「世界で一番美しい少年」が紡げなかった愛の物語 /【訃報】ビョルン・アンドレセン (1955-2025)
今朝方からX(旧Twitter)でビョルン・アンドレセンの訃報が伝えられていたのだが、正式な報道はなく、午後になりようやく外電からの翻訳という形でぼちぼちニュースサイトに出始め、夕刻にはスポーツ紙などのメディアも報じ始めた。娘さんのコメントもあるし、どうやら間違いないようだ。
「これは純粋に愛の物語だ。性的でもエロティックでもない」
「ベニスに死す」について、ヴィスコンティはそう語っている。
「遥かに崇高な愛であり、いうならば…完璧なる愛だ」と。
「ベニスに死す」というフィクションの中ではその言葉は正しい。
タッジオを演じたビョルン・アンドレセンは老作曲家のまなざしを通して美しく純粋で崇高な存在として描かれる。老作曲家は映画を監督したルキーノ・ヴィスコンティそのものだ。
だが、ひとたび映画が完成されてしまうと、それは大衆に消費される対象となる。あまりに耽美的な映像は本来「愛の物語」であった作品に性的な意味づけを与えてしまった。
それは彼をそのように撮ったヴィスコンティの責任でもあった。
自分が「ベニスに死す」を観たのは、大学生の時だった。もう40年以上も前のことだ。
「山猫」や「家族の肖像」「熊座の淡き星影」といった作品に惹かれ、いっぱしのヴィスコンティフリークになったつもりだった自分としては、彼の最高傑作とも謳われる作品ということで大きな期待を持って鑑賞したのだが、どうにも期待外れだった。
一言でいうとこれは「出オチ」だ。
スクリーンに登場した瞬間のタッジオ=ビョルン・アンドレセンの美しさに目を奪われるが、映画が描くのはそれだけだ。
老齢の作曲家アッシェンバッハの「純粋さ」「若さ」への執着と、死を賭してても究極の美の傍にいたいと望む破滅願望がそこに付随するが、それはあくまでもヴィスコンティが語ろうとする「崇高な愛」と「知性の死」を一方的に説明するためのモチーフでしかない。そこには何の相互作用もないのだ。
完璧な美というのは退屈なものだ。
にも拘らず、あるいはそれゆえかもしれないが、そういった存在を愛することはある種の狂気でしかない。
それが最初の感想で、今見直してもそれは変わらない。
自分が若いから理解できないのかもしれないと思ったりもしたが、アッシェンバッハの当時の設定年齢を越えた今見てもやはりその価値は理解できない。
それは自分がヘテロセクシャルだからではない。
そういう性的嗜好を越えたところに、タッジオは確かに存在していた。

映画を観て気になったのは演じるビョルン・アンドレセンが殆ど笑っていないことだ。
15歳という年齢にしては幾分幼くすら見えるのに、映画の中で彼は一度も「笑った」顔を見せない。
2021年に公開されたアンドレセンの半生を綴ったドキュメンタリー映画「世界で最も美しい少年」の中で彼は撮影中ヴィスコンティからは「行け、止まれ、振り返って、微笑む」の4つしか指示されなかったと言っている。だが、そこに微笑みはあっても笑いはない。
当時は15歳の少年を性的な表現と見られうる対象として濫用することが児童虐待にあたるという認識はなかった。
撮影中アンドレセンはヴィスコンティの庇護の下で「同性愛者ばかり」というスタッフたちの「毒牙」から「守られていた」そうだが、それが何を意味するのかは、映像が物語っているように思えてならない。
撮影終了後のヴィスコンティやその周囲の人たちからの性的搾取については前述の映画ではかなり曖昧にしか糾弾されていないが、それまでにも囁かれていた噂が本当だったことが明らかになっている。
アンドレセンは30歳を過ぎて結婚し二人の子を産んだが、第二子の男児を乳幼児突然死症候群で亡くしている。
父は生まれる前から生死不明、母は10歳の時に自死、10代で性的搾取に遭い、30歳代で我が子を亡くす。凄惨な人生だが、少なくとも死の4年前に撮られた「世界で最も美しい少年」に映る姿は必ずしも人生を悲嘆してはいなかった。
映画の中で「父との関係は難しい」と断言し、11年ぶりに父の元を訪れたと語っていた娘さんが、死に際してSNSで父親との思い出の写真を公開し、哀悼のコメントを出している。
God natt min pappa.
Min älskade, älskade pappa!
Vi ses snart ❤️
「おやすみ、パパ。私の最愛の、最愛のパパ!またすぐにお会いしましょう」
それだけが救いだ。
最後のフィクション映画出演となったのが「ミッドサマー」(2019)。
見てみたいと思いつつ未見なのでこの機会に時間を割いて観てみたい。

