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短編小説198「ソメイヨシノ偏愛信仰」

 最初に断っておくが、「ソメイヨシノ」について酷く個人的な話をする。不快に思う方がいたら先に謝りたい。申し訳ない。ただ、個人の感想であり、一応自分なりに筋を通して話すつもりだ。だから、ある程度は許してほしい。
 そもそも、ソメイヨシノはクローンである。開花時期が一斉に揃うのも人間の都合によるものであり、不自然極まりない。もちろん世の中には不自然なものが他にも存在するし、自然か不自然かという議論を広げると矛盾を拭いきれないので、そこまで全否定はしない。
 ただし、ソメイヨシノの生態や、植えることで起きる事態を考えると、倫理的配慮に欠け、経済的でもなく、むしろ「好き」という大多数の主観を無批判に尊重する理由が分からない。その前に、まずは根本的で基本的な話をしよう。
 ソメイヨシノは「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の交配種であり、私達が目にしているのは接ぎ木で人為的に増やされたクローンである。
全国の学校や街路樹にこれほど植わっている理由として、幼い頃から植物観察の一環で身近にある点、「卒業」および「入学」という節目に咲く点、何より「菊と並ぶ国花」というイメージが強い点が挙げられるだろう。様々な側面で「桜」の存在は大きい。
 桜の種類はいくつもあるにも関わらず、これほど「ソメイヨシノ」ばかりが身近にある環境は意図的に作り出されたものだ。こうなると「桜=ソメイヨシノ」という認識を、安直だの短絡的だのと嘆くレベルではない。春に一斉開花するクローンに囲まれていれば、「桜=ソメイヨシノ」となるのは無理もない。すり込みのように私達の思い出に根付き、春を象徴するものにまでなっている。美しくも儚いのは言うまでもなく、周知の事実だ。
 ただし、ここまで来ると執念や執着、狂気の沙汰である。他にも桜の品種はあるのに。誰も、国花が「ソメイヨシノ限定」だとは言っていない。造園の学が浅い私ですら、他の「ヤマザクラ」や先ほど出した「オオシマザクラ」、「エドヒガン」等の名が出てくる。交配種でいうと「河津桜」や「八重桜」もある。ソメイヨシノは、その中のひとつに過ぎない。
 これらを踏まえて、「倫理観」と「経済的」の話をする。倫理観への疑問というのは、病気になりやすいのに大量に植え続ける点にある。主にテングス病(異常に分岐して鳥の巣状になる糸状菌の病気)や根頭癌腫病(根や茎に巨大なこぶができる細菌の病気)の二つが挙げられ、非常に枯死が起こりやすい。植物に対し倫理観というのもどうかと思うが、これほど病弱な木を三億本も植えること自体、常軌を逸しているのは間違いない。
 経済的というのは、一本にかかる維持コストの話である。前提として、桜は「高木」で「広葉樹」で「落葉樹」である。具体的には樹高が五メートル程度になり、枝を横に広く伸ばし、一年で葉を全て落とす。つまり病気にかからずとも、私達の「頭上で枝を広げ、大量の葉を落とす」という事態は避けられないのだ。
 そのため剪定や落ち葉の集草が必要になる訳だが、多くは自治体が業者に委託している。大小問わず、毎年税金を出してプロに剪定と集草を頼んでいる現状を想像してみてほしい。一人一日で終わるはずもなく、最低賃金な訳もなく、講習を受けた専門性を持つ複数のプロに頼むのだから、当然「高く付く」。しかも、木は切れば樹力が弱まる性質があり、病気にかかりやすくなる。ソメイヨシノはそれが顕著なのだ。
 言い忘れたが、「切らない」という選択肢は皆無である。繰り返すが、「高木、広葉樹、落葉樹」の三点が意味するのは、雑に言えば「邪魔」「危険」「面倒」ということだ。
 まず、枝を横に伸ばすため、電線に引っかかったり隙間に入り込んだりする。切らないと電線をぶち切る可能性すらある。
 さらに、枯れて放置した場合、太い枝が折れて降ってくる。当たれば大怪我になるし、下手すれば命はない。枯れていなくても、ある程度大きくなってしまうと自重を支えきれなくなる。太い枝を支柱で支えているのを見たことがあるかもしれないが、それが理由である。
 加えて遮光性が強い。バラ科であることも関係しているが、枝の分岐が多く、葉も多くて大きい。そのため木の下が暗くなるのだ。夏場の元気なソメイヨシノを見てほしいが、真下は薄暗い。他の植生に悪影響が出るだけでなく、車の視認性にも関わり、信号や標識が見づらくなる危険性もある。
 また、落葉という点で、落ち葉の清掃に多大な時間と手間がかかる。毎年毎年、あれだけの落ち葉を清掃する立場になったらどうだろう。「切り倒したい」と思わないだろうか。
 以上の点を踏まえると、「植え続ける」という選択肢はどうなのだろうか。例年一週間から二週間弱ほどの開花期間に対し、品種の脆弱性や莫大な管理コストは、「好き」という感情だけでペイできるのだろうか。はっきり言うが、「春と言えばソメイヨシノ」という考えはもう一度見直してもらいたい。
 まぁ自分が造園に関わっていた立場からすれば、極端に言えば「金になる木」ともとれるが、もはや「切る前提で植える木」と言っても過言ではない。春以外にも、ソメイヨシノを見に来る人が大勢いて、ディズニーランドの来場客数ぐらいチャリンチャリンとお金が落ちるのなら、百歩譲って納得もする。
 でも、実際「夏の青葉が活き活きしている」とか、「秋の紅葉の色づきが堪らない」とか、「冬の枝に味があって雪降ると風流」とか言って、一年中ソメイヨシノを楽しむ人が大多数だろうか。絶対に違う。そうである人には申し訳ないが。
 私は辟易しているのだ。一般人としてソメイヨシノをなんとも思わず過ごした時代、桜より梅が好きになった時代、造園に関わり価値観が変わった時代、そして、ただの社会人になった時代を経て思う。「ソメイヨシノ」を安易に接ぎ木で増やさないでほしい。ソメイヨシノ自体が嫌いなわけではない。一本だけで、広く開けた場所にあるのなら大賛成だ。ぜひ見にいきたい。学校にも一本でいい。そうなれば希少性や特別性も出て、菊とも差別化できるし良いと考える。何もあんなに数に執着する必要はない。
 花見の席で、誰かが新入社員や新入生の挨拶で「多様性」を口にしたら、それはもう笑える気がする。目の前には、偏った狂気的な愛によって生み出されたクローンのソメイヨシノが、「矛盾」を突きつけているのだから。しかも、その花は儚い。「多様性」という言葉の脆さを皮肉るように。

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