真実はすべて美しいが事実はそうではない あるいは【映画レビュー】「ある画家の数奇な運命 / Werk ohne Autor/Never Look Away」(2018)
ある画家の数奇な運命 Werk ohne Autor/Never Look Away
2018年 ドイツ 188分
★★★★☆ (傑作、見ないと損)
監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演:トム・シリング/セバスチャン・コッホ/パウラ・ベーア/ザスキア・ローゼンダール

東ドイツの秘密警察が行った芸術弾圧を描いて2007年のアカデミー外国語映画賞を受賞した「善き人のためのソナタ」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督による現代美術界の巨匠ゲルハルト・リヒターの半生を元にした伝記的映画。
不幸なことに、モデルとなったリヒターとの間に作品の内容に関して諍いがあり、正当な評価が受けづらくなってしまっているのだが、それが全体として作品の出来を棄損しているようには見えない。リヒターのクレームを考慮に入れても、なお、近年のドイツ映画を代表する傑作と言って良い。
作品の評価に影を落とす形になってしまったリヒターからのクレームだが、ドナースマルクはリヒター本人に約一ヶ月かけてしっかりと取材した上で「リヒターの名前を出さないこと」「何が事実か事実でないかは絶対に明かさないこと」との条件付きで、映画化の許諾を得ており、画家本人の意にある程度は沿ったものに仕上げたつもりだったようだ。
しかしながら、リヒターは予告編を観て激怒し、完成した本編どころかすべての資料を見る気すらしなくなったと憤っている。
ドイツ版の予告編は見たことないが、日本版や英語版(英題は"Never Look Away")はスキャンダラスなミステリー映画仕立ての煽り構成になっているのでそれが気に障ったのかもしれないが、脚本も見た上での発言のようなので、作品の根幹としてナチスによる叔母エリザベスの死と自らの創作姿勢を直接的に結びつけるような描写が気に入らなかったのだと推測する。
エリザベスの断種とガス室送りを決定した医師が、後にリヒターの妻となる女性の父であったことは、スキャンダラスな事実ではあるが、それがリヒターの創作に与えた影響は決して大きくはなかったというのが事実関係としては正しいようで、その意味ではこの映画のシークエンスだけ見ると「盛っている」感はある。そのスキャンダルはたしかに映画のストーリー上重要な役割を果たすのだが、殊更強調するような描き方はしておらず、これだけ重要なモチーフの割にはむしろ抑制的な描写に留めており、一定の配慮がされていることは理解できる。
どちらの言い分もわからないでもないので、第三者としては不幸な衝突だったとしか言いようがない。
邦題が煽動的でダメなのはよくある話だが、ドイツ語の原題となっている「作者のない作品」にも若干違和感がある。
写真の持つ客観性と匿名性と絵画の抽象性を融合させたリヒターの作風の意図を解説するかのようなタイトルで、リヒターが苦闘の果てに辿り着いた表現の方法論に言及したものではあるが、映画全体を見通すとそういったリヒター個人の創作意図にフォーカスしているようには思えない。
個人的には英題の"Never Look Away"(目を逸らすな)がもっともしっくり来る。
誤解を恐れずに単純化すると、この映画の主題はリヒターに準えた主人公クルトの叔母エリザベトが亡くなる前に発した「目を逸らさないで、真実はすべて美しい」(nie wegsehen, Kurt. alles was wahr ist schön)というセリフにある。
ここでエリザベトが言及している"alles was wahr"のニュアンスは、日本語で書くと「すべての真実」となるので少々大仰な印象を与えるが、このシーンでの意図は「人々が実際にそこに存在して経験すること」であろう。つまり「人々が生きている」ということだ。人々が実際に生きて、感じ、考えることはすばらしいことだ、あのナチスによる抑圧の時代にその抑圧を直接受けながらそうエリザベトは伝えたかったのだ。
映画の冒頭のシーンでのナチスが主催する「退廃芸術」展に展示された作品に描かれている(とナチスが主張する)社会的弱者の錯乱や病理は、どんなに「強者」である政治権力が否定しようと実際にそこに存在するのだ。それらは必ずしも明るく喜ばしいものではないかもしれない。けれどもそれらが存在することは、すばらしいことだ。そう言いながらエリザベトは裸でピアノを弾き、精神病者として安楽死処分される。
最初の10数分までに描かれるシーン。もうこれだけでこの映画のテーマは完結している。あとはこれをどうクルトが、そして作品を観るものが、自分の感覚として理解するかだけだ。
その割にその後が3時間近くあって長ったらしいのだが、この映画はクルトが「alles was wahr ist schön」を実感するに至るまでに、もがき苦しむプロセスを描いている。
地元ドレスデンで芸術教育を受けたクルトは東ドイツで看板描きとしての職を得、「社会主義リアリズム」というプロパガンダ芸術への献身を余儀なくされる。
工場労働者や農民を理想化して描き、国家の理念を美化することが「美」とされる社会で、個人の真実や内面は「ブルジョワ的」として排除される。
そして共産主義国家がかつてのファシズムのごとく全体主義化する中で、伯母を奪った権威主義的イデオロギーが形を変えてクルトの才能を棄損する。それはまさにナチスが「退廃芸術」として排除しようとしたものと同質の芸術弾圧だった。
恋人エリーの父ゼーバントとの関係も微妙で彼の「真実」を求める道程に暗い影を落としている。元ナチ高官の医師である彼こそが叔母を死へと追い込んだ張本人なのだが、その関係は明るみにならない。それだけでなく、ゼーバントは精神病者を排出しているクルトの血筋を嫌い、クルトの子を身籠った娘を騙して中絶させるという鬼畜ぶりを発揮する。
ベルリンの壁が築かれる直前、自由な表現を求めて東独を脱出したクルトは、西ドイツのデュッセルドルフで自由な芸術活動が可能な環境に身を置く。しかし、そこで直面するのはまた別の抑圧であった。当時の西側の現代美術界では、抽象表現やミニマリズム、コンセプチュアル・アートが主流であり、個人的な主観や感情を描く絵画は「時代遅れ」とされていた。
クルトもそのトレンドに乗って抽象画の製作を試みるが、そこには内面的な必然性が欠けていた。彼の「真実」はそこにはなかったのだ。
資本主義体制下の芸術表現は、耳目を惹きつける「売れる」スタイルを意識する必要があり、本来自由なはずの芸術の場でさえ、大衆消費社会の礎となる商業主義への迎合という形の別の抑圧が存在していた。この過程で彼は「形式への迎合」と描きたい「真実」の間に深い断絶があることに気づく。
つまり、ナチスや東独社会主義といった公然のイデオロギー支配と同じく、「自由の名の下の同調圧力」もまた、芸術家のまなざしを曇らせる要因であることが示される。
ここで、映画では、ナチスの断種政策を遂行した責任者が逮捕されるというニュース写真を見て取り乱す義父の姿から叔母の死の記憶を蘇らせ、逮捕のニュース写真と義父のポートレート写真と叔母と幼いクルトが並んで映っている写真を模写し、刷毛で白い絵の具を塗り重ねて周囲をぼかす、いわゆるフォトペインティングの手法を思いつく。
この作品群は実在するものの、フォトペインティングの最初の作品ではないので、映画の中だけでのフィクションだが、ここで彼が辿り着いた「目を逸らすことができない真実」はナチスに殺された叔母の生だったということになる。これだけ引っ張っておいてやはりそこなのか、という思いはあるものの、ある意味必然の帰結と言えるだろう。
創作に関する重要な事実を曲げられたリヒターが怒るのは理解はできるが、フィクションが混じることは映画のロジックとしては説得力があるので、必ずしも映画自体の出来を棄損するほどの欠陥とは言い難い。ある意味見事な脚色と言えなくもない。
閑話休題的に、自分の貧弱な知識とGoogle先生のサポートで美術史的なおさらいをしておくと、クルトが西ドイツに移った1960年代は「絵画は死んだ」と語られる時代であった。
第二次世界大戦後、アメリカを中心に抽象表現主義(ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ)が隆盛を極め、「芸術家の内面の激情をキャンバスに叩きつける」ことが最も純粋な表現であると信じられた。めちゃデカいキャンバスに絵具撒き散らしただけみたいなやつ。まあ、ぱっと見ワイルドで情熱的に見えなくもないが、基本、即興性・偶然性を重視する過剰な主観表現でしかないので、独創性には限界がある。この反動として現れたのが、フランク・ステラやドナルド・ジャッドに代表される「ミニマリズム」。幾何学的な図形の多用、色彩の抑制、空間との関係性を重視した抽象表現で、線や面を基本とした単純な描写の組み合わせで対象そのものの性質を強調する手法である。と言われてもなんのこっちゃであるが、要するに、主観のみに頼る抽象表現主義を否定して対象を客観的に描くことを重視するものの、見えてるものを見えている通りに描くのは人間の視覚と感性を通した虚構であり、対象の本質ではない、みたいなわけがわかるようなわからないような理屈で写実主義に根差す表現を拒否する。
だが、絵画におけるミニマリズムはだいたい記号表現に収束してしまうので、いかに創造性を確保しようと苦慮しても陳腐化してしまう。
めちゃくちゃ単純化してしまうと、現代絵画美術は主観を拡大する抽象表現の曖昧さを廃することで主観を徹底的に排除したミニマリズムに辿り着き袋小路に陥った。このシークエンスによって「絵画は死んだ」のだ。
その閉塞感を打ち破り、絵画を現代美術のメインストリームに戻したのがクルト(=リヒター)のフォトペインティングという流れになる。
写真という客観的なイメージを油絵具で模写し、さらにぼかしを加えることで、現実と記憶の曖昧さを表現しようと試みる。この手法は、ミニマリズムの持つ「客観性」や「無個性」といった要素とは対照的に、作家の主観的な介入や感情の表現を可能にし、絵画芸術における主観と客観の両立を可能にした画期的手法と持て囃された。
この辺の流れを知らなくても何となく理解はできるだろうけど、抑えておくと、エリザベトの「真実は美しい」というテーゼと、クルトの辿り着いた表現のリンケージがより鮮明になるのではないかと思う。
映画の話に戻る。
3時間を超える長尺で、少々冗長さも感じさせる展開だったが、ラストシーンは圧巻だった。
クルトが叔母の真似をして、5台のバスのクラクションを同時に鳴らさせる場面では、不覚にも涙が止まらなかった。
それは、叔母とクルトにしか理解できない音色であり、そのような意味づけこそが「真実はすべて美しい」ことを端的に表しているからだ。
バックに流れるヴィヴァルディの「秋」は裸のエリザベートが弾いていた曲だ。
その瞬間、そこまでの時間が自分の中から忘れ去られてしまったかのような衝撃が走った。
あの音色の意味を、クルトとエリザベトと、共有できたことに感謝したい。
そう、「真実はすべて美しい」のだ。
序盤で退場するため出番は少ないもののこの作品の重要なテーマを体現し鮮烈な印象を残すエリザベトを演じたのは敗戦後のナチス高官の家族の逃亡生活を題材にした「さよならアドルフ」での娘役が鮮烈だったザスキア・ローゼンダール。
苦闘する主人公を学生時代から一貫してサポートする妻を演じたのが「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」「未来を乗り換えた男」「水を抱く女」などの話題作で近年のドイツ映画を代表する女優となったパウラ・ベーア。
この二人の熱演に比べると主演のトム・シリングは少し線が細く頼りないが、これがこの俳優さんの持ち味なのだろう。飄々としていて悪くない。
本作のヴィランである義父を演じたのは「善き人のためのソナタ」で主人公の劇作家を演じたセバスチャン・コッホ。怪演である。
長編2作目の「ツーリスト」での失態で、暫く映画製作の一線から離脱せざるを得なかったドナースマルクにとっては、これが名誉回復の一本となる堂々の復帰作となる予定で、リヒターのクレームがなければその目的は完璧に果たせたはずだったのだが…その後また映画が撮れていない状況のようで少々心配である。ガチの伯爵家の出身の人なので、食うに困るような状態ではないのだろうが、本作や「善き人のためのソナタ」を見るかぎり、卓越した才能を持った映画作家であることは間違いない。のでなんとかもう一花咲かせてほしい。年齢的にもこれからが脂が乗る時期のはずだし。
