【煉獄のパールライト】19.汗と砂の記憶
桔兵は壁にもたれかかりながら、相変わらず無意味な時間を過ごしていた。
だらりと開いた足の間に弾を抜いた拳銃を持ち、時折引き金を引いては、乾いたハンマー音を響かせていた。何も考えず、カチンという音と振動を手に感じていると、ふと昔の記憶がよみがえった。
幼いころ住んでいた、古い木造アパート。壁は薄く、少し大きな声を出せば、隣に丸聞こえだった。
桔兵の父は大の野球好きで、いつもビール片手にテレビ中継に熱中していた。応援するチームのヒットやエラーに、いちいち大きな声を出すので、隣の住人はさぞうるさかったことだろう。
「高給取りのくせして、情けないプレーしよって! 飲み歩きすぎて、体絞れてへんのや!」
そんな父の罵声を聞きながら、華やかな舞台で活躍する選手たちを、桔兵は食い入るように見つめていた。
この頃は景気もそこまで悪くなく、日雇いの鳶職をしていた父親の仕事も安定していた。母は鼻歌まじりで、台所で夕食の準備をしている。漂ってくる香りが、いつも懐かしいと感じるのはなぜなのだろう。
ある日、贔屓のチームが優勝して上機嫌だった父は、親子セットのグローブを買ってきてくれた。思わぬプレゼントに感激した桔兵は、すでに日が暮れているのに、五分だけだと父にキャッチボールをせがんだ。普段は面倒くさがりな父も、うれしそうに応じてくれた。
家の前の薄暗い路地で、ふたりはキャッチボールを始めた。それは、父親なら誰もが夢見る光景なのかもしれない。
「俺、野球選手になって、ピッチャーになって、めっちゃ稼いで、父ちゃんに家建てたるわ!」
「おお! なれるもんなら、なってみいや!」
「いくで! これが、カーブや!」
「曲がってへんわ! お前、握り方知らんのやろ!」
結局、完全に日が落ちて、ボールが見えなくなるまで投げ合った。何度も夕食に呼びに来た母は、呆れた様子でふたりを眺めていた。
キャッチボールを終えて家に入る時、ポンと頭の上に乗せられた父の手は、大きくあたたかかった……。
――カチン。
自分で引いた引き金の音で、桔兵は思い出から現実に引き戻された。
無意識に思い出したこの記憶が、自分にとって一番幸福だった瞬間なのだろうか。まさかと思いつつも、否定することはできない気がする。桔兵は改めて、自分の人生を振り返ろうとしていた。
襲撃が失敗して銃の撃ち合いになった、最後の瞬間。
規則正しい、刑務所での生活。
暴力に明け暮れた、極道としての日々。
そして、汗と砂にまみれながら、自分の将来にまだ希望を持っていた、あの頃……。
鼻腔に夏の香りを思い起こした桔兵は、その記憶の中に、深く沈み込んでいくのだった。
初夏の暑さが感じられる季節。中三になった桔兵は、早朝の人けのない道を、軽くランニングしながら学校に向かっていた。
毎朝一番に校庭へ行き、入念なストレッチをしてから、投げ込みをするのが日課となっていた。グラウンドに入ると、バッテリーを組んでいる成田太が、すでに準備を始めていた。
「ナリ、早いな!」
「お前に付き合ってたら、目覚ましなしで起きれるようになったわ!」
ナリという愛称は、彼自身がつけたものだった。キャッチャーらしくがっちりした体格なのだが、太という名前が気に入らないらしく、名は体を表すと言うと機嫌が悪くなった。彼とは入部時からの相方で、気心の知れた仲だ。
ふたりで淡々とウォーミングアップをこなし、遠投を終えたところで、他の部員たちも続々とグラウンドにやってきた。軽くあいさつを交わしつつ、成田を座らせ、軽めの投球練習を始めた。徐々に回転を上げていくと、ミットが重い音を響かせ始めた。
桔兵は中三となり、球速がさらに上がったと自覚していた。中学生らしい幼さが消え、躍動する体が大人の体格を獲得しつつあった。
中学最後の大会を、最高のパフォーマンスで挑むことができるだろう。桔兵はそう思い、試合本番が楽しみで仕方がなかった。
桔兵が通う崎谷西中の野球部は、地区大会でも二回戦止まりで、どちらかといえば弱小の部類だった。顧問である杉浦は放任主義で、朝練にはほとんど顔を出さない。それでも、桔兵は自主的にハードな練習をこなし、他の部員にもそれを求めた。
今年からキャプテンに任命された成田は、常に上を目指す桔兵と、本気度の異なる部員との間を、うまく取り持ってくれていた。調子のいい男だが、嫌味のない性格で、誰とでも仲良くなれるキャラクターは貴重だった。言葉少なく誤解されがちの桔兵は、そんな成田にずいぶんと助けられていた。
苦労の甲斐あって、チームは徐々に地力をつけており、部員たちの士気も高まっていた。
「組み合わせ抽選会、もうすぐやな」
朝練が終わり、部室で着替えていると、自然と大会の話題になった。
「ええくじ引けよ。当日まで、運は使たらあかんで!」
「頼むで、キャプテン!」
「あぁー。やっぱ、誰か代わってくれへん?」
成田はおどけて言ったが、プレッシャーを感じている様子はなかった。
「やっぱ、県大会くらいは行ってみたいよなぁ……」
その発言に反応し、桔兵が急に大きな声を出した。
「何言うてんねん。当然、全国目指すやろ!」
そんな桔兵の強気発言を、部員たちは笑って受け流す。最初こそ煙たがられていたが、今では桔兵の努力と才能を、誰もが認めていた。
「桔兵が絶対完封してくれるらしいから、どんな強豪やろうと、1点取ったら勝てるしな!」
成田の軽口に、桔兵はすかさずやり返した。
「その貴重な打点は、うちの四番が取ってくれるんやろな?」
「ぎ、逆にプレッシャーかけられてもうた……」
四番打者でもある成田の情けない演技に、部室は笑いに包まれた。
この時代の練習は、質より量が重視されていた。満足に水を飲むことを許されず、根性論で体を酷使した。それが当たり前の感覚だったので、文句をこぼしながらも、部員たちは毎日ボールに食らいつく。
今日も完全に日が暮れるまで練習は続き、全員くたくたになりながら家路に就いた。
桔兵が空腹に耐えながら家の前にたどり着くと、外まで怒鳴り合う声が聞こえてきた。またかと、桔兵はうんざりした顔になる。
父・正雄と母・松子の言い争いは、もはや日常茶飯事となっていた。
桔兵は家に入ると、喧嘩する親を横目に炊飯器からご飯を盛り、用意してあったおかずと一緒に食べ始めた。空腹を満たしつつも、両親の喧嘩を眺めて、仲裁のタイミングを見計っていた。白熱しすぎるのもまずいが、ある程度発散させてやらないと、お互いに収まりがつかないのだ。
鳶職の父が転落事故を起こしてから、もう2年が経っていた。
それほど高所ではなかったのが幸いし、命に別状はなかった。しかし、右膝を複雑骨折し、完治しても足を引きずって歩くようになってしまったのだ。もう鳶職として、現場に戻ることは難しかった。
他の仕事もいろいろ試したようだが、職人肌の父には合わず、どれも長続きしなかった。次第に仕事もせず、毎日飲んだくれるようになってしまっていた。
「酒や。酒ぇ! ないんやったら、買うて来いや!」
「酒買う金なんかないで。飲みたいんやったら、自分で働いて買いや!」
「ああ!? 何やと、偉そうに!」
「うちが稼いだ金なんやから、偉そうにするんは当たり前やろ!」
「なんやと!」
父が激昂するのを見て、桔兵は慌てて食事を中断して仲裁に入った。父に同情的だった母も、最近は容赦なく言い返すので、父が手を出すようになっていたのだ。
ふたりに割って入ると、父の拳が桔兵の胸元に当たった。本気で殴っているわけではないが、痛いことには変わりなかった。
「おやじ。暴力はやめえや!」
「うるさいわ。こいつが生意気なこと言うからや!」
そう言って父は、棚に置いてあった母の鞄を手に取った。
「何すんねん!?」
慌てる母を横目に、財布の中身を確認して、父は軽く舌打ちした。数少ない札を抜き取ると、財布を投げつけて家を出ていってしまった。
「もう、情けのうて涙出るわ……」
母はそう言ってひざまずくと、本当に泣いていた。桔兵はため息をついて、父が出ていった玄関の扉を、ただ見つめることしかできなかった。
足に障害があるとはいえ、働こうと思えば仕事はあった。桔兵は働かない父を恨んでいたが、同時にそんな不器用なところもよく理解していた。
しかし、代わりに働きながら家計をやりくりする、母の苦労も相当なものだろう。母のパートの稼ぎでは、いくらがんばっても余裕などつくれるはずもなかった。
お互いが苦労に耐えかねてこぼす愚痴が、相手を攻撃するものになっていく。それが負の連鎖となって、家族の関係は悪くなるばかりだった。
桔兵としても、不安はあった。
こんな状況では、普通に高校に行けるかどうかも怪しかった。母ははっきりとは言わないが、桔兵に進学せず、働いてほしいと考えているようだった。しかし、中卒で雇ってもらえる所など、たかが知れていた。
この状況を打開するために、何としてでも次の大会で活躍し、できれば特待生として推薦をもらいたい。今を耐えてプロになり、大金が稼げるようになれば、すべてがうまく収まるのだ。
早く試合で、自分の力を証明したい。桔兵は、ただそれだけを考えていた。
