ナチスの子供たちが歩む烙印の旅 あるいは【映画レビュー】「さよなら、アドルフ / Lore」(2012)
さよなら、アドルフ Lore
2012年 オーストラリア/ドイツ/イギリス合作 109分
★★★★☆ (傑作、見ないと損)
監督:ケイト・ショートランド
脚本:ケイト・ショートランド/ロビン・ムケルジー
出演:サスキア・ローゼンダール/カイ・マリーナ/ネレ・トゥレープス

「関心領域」のレビューでも書いたように、ナチスを題材にした映画は数多く作られて続けている。
残念ながら、排外主義と歴史修正主義が世界各地で跳梁跋扈する現在の情勢下では、ナチスがもたらした悲劇やナチスに対する抵抗の軌跡を商業作品の中で描くことの意義はより重要性を増していると感じる。
だが、ナチスを描く映画には、ピュアなハリウッド資本によるものは非常に少ない。
前述の「関心領域」もメインの製作会社はイギリスの会社だし、それ以外にも近年話題になったナチス関連の映画はほぼすべてがヨーロッパ資本によるものだ。
ハリウッドの主要スタジオでは「シンドラーのリスト」以降、ナチスをメインテーマにした作品は一本も撮られていないのではないか。
自分が知る限り例外は「愛を読むひと」くらいではないかと思うが、あれもナチスによる非人道的行為の直接的な描写はなかった。
理由はわからないが、恐らくはファイナンスがつかないのだろう。企画段階からいろいろ制約があって面倒くさそうなのでそもそも企画する人も少ないんじゃないかという気がする。
つまるところ、余所事だというのは大きい。直接経験した人がいないので、語るべき物語がない。
一方、加害/被害とも当事者であったヨーロッパの各国は精力的にナチスを題材として取り上げている。
戦後80年を経て、直接の語り手は徐々に絶えつつある。だからこそ形に残す必要がある。
戦争の悲劇を「語ること」を冷笑するような昨今のマチズモ丸出しの醜悪な言説には自分は絶対に与しない。
原爆の悲惨さを先人たちが語り継いできたからこそ、今人類は何とか生き永らえているのだから。
ナチスを語る作風にはいくつかのパターンがある。
ナチスの蛮行、強制収容所やユダヤ人迫害などを直接描くのが王道なのだろうが、これは「夜と霧」や「アウシュビッツの生還者」のようなドキュメンタリーを除くと意外と少ない。
数的に多いのは蛮行から逃れた人たちや蛮行と戦った人たちを描くケースで、「戦場のピアニスト」や「シンドラーのリスト」など著名な作品はこのカテゴリーのものが多い。
蛮行に与した人たちのその後を描くパターンもよく見られる。「顔のないヒトラーたち」や「愛を読む人」など。
ナチス自体の興亡やナチス支配の後処理を描くパターンも多い。「ヒトラー 〜最期の12日間〜」や「ちいさな独裁者」。
が、いずれにしてもそれらの作品は反ナチス側の視点から描かれているものが圧倒的に多い。悪いことをしたやつらがいかに悪かったかを描くのが王道だ。それが普通だろう。
本作は、最後のカテゴリーに属する作品だが、ナチスの支配の終焉をナチス側~ナチス政権で指導的地位にあった高官の子供たちが受ける試練を通して描いている点が斬新である。いわばナチスの側の「犠牲者」を描いている。
紛れもなくナチスを題材にした映画なのだが、単純な反ナチス映画ではない。ナチスの側にいた人間の視点から戦争終結による価値観の逆転を書いていて、ありそうで意外とこれまで見ない視点だ。反ナチスを謳っていないものに価値がないわけではない。多様な視点から語ることに意味があり、価値がある。
原作はレイチェル・シーファーの中編小説集「暗闇のなかで」の同名小説。
第二次世界大戦でのドイツ敗戦直後のオーストリア・ドイツを舞台に、ナチス党幹部を両親に持つ14歳の少女ローレが乳児も含めた4人の弟妹たちを連れて、ウイーンから祖母の住むハンブルグまで900Kmに及ぶ道程を踏破した過酷な旅路を描いている。彼女たちは何の罪も犯しておらず、誰かに追われているわけではない。しかし、ここで描かれる物語はあきらかに逃亡劇だ。自己を規定し束縛していた価値観からの逃亡。すなわち、この映画はアイデンティクライシスを克服しようとするジュブナイルストーリーでもある。
邦題にある「アドルフ」とはもちろんヒトラーのことだが、それは単なる独裁者の名ではなく、戦時下に多くの人々が信じてきた「世界そのもの」の象徴として描かれている。敗戦直後の混乱下での価値観の転換を端的に表すフレーズであり、この映画のテーマを上手く表した秀逸な邦題だと思う。
原題の"Lore"は主人公の名前。
ナチス高官の家庭に育ち、戦時下のナチス的価値観を植え付けられていた14歳の少女ローレがこの映画の主人公である。彼女はヒトラーを「父」のように崇拝し、国家とドイツ民族と家族の価値を一体化させた教育を受け、裕福かつ幸福な支配階級の家庭で育って来た。
しかし、敗戦によってこの幸せな家庭生活は一気に崩壊する。ローレの両親も含めナチスの価値観を称揚していた支配者階級の者たちは逮捕や逃亡に追い込まれ、絶対的な勝者の論理であったナチス的価値観は一夜にして人類に対する犯罪思想として糾弾される。ローレを育んできたナチス的価値観の元で提唱されたアーリア人種の支配による安定した世界の秩序というファンタジーはほぼ一夜にして霧散したのだ。
敗戦の日、ナチスの高官だった父親は居間にあったナチス関連の書類を燃やし、一家逃亡に備えて、飼い犬を射殺する。父親はほどなく連合軍に拘束され、残された一家は郊外の農家に身を隠す。
そして母から告げられる総統の死。ローレの世界観を根底から揺るがす瞬間だ。ヒトラーの死は単なるニュースではなく、彼女がこれまで拠ってきた絶対的な世界秩序の崩壊を意味している。ここでローレが信じていたものが無残にも瓦解する。
母親は出頭命令を受けて連合軍の元へと赴き、そのまま帰ってこなかった。残されたローレを含む5人の子供たちは疎開先の農家からは石もて追い出されることになり、母の言に従い900Km離れたハンブルグの祖母の家をめざす。
移動の途中、最初の避難所の共同掲示板で、ローレは衝撃的な写真を目にする。ユダヤ人虐殺の現場写真。死体が大量に積み重ねられた、吐き気のするような画像。その虐殺の場の傍に映る父の姿にローレは衝撃を禁じ得ない。ローレは、まるで虐殺と父親を切り離そうとするかのように写真から父の映った部分だけを切り抜き、ポケットにしまう。
この行為は一見、事実を覆い隠し父親への信頼を確保しようとする心理によるものともとれるが、恐らくはあまりに惨たらしい真実を目にして、その過ちから自らの意識を切り離すことによってしか自己防衛の術がなかったのではないかと思う。
その後、ユダヤ人青年トーマスとの交流を経て、父の過ちを明確に認識したローレは、虐殺の場から切り取った父の写真と家から持ち出してきた父のポートレートを一緒に埋めるという行為に至る。これは父への愛と父の罪。そして父に象徴されるナチスと自分との関係を一度に葬り去ろうとする試みだ。自らの手で埋葬することで、彼女は初めてナチス的な価値観から自己を切り離し、新しい自分を受け入れるために前進する。
ここで物語に複雑性を加えているのは、彼女の旅の中で出会うユダヤ人青年トーマスとの関係である。ローレにとってユダヤ人は、これまで「劣等」と教え込まれてきた存在だった。しかし、現実にはトーマスの行動力が彼女たちを守り、食料を分け与え、移動を助ける。支配の構造が逆転する瞬間、ローレは混乱しながらも、これまでの自分の位置づけが崩れ去っていくことを実感する。
過酷な環境下で頼るべき存在は、これまで蔑んできた者だったという事実は、ローレの内面に深い混乱と屈辱をもたらすが、機転と生命力に富んだトーマスの振る舞いに彼女は徐々に惹かれていく。
移動のための渡し船を出してもらうためにローレは初老の漁師に体を差し出そうとする。それは彼女にとっては生存のためのやむを得ぬ取引だったのだが、まさに行為に及ぼうとする瞬間、トーマスはその漁師を殺害してしまう。劇中では明確には描かれないが、すでに二人が男女の関係になっていることが示唆されるとともに、ローレにとってのトーマスが単なる守り手であるだけではなく、恐るべき暴力による支配者にもなりうることを彼女は認識するのだった。
彼女は彼を恐れながらも彼に依存し、完全に拒絶することができない。この支配と被支配の関係の逆転は彼らの旅をより過酷で緊張感を孕んだものへと変えていく。
弟ギュンターのアクシデンタルな死に際し、これ以上の共同行動に危険を感じたトーマスがローレたちと離れようとした時、すでに彼に依存し支配されていたローレは「赤ん坊をあげてもいい」と必死に引き留める。生存のために人としての尊厳も投げ出すかのような悲痛な展開で鬱になるが、ローレの必死の情にほだされたのか、もしくはまだ利用価値があると思ったのかは不明ながら、トーマスは引き続きローレたちに同行する。
その直後、列車に乗ろうとするところで彼は身分証の不携帯によって逮捕され、ローレたちと離れてしまうのだが、そこでさらに複雑な真実が明らかになる。
生き残った双子の弟の片割れユルゲンが隠し持っていた「トーマス」の身分証には、これまで同行していた男とは異なる別の男の写真が載っていた。これまで同行していた男は、敗戦後の占領下で優位な立場を得るためにユダヤ人「トーマス」に成りすましていただけで、実はユダヤ人ではなかった可能性すら示唆される。最初の遭遇時に映像で提示される腕の識別番号は、身分証とは別人ではあるもののユダヤ人ではある可能性を示唆するものであるが、彼のその後の機転の効いた巧妙な振る舞いを考えるとあるいはユダヤ人に成りすますための偽装の可能性も捨てきれないのではないか。彼が何者だったのかは結局最後まで明らかにされないが、この設定が意図するところは非常に重要な論点を浮かび上がらせる。ローレは「自分が蔑んできた者に助けられる」という体験を通して価値観を転換し始めるが、それが虚像だったとしても彼女の転向は不可逆なのだ。つまり戦後の混乱による困窮の中、人々にとって重要なのは、相手の属性ではなく優越や劣等の意識を乗り越えて他者と協力、共存する普遍的な共同体力学のみなのである。
この映画におけるトーマスの在り方は、ユダヤ人とかドイツ人だからといった属性によるフィルターを外した一種のトリックスターのような存在と規定することができ、作品を単なるナチス/反ナチスもしくは親ユダヤ/反ユダヤというようなサイモン・ウィーゼンタール的な画一的な世界観とは明らかに距離を置くものに昇華させていると言えるだろう。
ラスト近く、「トーマス」と別れ、やっとたどり着いたハンブルグの祖母の家では、ローレの苦難を踏みにじるような光景が待っている。
祖母はまだナチスの理念を信じ、「ローレの父母や総統のやったことは正しかった、今にそれがわかる」とローレを諭す。祖母の信念はナチスによる洗脳というだけでなく、プロイセン的な保守主義の美徳とナチスの理念の親和性の高さを表してもいる。旧世代と新世代との断絶。それもまた戦争の残した大きな傷跡だ。
ローレの体験は現実であり、祖母の理念は因習だ。ローレは威圧的な祖母に反抗し食卓を立ち、母の形見だったバンビの置物を踏み砕き、因習に根差した旧世代の価値観への抵抗を示す。
映画はローレが「トーマス」の身分証に入っていた写真を見入るシーンで終わる。この男性はおそらくは収容所で亡くなったユダヤ人なのだろう。ここにおいて、彼女は自らが信じていた狂的な価値観により殺されたユダヤ人の犠牲者と直接対峙するのだ。
もちろんこれが終わりではない。ローレの苦悩はむしろ始まったばかりだ。
この映画で描かれたローレの旅は戦後ドイツの物語であると同時に、相対化により価値観が揺らぐ現代の人々に突きつけられる普遍的な問いでもあると言えるだろう。
ローレを演じたサスキア・ローゼンダールは当時19歳、これが初の本格的な映画出演だったが、ナチスを信奉する乙女チックな軍国少女が現実の厳しさを切り抜けて、強くしたたかな大人の女性へと成長する様子を見事に演じている。
後に「ある画家の数奇な運命」や「さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について」など国際的に評価の高い作品にも出演し、円熟した演技で作品に見事な彩を与えているが、活動がドイツ製作の映画出演に限定されており、日本で見ることがほとんどできないのが大変残念という他ない。
本作の舞台はオースト「リア」だが、製作国はオースト「ラリア」。
監督もオーストラリアの女性監督ケイト・ショートランド。彼女は脚本も担当しており、この傑作映画の成立が彼女の手腕に負うところが大きいことが伺える。
彼女はその後2020年にスカーレット・ヨハンソン主演のMCU映画「ブラック・ウィドウ」を獲ってハリウッドデビューも果たしているが、2005年に最初の商業長編映画を撮ってから本作を含め20年間で5本の映画しか撮っていない。これほどの傑作を撮れる作家が機会を与えられていないというのは残念というしかない。ジェーン・カンピオンやケリー・ライカートの寡作ぶりからも伺えるが、それだけ女性の映画監督を巡る環境は厳しいということだろう。
結婚相手がユダヤ教徒だったためユダヤ教に改宗しているが、少なくともこの映画ではユダヤ的教条主義からは距離のあるところを見せている。
月並みだが今後の活躍に期待したい。
