人と人がわかりあえるはずなんてないだろうというポストモダンなスノビズム あるいは【映画レビュー】「太陽はひとりぼっち / L'eclisse」(1962)
太陽はひとりぼっち L'eclisse
1962年 イタリア・フランス合作 118分
★★★★★ (映画史に残る名作、必見)
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ/トニーノ・グエッラ/エリオ・バルトリーニ
出演:モニカ・ヴィッティ/アラン・ドロン/リラ・ブリニョーネ


自分が若い頃(1970~80年代)、イタリア映画と言えばフェリーニとヴィスコンティだった。ショッキングな殺害の記憶も新しかったパゾリーニや、その弟子にあたるベルトルッチも評価は高かったが、アントニオーニは何故か蚊帳の外だったという印象がある。
アントニオーニのピークは50年代後半から60年代であり、70年代を通じてほとんど新作を撮っていない状態だったので、70年後半にはすでに過去の人になっていた、ということなのかもしれない。いずれにしても、中高生時代の半可通の自分にとってはアントニオーニの名前は届かなかった。映画の音楽にピンク・フロイドやヤードバーズを使ってる人ということもあって、そっち方面から彼の名前に辿り着いたのは大学生になってからで、すでに自分は名画座通いをほぼリタイアした後だった。
なので、自分がアントニオーニの主要作品をコンプリートしたのは最近になってからだ。「情事」も「赤い砂漠」もごく最近サブスクで初めて見た。
そこで思うのは、アントニオーニほど映画らしい映画を撮る監督は他にいないのではないか、ということだ。あるいは、やや逆説的だが、映画の文法を否定するような映画らしい映画を撮る監督という言い方が適切かもしれない。
この「太陽はひとりぼっち」は、「情事」(1960)、「夜」(1961)に続いて発表した作品であり、いわゆる「愛の不毛三部作」の三作目にあたる。三部作はいずれも愛の消失や人間関係の空洞化を描きながら、モダンな都市と個人との関係を映像として結合させる試みであり、その中でも本作は最も実験的で抽象度が高い。
簡単に言うと意味が分からない。
もう少し正確に言うと、分からないこともないけど、「理解できる」とは言いづらい。
もっと直截に言うと、理解できるけど、理解したくない。
「情事」や「夜」も人と人が交わりながらも何も起こさないことで近代都市における人間関係の冷淡さを描いて見せていたが、今作は交わることすら拒否する。正直やりすぎではないかというくらい、空虚な映像が続いていく。
原題は"L'eclisse"、「日蝕」もしくは「月蝕」。人と人との関係が次第に空洞化していく様子のメタファーであり、光と影、存在と不在、出会いと断絶という相反するイメージを重ね合わせたタイトルとなっている。
ストーリーらしきストーリーはほぼないに等しい。
冒頭、当時の大人気歌手ミーナが歌う、映画の本体とは不釣り合いな軽いポップス調の主題歌が流れ、唐突にフェードアウトした後、管楽器の不協和音が鳴り続けるタイトルロールが終わると、モニカ・ヴィッティ演じる主人公ヴィットリアと年長の恋人リカルドとの別れのシーンへと移る。
二人がどんな関係なのか、なぜ別れるのか、などの説明はほとんどない中、断続的に行われる会話は、各々のモノローグを交互に交わすだけ。カットに映り込む部屋の内装や窓枠が二人を分断するようにフレーミングされる。愛の終焉は激しい感情の衝突ではなく、空白と断絶を淡々と確認する作業のようなプロセスとして示される。
ヴィットリアは一貫して関係の継続を拒絶し続けるが、リカルドがしぶとく食い下がる、これだけで約20分が費やされる。
無駄だ。
この時点で、すでに見るものは恋愛という非合理的な関係の空虚さを味わわされる。そうでないものは観ることを止めるだろう。
その後、株式取引所で株取引に熱を上げる母親を訪ねた彼女は、そこでアラン・ドロン演じる野心的な若き証券ブローカー、ピエロと出会う。
二人は次第に惹かれ合い、逢引を重ね、永久の愛を口にするが、とある日の約束の場に二人とも現れないまま映画は終わる。
ここで重要なのは、二人の関係は深まっているように見えながらも、最後まで一線は超えていない。「愛し合いたい」というヴィットリアだが、自分がピエロを愛してるのかは「わからない」のだ。
この筋を文字通りに追えば、一つの恋愛の始まりと終わりを描く作品だと言える。しかしアントニオーニが描こうとするのは個人の心理ドラマというよりも、近代都市に生きる人間の関係性そのものの崩壊である。彼は徹底して観客に対して映像間の合理的な結びつきの提示を拒否する。状況を説明するような台詞は一切なく、無機質で刹那的な建築物や都市風景が人間以上に雄弁に物語を語る。
この映画が作られた1962年は、イタリア経済が「経済奇跡」と呼ばれる急成長を遂げていた時期である。それは同じ敗戦国だった日本の歩みとよく似てている。農村から都市へ人口が移動し、高度経済成長がもたらす新しいライフスタイルや価値観が社会を覆い尽くしていた。ローマ郊外には無機質な新興住宅地やオフィス街が広がり、伝統的な共同体意識は急速に失われていった。アントニオーニはこの社会的変化を敏感に捉え、愛や人間関係の不安定さを都市風景の中に投影する。経済的繁栄が約束するはずの未来は、むしろ空虚で不安な風景として立ち現れる。株式市場の狂騒を描くシーンは、その象徴である。投資熱に浮かされる人々の姿は、経済成長がもたらした表層的な活気と、その裏に潜む虚しさを同時に示している。
アントニオーニはこの空白を作品全体に広げ、観客を虚無感の中に置き去りにする。
ここでは人間の欲望が渦巻くが、それは理性的な計算ではなく群集心理に支配された熱狂である。株価の上下に一喜一憂する群衆は、個人としての主体性を失って群れと化している。そこには大衆消費型の近代資本主義社会の不安定さと、愛情と同じように持続を拒む価値観が露呈している。ヴィットリアはその喧騒に違和感を抱くが、同時にそこから逃れる術を持たない。
アラン・ドロン演じるピエロは、若く快活だが、絵に描いたような香具師で非人間的な資本主義を象徴している。彼の世界は投機と短期的な利益に支配されている。株式市場の暴落で狼狽し憤る一般投資家顧客を冷たくあしらう姿が彼の本質だ。彼とヴィットリアの関係もまた、突発的で刹那的であり、長期的な展望を欠いていることが示唆される。二人の関係は表面的には親密さを帯びながらも、映像として映る姿には常にどこか虚無を湛えている。
そんな二人が何故接近し惹かれ合うことに合理性は見られない。二人が関係するシーンは全て刹那的で、街灯や水道、風に揺れる木々、近代的なビルの無機質な外観など都市の風景が二人の存在を包み込み、むしろ人間よりも外観の方が存在感を持つ。愛の囁きよりも、カメラが捉える建築や都市の描写が映画を支配している。ここでは、愛が成立する場そのものが不安定化させられており、都市という虚無の象徴が前面に押し出されているのである。
めちゃくちゃベタな論評だが、そこには西洋近代文明への懐疑がある。
ほとんど何も起こらないストーリーラインの中で比較的唐突に挿入される、ヴィットリアが暇を持て余している既婚の友人とケニア帰りの友人宅を訪問するエピソードがその象徴だ。
彼女の語る異国での体験や持ち帰った文化の断片は、ヴィットリアにとって一瞬「ここではないどこか」への憧れを刺激する。顔を黒く塗り、現地人の恰好をして踊るヴィットリアをケニアで実際に生活していた友人は冷ややかな目で制止する。彼女にとってはケニアは危険をも伴うリアルな生活の場であり、西洋文明に消費される幻想の土地ではないのだ。
ヴィットリアの軽薄な好奇心に根差す逃避感情は西洋植民地主義と高度成長の恩恵を受けた表層的な文化消費行動にしかなりえず、その幻想はいかにも近代西洋的な都市の喧噪と孤独の中に飲み込まれていく。
映画史に残るラストシーンは、二人の曖昧な再会の意図が果たされないまま、都市の様々な風景が淡々と映し出されて終わる。交差点、街路樹、建物の外壁、水面に映る光、人々の断片的な姿…。しかしそこにはヴィットリアもピエロもいない。観客は彼らの「不在」を突きつけられる。通常の映画であれば恋愛の行方や決定的な結末が示されるところだが、アントニオーニは意図的にそれを拒否し、「不在」をもって唐突に結末としてしまう。
このエピローグ的な数分間は、近代映画における最もラディカルな瞬間の一つだろう。登場人物を欠いた風景ショットの連鎖は、愛や人間関係が崩壊した後に残される「世界の冷たさ」を可視化すると同時に、見るものに不在の空白を埋めるべく思考することを強いる。映画が物語を閉じるのではなく、むしろ開き放つ。その意味で「太陽はひとりぼっち」は「映画とは何か」を根本から覆す習作のようなものだった。
この作品が映し出すのは、愛と欲望の終焉だけではない。近代社会における「人間の孤独」が、近代西洋文明がもたらした都市と資本主義経済の構造と不可分であることを暴き出している。愛の不在は、単に個人の心理的問題ではなく、社会構造の必然的帰結であるという視点が、アントニオーニのモダニズム的特徴である。
建築や都市風景の撮影にもその思想は顕著だ。アントニオーニは、ローマ郊外の新興住宅地、近代的なオフィスビル、無機質な道路や空き地を繰り返し映す。これらは単なる背景ではなく、人間関係を規定する力を持つ空間として描かれている。人間は都市に生きながらも、その空間に適応できず、むしろ都市の冷たさに吸い込まれていく。ヴィットリアとピエロの愛が持続しないのは、個人の性格や選択の問題ではなく、時代そのものがもたらす断絶の象徴なのだ。
このあたりの構造がアントニオーニの作品が典型的なモダニズム的構造を持ちながらも脱構築的なポストモダンの文脈で語られることが多い理由だろう。
だが、アントニオーニはかように近代資本主義の罪を厳しく指弾しながら、同じく共産党員であったパゾリーニとは異なり、コミュニズムへのシンパシーを直接映像の中では表明しない。
コミュニズムこそ労働者階級との連帯という人と人の繋がりを説くものなので、この作品の構図の中で扱うのは難しいからだろう。
現在の価値観からはわかりにくいが、そうした姿勢がスタイリッシュなスノビズムに見えた部分はあるのではないか。
アントニオーニは次作「赤い砂漠」で工場労働者との連帯をイメージしたコミュニズムを称揚するようなエピソードを挿入するが、どこかわざとらしい。
彼の政治的主張が露わになるのはアメリカ資本で撮った「砂漠」からで、彼の作家としての限界が見えたのもそこからだった。
「太陽はひとりぼっち」は、恋愛映画ではない、イデオロギーを表明する映画でもなければ、政治的、社会的なメッセージを発する意図もない。
恋愛もイデオロギーも社会もなく、人と人との交わりの可能性すら否定するかのような映画である。
だが、それはシュールリアリスティックではないしファンタジーでもない。あくまでもリアルだ。
そこでは感情としての愛は芽生えるが、他者と触れることはない。感情は持続することなく、やがて世界の不在の中に消え去る。アントニオーニは、人物を描く以上に「空白」を描き出すことに成功し、その結果、観客は愛の喪失を実感する以上に、現代社会に生きることの孤独と不安を突きつけられる。
邦題の「太陽はひとりぼっち」は、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」が大ヒットしたことからそれにあやかったものと思われる。当時やたらと「太陽」がつくタイトルが好まれたのだ。
あまり真面目に考えたとは思えない安直な邦題だが、意外とこの作品の持つ孤独感を的確に表している。良い邦題だ。
日蝕が一時的に光を覆い隠すように、愛は一瞬の輝きを放っても、すぐに闇に飲み込まれる。だがその闇こそが、現代社会の真の姿である。
アントニオーニは「情事」で婚約者への愛が、「夜」で夫婦間の愛が、何の論理性もなく理不尽に失われていく様を映像として描いた。
そして「太陽はひとりぼっち」では、人と人の関係の存在そのものが失われる。関係性が存在しないのだから愛など成立しようがない。愛のない世界では、登場人物も映像から消失し、そこに残されたのは、都市と風景、そして第三者たる観客の思念だけだ。
映画が物語を「語らない」ことによって、逆説的にもっとも深い真実を提示したのがこの作品だ。潔く、すがすがしいほどにリアルだが、そこには何もない。
——などと後付けで知った気に偉そうなことを書いてるけど、正直書いていて空虚さを感じないわけでもない。リアルな世界に意味のある人間関係が存在しえないことを描いた映画をそのようなものとして「論評」すること自体、意味のある行為とは思えない。そもそも、何の予断もなしに純粋に映像作品としてこれを見て諸手を上げて絶賛するのは相当に性格が悪い人間だけだろう。
自分は性格悪くて個人的にこういうテーストが大好きなので、これは映画史上に残る傑作だと直感したが、それを言語化するのはあまり意味のないことだし、他人に薦めるような映画ではないと感じたことは自白しておきたい。
これに高い評価をすること自体が権威主義的なスノビズムでしかないと言われたら、一瞬ぶん殴りたくはなるが、反論はできない。一般の客観的な評価はおそらくそういうものだ。
アントニオーニはこういう人だと期待して見ればまだいいけど、何の情報もなく初見でこれを見せられたら、なんじゃこれは?と思うだろう。
映画的に自分はギリギリありだと思うが、アウトだと思う人がいてもおかしくない。たぶん、そちらの方が人として正解だろう。
そういう意味では彼はやはり映画を殺す人なんだと思う。
名匠ではあるが、必ずしもヴィスコンティやベルイマンやフェリーニと同列に並べるべき人ではないと思う。ちょっと悔しいけれど。
