短編小説210「反理想郷にいでし私的混沌」
私たちは誰もが学校に通っていた過去がある。これに関して、未就学児を除いた人で通わず成人を迎えた人はごく少数だろう。少なくとも少数派であることは間違いない。行ったことが「正解」で行かなかったことが「不正解」ということではない。というより、注目したいのは「正解」と「不正解」という観念の大きさにある。
私自身、保育園から始まり、小学校、中学校、高校、大学まで行った過去がある。成績に関しても周りからすると低いところで推移していたので、これから話すことの説得力がないかもしれない。中学生の時の「英語100点満点中14点」や「三学期の末の通知表に3が1つしかない」とか大学での「2年留年」とかを挙げれば、もうこの時点で説得力は希薄なものかもしれない。
ただ、それら全てにおいて出題者の「問題」が存在し、「正解」があり、それ以外が「不正解」という共通の決まりがあった。時に「一部正解」があるがそこには今触れない。私が点を取れたのも失った結果も、そのルールの下で生まれた産物である。
つまり、「学校」という世界の中で「学び」を測るものとして「テスト」があり、「正解」が一定数ある者が「評価が高い」となる。それは今も同じだろう。ただし、自由研究やレポートに関しては少し違い、正解は1つではなくなる。
この「当たり前」の認識こそが、私を含めて学校を修了・卒業した多くの人々にある「固定観念」である。ゆるく言えば「デフォルト」のようなものである。その証拠にゲームでも「ミッション」というものを「クリア」することで「報酬」が出る仕組みは、構図がテストのそれである。
私もまた「テスト」という物差しが土台になっているのだが、怖くなる。「社会」という表現は抽象的すぎて使いたくないが、「答え」は1つではないし、複数存在する時もあれば、全くない時もある。それは社会で経験した失敗や成功が大きく関係しているが、注目すべきはそこではない。
そもそも「答え」を作り、それに辿り着くための数えられるほどしかない「過程」を設けたことが、良くも悪くも「縛り」なのである。縛りがあるから、自由を求めるし、縛りの中でどうすべきかの思考になる。ただし、それは私たちが持つ視野が狭くなり、柔軟な思考を奪っている側面がある。
私が以前触れた「ソメイヨシノ偏愛信仰」はまさにそれを指している。環境的要因によって、「印象」や「好き」という各々違うはずの主観が「春はソメイヨシノ」と統一されていく話である。数学の方程式や科学の実験結果ならまだしも、人間の主観がそうなるのは「A Dystopia in Spring」と言っても過言ではない。やはり、それは「学校」という縛りにとらわれている証拠なのかもしれない。
「答えがない」ということは学校生活の友人関係が雄弁に語っているし、価値観の相違はテストの問題数より多い。それにもかかわらず「答え」を社会でも必死に見つけようとするのは何故なのだろう。
私の仮説だが、「答えがない」という事象の多さと、それへの受け止めが追いつかないことの2点にあると思う。特に「会話」は地雷やタブー、着地点や曖昧さ等、数多の種類がある。同じ人でも価値観や気分の変容は起こるので高等な技術が求められる。しかも、これがあまねく人とのつながりのツールとして使用されている。好かれ嫌われがこれによって今どこかで起こっている。それを経験した自分がいるから今ここで話題にできるのだ。
また、情報過多の昨今は大きく関係している。情報の取捨選択のしすぎで疲弊している。いわゆる「ソシャゲ」で自分の首を絞めている私も大概だが……。いずれにしても、「答え」、「正解」、「要約済み」のものを好んでいるのは、それが大きく関係している。
その関係で「要するに?」、「それってこういうことだよね」などと理解をあまり試みず、一蹴することがしばしば起こる。時間という物理的制約も関係しているが、それも結局「考える」という行為を制限する要因として挙げられる。人に「言っている意味がわからない」とか「話が長い」などと癇癪を起こすのは話し手の問題だけじゃなく、自分自身の理解力や許容の範囲が狭いということだとよく言い聞かせている。
そもそも人の話など、「相違の塊」を起点に話す対象向けにその人のアレンジが加わっている。抽象度や具体性などもバラバラなのだから、AIのように分かりやすくしてくれるのが異常だと思わなければ、その人を理解の「り」の字にも到達できないはずだ。
つまり、時間と理解力、許容の範囲のなだらかな低下が「正解」や「答え」を好む方向に舵を切っている。いつの間にか流されているのは、それを上手く利用された結果に過ぎない。では、何が自然かと1つの答えをあえて出すなら、「自己中心的で時に他己優先型」である。法の下生きたいように生きて、困った人や助けが必要な場合、その人の為に動く。それが私の「自然」である。
協調性や連帯感を求めるのも自由だが、それは誰かの好都合で、本来自分を考える時に不自然でしかない。宗教や緊急事態などそういった際には必要だが、そこまでの頻度はないはずだ。
こうして、着地点がない状態でうろうろしている文章だが、本来の姿なのかもしれない。「汝自身を知れ」。私に今一度投げかけられた好きな格言が木霊した。
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