した後、何世紀もの間忘れ去られていた。 しかし、ルネサンス期や近代の革命家たちがその「物語」を再発見し、対等な市民による自由な言論を実践したことで、その「意味」は蘇った。
このような文脈で、意味は永続的であると言われる。

とは言え、このような事例は例外的であり、ほとんどの意味は人々から忘れ去られ歴史に埋もれてしまうのではないか、と思われるかもしれない。
全くその通りである。

しかし、それでも永続的と言えるのは、目的が達成されれば消えるのに対し、意味はそうではないからである。
意味はある時点で役目を終えて消えたりはしない。
現実には、語り継がれることも、忘れ去られることもありうるが、それは目的の達成とは全く性質の異なるものなのである。

この〈意味〉という概念を考えに入れてば、先ほどの「目的自体」という言葉の矛盾を理解することができる。
つまり、「目的/手段」思考から〈意味〉を見ると、それは何の手段でもないもの(目的自体)に見える。「目的/手段」思考において目的自体とされていたものは〈意味〉なのである。

「目的/手段」思考は何かを実現するために有用ではあるけれど、それは常に何かにとって有用(手段性が高い)というだけであって、〈意味〉については何も教えてくれない。

現代においても「目的/手段」思考は、合理的で賢く人生を攻略できる思考として、ビジネスや自己啓発において歓迎されているように思う。しかし、その思考が何を攻略しようとしているのかについては、〈意味〉を捉えられるような他の思考に頼らなければならないだろう。

最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。

▼ 自己採点&AI採点

【自己採点】6点(10点満点)
アーレントの目的と手段の分析について、自分で文書としてまとめることで理解が深まった。特にオリジナリティがある訳ではないが、「目的/手段」思考以外の在り方を見つけるために足がかりにはなるかもしれない。

【AI採点】5点(10点満点)
導入の「スマホと人間の関係」という問いかけは、現代の読者の関心を引く優れた掴みです。一方で、導入で提示した身近な具体例と、本論であるアーレントの難解な哲学的議論との間に隔たりが大きく、読者が論旨を追うのが困難になっています。抽象的な「意味」の概念を論じる際も、導入の「スマホ」の例に立ち返って解説するなど、具体と抽象を往復させることで、読者の理解と関心を維持しやすくなるでしょう。

▼ 参考文献

(1)『人間の条件』, 著者:ハンナ・アレント, 訳者:志水速雄, 筑摩書房
※記事サムネイルの書影は本書より引用

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