悩み事はレモンドロップのようには溶けていかない… あるいは【映画レビュー】「ジュディ 虹の彼方に / Judy」(2019)
ジュディ 虹の彼方に Judy
2019年 イギリス・アメリカ合作 118分
★★★★☆ (傑作、見ないと損)
監督:ルパート・グールド
脚本:トム・エッジ
出演:レネー・ゼルウィガー/ルーファス・シーウェル/フィン・ウィットロック/ジェシー・バックリー/マイケル・ガンボン

映画「オズの魔法使」を最初に見たのは小学生の時だった。元号で言うとたぶん昭和50年前後。
映画館ではなく、公民館のような小さなホールに椅子を並べて、中途半端な大きさのスクリーンに映写していたような記憶がある。
学校が休みの時期の名作上映会のようなもので、同じタイミングではなかったが、東映の「長靴をはいた猫」のアニメもそういう催しで見たような気がする。
「オズの魔法使」のストーリーは本で読んで知っていたのでワクワク感はなく、竜巻で家が飛んでいくシーンがショボかったのと、飼い犬のトトが可愛かったという記憶しか残らなかった。
それが、戦前に作られた映画史に残る名画だと知るのは少し後、高校生になってからだ。そして、浪人時代か大学に入りたての頃、再度教育テレビで観た。小学生の時には意識もしなかったが、ドロシー役の女の子が可愛いくて歌が上手いのに驚いた。「虹の彼方へ」という有名な曲の存在は知っていたが、それがこの映画で歌われていた曲だと知ったのもこの時だ。
とても美しい歌声だ。抜群の美人というわけではないが、ルックスもとても愛らしい。ジュディ・ガーランドという名前が自分の記憶に刻まれた。
ドロシー役をやったときの彼女は16歳だったので、再放映を見た自分とほぼ同年代ということになるのだが、彼女の方がずいぶん幼く見えた。
映画の製作年を考慮すると、世代的には自分の母親より一世代上くらいの年齢だろうとは想像がついたが、すでに10年以上前に亡くなっていたと知ったのは少し後になってからだ。
彼女のその後の人生が壮絶なものだったと知るのは、さらにそれよりも後、ハリウッドスターやロックスターの変死に纏わるエピソードの一つとして何かの書物で読んだ時だった。
ネットがない時代の情報収集というのはだいたいこんなペースだった。生きていて現役で活動していれば、映画雑誌などを読んでいれば断片的でも情報は入って来るのだが、彼女は「オズの魔法使」以降日本の名画座で頻繁に見られるような作品には殆ど出ていないし、雑誌等で扱われることもまずなかった。「若草の頃」も「イースター・パレード」も「スタア誕生」も名作だが、その当時の自分には届きようがなかった。自分にとって、彼女は海の向こうの過去のスターであり、自分の住む世界では伝説にすらならない人、だった。
彼女の死は薬物の過剰摂取によるものと診断されている。
古今東西、オーバードーズで死ぬスターは珍しくない。
マリリンも、ピアフも、ビリー・ホリデイも、ジム・モリソンも、ジミヘンも、ジャニスも、プレスリーも、カート・コベインも、リバー・フェニックスも、ヒース・レジャースも、尾崎豊も、直接、間接的な影響の差はあれどみんなドラッグで死んだ。ジュディ・ガーランドが彼ら、彼女らと違うところがあるとすれば、彼女は十代の頃から大人たちによって薬漬けに「されていた」という点だろう。
ハリウッドは稀代の才能をドラッグ漬けにして台無しにしたのだ。
なのに、ハリウッドは今なおドラッグを称揚するような映画を創り続けている。言いたくないが、馬鹿なんじゃないかと思う。
今回取り上げる映画「ジュディ 虹の彼方に」は、その「消えたスター」ジュディ・ガーランドの半生を描いた伝記映画。
ジュディの半生をクロニクルに描くのではなくキャリアの最後のロンドン公演の顛末にフォーカスした内容になっている。
彼女の年代記を綿密に描けば、それだけでドラマティックなものにはなるが、ほぼドキュメンタリーになってしまう。彼女の人生自体が変に脚色などする必要がないほど劇的だからだ。そして事実に即して描けば描くほど、ジュディの人生の悲劇性だけがクローズアップされてしまう。つまり、彼女はハリウッド・スター・システムの犠牲になった可哀相な女の子だった、という筋立てである。それは決して間違ってはいない。彼女はシステムの犠牲者だった。だが、これはあくまでジュディ・ガーランドという「人間」を描く映画だ。システム批判のメッセージを伝えたいわけではない。であれば、主人公の悲劇性を殊更強調するようなプロットは本意ではない。それを避けるために、本作では死の直前、最晩年のエピソードに絞ったのだろう。
映画はまだ子役時代のジュディがMGMの社長、悪名高きルイス・B・メイヤーへ「普通の生活がしたい」と訴えるシーンから始まる。
メイヤーは「普通の生活」のつまらなさを強調し「君は特別だ、普通ではない」と彼女の才能を持ち上げながら「普通の生活がしたいならここから出ていけばいい」と言い放つ。
冒頭僅か5分程度のやりとりで当時の映画会社(ことにMGM)が子役スターをいかに消費しスポイルしていったのかが明らかになる。
鮮やかなセットの傍で繰り広げられるこのシーンは、この映画がハリウッドのスター・システムと大衆消費文化に搾取された少女の物語となることを示唆している。
物語はそこから一気に彼女の最晩年へと飛ぶ。
舞台は1968年、ハリウッドと大衆に「消費」されたジュディは、映画出演やレコードの仕事も永らく途絶え、経済的にも精神的にも追い詰められていた。家族を養うため、そして自らの歌声がまだ人々に求められていると確認するため、彼女は子供たちを連れてホテルを移動しながら巡業コンサートの旅を続ける。
だが、現実は厳しい。ホテルの宿泊費すら払えない困窮ぶりを見かねた前夫は、子供たちの将来のためにジュディに親権を譲渡するよう持ちかけてくる。
拒否できないジュディは、泣く泣く愛する子供たちと別れ、かつて人気を博したロンドンでの長期連続公演にエンターテイナーとしての再起を賭ける。
薬物禍による入院や職場放棄、遅刻などを繰り返し、ハリウッドから追放されて、どん底まで堕ちて行っても、まだなお、彼女をサポートする人たちがいるのはやはり彼女の才能に惚れている人たちがいたからだろう。彼女がステージに立ちさえすれば、必ずそれを聞きに来る人たちはいるのだ。なぜなら彼女は唯一無二だからだ。
そう、メイヤーがいみじくも語ったように「彼女は特別」なのだ。
これは単なる落ち目の歌手が再起を果たそうとする物語ではない。心身ともにボロボロになりながら、それでも自らの力でマイクの前に立つことを選び続けた「特別な人間」の生き様なのだ。
本作の最大の見どころは何と言ってもオスカーを受賞したレネー・ゼルウィガーの演技だろう。
彼女は全ての歌唱シーンを吹き替えなしで演じきっている。彼女の声は決してジュディには似ていない。だが、そのかすれと張りが共存する独特の響きには、長年の無理がたたった喉の疲弊や精神的な不安定さが刻み込まれている。再現度を競う模倣ではなく、やはり若くはない自身の身体を通して「誰もが想像する晩年のジュディ」を再現させた、そんな迫力がある。この手の伝記映画でよくある「物まね王座決定戦」的な上手さではない。だからこそ胸を打つ。
歌声以上に圧巻なのは表情の細部だ。ステージ上でスポットライトを浴び、観客の喝采を受ける瞬間に見せる陶酔の煌めき。その直後、袖に戻った瞬間に浮かぶ虚脱の陰影。ゼルウィガーは「奇跡の才能を持ちながら酷使され、消費されたスター」の運命を見事に体現している。
物語の中心となるロンドン公演。崖っぷちの挑戦。
再起をかけた大舞台へ臨む彼女はプレッシャーに押しつぶされそうになる。「歌えない」と舞台の袖で泣くジュディ。ロンドンでのコーディネーターの女性に背中を押され、無理やりステージへと立たされる。
しかし、ひとたびショーの舞台に立てば、そこは一瞬にしてジュディの世界へと変わる。観客も主催者も彼女の登場を歓迎する。彼女が歌い出すと、そこにはたしかに「魔法」が宿る。拍手と歓声は、かつてのジュディの輝きがまだ完全には消えていないことを示している。
公演は大成功、ジュディは名声と評判を取り戻したかに見えた。
しかし、それもつかの間、プレッシャーに押しつぶされ、追い込まれたジュディは酩酊状態でステージに上がり、野次を飛ばした観客と悶着を起こしてしまう。その日を境に、子供の親権問題や、アメリカでの新規契約を巡る新しい夫との諍いなどもあり、ジュディは日に日に精神的に追い詰められていき、安定したステージを務めることができなくなっていく。遅刻、泥酔、精神不安、家庭不和。今までの没落人生と同じことの繰り返し。公演を続けられる状態ではなくなってしまい、遂には公演中止という最悪の決断が下される。
それでも、彼女の歌を待ち続ける人々はいる。
映画の中で描かれる同性愛者のカップルとの交流は象徴的だ。
ジュディが早くからLGBTへの理解を示していたことはよく知られている。
ジュディの歌は彼らの心の避難所であり、ゲイに対する差別が当たり前だった時代に「自分らしく生きること」という希望を与えた。彼女がただの「悲劇のスター」ではなく、弱さを抱えた人々の象徴であったことを、本作はこの小さなエピソードに託している。
二人は5年越しで漸く手に入れたチケットを持って劇場へ行くが、窓口でジュディのコンサートはキャンセルとなりロニー・ドネガンがショーを代行することを告げられる。代行なのでチケットの払い戻しができないと言われ憤慨する二人。
代役のロニー・ドネガンのショーを見に来たジョディは、舞台袖でショーを始めようとするロニーに、自分を見に来た客に対して一曲だけ歌わせてほしいと懇願し、最後の舞台へと向かう。選曲をバンドマスターに任せ、彼のチョイスした “Come Rain or Come Shine”を歌う。
ジュディの歌声を受付で聞いたカップルは急いで劇場の中に入って彼女の歌に喝采を浴びせる。
そして、映画は、クライマックスである「虹の彼方へ」のシーンへと突入する。
この「虹の彼方へ」を歌う場面、感極まったジュディの声は震え、息は続かず、往年の輝きとは程遠い。だが、その不完全さゆえにこそ、聴くものの心を揺さぶる。ついにジュディが歌えなくなったのを見て、同性愛カップルが立ち上がり続きを歌い始めると、他の観客たちも併せて歌い出し、ホールが一体となった大合唱となるのだ。
ベタだ。どこにでもありそうな陳腐な展開だ。そう冷笑するのは容易い。
だが、ジュディが生きて来た道程の苛烈さにいささかでも思いを馳せることができれば、そこに否定しがたいリアリティがあるのを感じるだろう。
自分もこのシーンで画面に合わせて「虹の彼方へ」を歌いながら涙した。
この曲の持つパワーの凄さ故であるが、同時にジュディの人生の壮絶さとその最後の場面を演じきったゼルウィガーの役者魂への共振でもあった。
彼女が舞台に立ち続けた理由は名声や金銭ではなく、歌うことそのものに自分の存在を賭けていたからだ。ゼルウィガーの歌声は、かつての希望に満ちた完璧なドロシーのイメージとは異質ながら、それでも「虹の向こう」の「夢が実現する土地」を求めて歌い続ける姿を見事に表現している。
ジュディ・ガーランドの悲劇は、彼女自身の弱さが原因とは言い難い。子役時代からの過酷なスケジュール、体重管理のために課された薬物、プライベートの自由を奪った契約。彼女の人生の基盤には、ハリウッドという巨大システムの搾取があった。本作はその構造的暴力を直接的に告発する映画ではないが、冒頭のメイヤーとのやり取りも含め、ハリウッド子役時代に挿入されるエピソードはすべてそれを裏付けている。スターは「普通」であってはならず、「特別」であるために犠牲を強いられる。それが一人の人生をいかに蝕んでいくのかを、映画は静かにしかし残酷に見せつける。
映画はジュディの死を直接描かない。だからこそ観客はラストシーンの余韻の中で、彼女の生涯を思い返すことになる。16歳のドロシーから始まった栄光の道は、波乱と苦悩に満ち、最後には必ずしもハッピーエンドとは言い難い結末を迎える。だが、そのすべてを引き受けてなお歌い続けた姿に、人は心を動かされる。本作は「ハリウッドシステムの犠牲者」の肖像ではなく、「歌うことで人生を切り開こうとした女性」の足掻きを描こうとしているのだ。そしてそれは成功している。
ジュディと同時期、MGMのライバル、20世紀フォックスの看板子役だったシャーリー・テンプルは、ジュディと比肩するような名声を得た後、ほぼ無傷でハリウッドから巧妙にドロップアウトして大企業の御曹司と幸せな結婚をし、テレビスターとして復帰して人気を博しながら、政治や外交の世界でも活躍したアメリカを代表する名士として生涯を過ごした。それはそれで素晴らしい人生だ。文句のつけようがない。だが、2025年の今、つい10年ほど前2014年まで生きたシャーリー・テンプルの芸能業績や具体的な作品を誰が覚えているだろうか。ローティーンの子役時代の彼女は特別だったはずだ。だが、彼女は時代とともに褪せてしまった。彼女は、真の意味で特別ではなかったのだ。
「オズの魔法使」のドロシー役は本来4歳年下のシャーリー・テンプルが演じるはずだったというのは有名な話だ。シャーリーがプロデューサーのセクハラによるキャスティング・カウチを拒否した結果、ジュディに役が回って来たという経緯も今ではほぼ定説になっている。この対比こそが人々の彼女たちに対するイメージを決定づけた。大ヒット作への出演を拒否したことで純粋さを保ったシャーリーと、出演したことでダーティなイメージがついてしまったジュディ。
絵に描いたような勝ち組と負け組人生。だが、「負け組」となったはずのジュディは、その生涯をかけて私たちにかけがえのないものを残してくれた。彼女が録音した数々の歌声と「虹の彼方へ」というエバーグリーンな名曲、そして「オズの魔法使」という名作映画。これら人類に対する貴重な遺産を残してくれた彼女はやはり特別な存在だった。
特別だったからこそ「普通」には生きられなかった彼女がその代償として残してくれたものに感謝しながら彼女の波乱に満ちた人生に深い追悼の意を表明したい。
「ジュディ 虹の彼方に」は単なる悲劇のヒロインの伝記映画ではない。スターの転落を描く映画でありながら、そこには人間が生きようともがく姿がある。ゼルウィガーは魂を振り絞ったかのような熱演で、見るものに「ジュディの魂はまだここにある」と信じさせてくれるのだ。
ジュディの人生はたしかに悲劇としか言いようがないものだったが、その歌声は今もレコードや映画を通じて生きている。それが救いだ。彼女にとっても、彼女の歌に魅せられた私たちにとっても。
虹の彼方に夢が実現する場所が本当にあるかどうかなんて誰にもわからない。けれど、彼女が残した歌が私たちに教えてくれるのは「苦しみの先にもなお希望は存在する」ということだ。
残りの人生、せめて、それくらいの「夢」を信じながら生きて行きたい。
ジュディの歌を聴きながら。
