短編小説173「燃えない舟」
燃え盛る炎の中へ、五間の舟は腹を叩かれるようにして押し入れられた。最後は補修作業ばかりで、人さえ乗せられなくなっていたその最期を見届けたのは、船頭の甲斐である。「一人でも多く」と補修を重ねて抗ったが、ついに限界が訪れた。浸水が続いた板には、もう持ち堪える余力が残っていなかった。水を吸い込み、なかなか燃えようとしない舟。
「こいつはおもしれぇ」絵師の畔松(くろまつ)が呟く。彼は遠くからキラキラとした瞳を向け、時折こちらへ流れてくる煙に目をしばたかせ、涙を流しながら筆を走らせていた。
そもそも橋が架かって以来、船賃を払って向こう岸へ渡る客はめっきり減った。町は橋を中心に活気に溢れ、蕎麦屋から茶屋まで商売人がひしめいている。つい最近まで貸家の家賃を滞納していた畔松も、変わりゆく町の人々や風景を絵にすることで、今は客が増えて銭の入りが良いらしい。かつての舟仲間たちも、別の場所へ舟を運び、法外な船賃をふっかけても客が絶えないという噂を耳にする。
それにしても、この「川渡し」はもう終わりを迎えている。甲斐はその終焉を目の当たりにしていた。思っていた通り、舟は燃えにくい。処分のための薪を十分すぎるほど用意し、端材も「こんなにはいらないだろう」と思うほど詰め込んだが、ようやく腹が割ける程度だ。猛る炎に抗うように、舟は静かにその勢いを殺し続けている。脇で端材を焚きつけていると、断面から「じゅく、じゅく、しゅー」と水分が吹き出した。その音に少々心が痛む。処分すると腹を決めてもなお、愛着は消えない。
先代から舟渡しを教わり、川の流れ、櫂さばき、下半身の使い方までが体に染みついている。その腕を買われ、この舟の処分が終われば別の川へ行く予定だ。河原なので火事の心配はないが、ふと、これまでのことが頭をよぎる。
畔松は「下絵はできた。いいもんを見せてもらった。近いうちに持ってってやるからよ」と意気揚々と帰っていった。煤だらけで煙臭い中絵を描いたらしい。本当に変わった奴だ。誰も頼んでいないというのに。かつて滞納の取り立てから逃げるように舟に乗り、「船賃が払えないからここから泳ぐ」と端金を渡し、冬の川に飛び込んで死にかけたのも今では良い思い出だ。「逃げるための銭はあったのか」と今更ながら疑問だが。
卯の刻から準備を始め、辰の刻に火を入れ、いよいよ一人、河原で舟を焼く。だいぶ刻が過ぎ、午の刻を回る頃には、ようやく焚き付けずとも自ら燃えるようになってきた。一度火が回れば、あとは早かった。日が傾き始めた申の刻。見事に灰へと還り、残された紅い釘の数が、改めてこの舟の「限界」を物語っていた。
桶で何度も水を汲んでかけ、ようやく火を消した。近所で借りた鍬で灰を土ごと川へ流せば、すべてが終わりだ。熱を持った石に水が当たり、景気よく湯気が上がる。それも収まった頃、ようやく帰り支度を始めた。
タダ同然で譲り受けた廃材はちょうど燃やしきり、火事も起きなかった。川上からの風に髪がなびく。「ったく、女の身で何が悲しくて川渡しなんて。間違っても面倒は見ないよ」先代になじられながらも、稼がねばと近所の蕎麦屋と掛け持ちで必死に働いた。最初の頃は舟をうまく扱えず、揺れのひどさに客が酔って吐き出したこともある。それでも向こう岸へ行く手段が舟ししかかったから、なんとか腕を磨いた。
今日は橋を渡って帰る。その途中、上から眺める川の景色がなぜだか綺麗に見えた。どちらかと言えば、「舟を失くした哀れな女」だろう……。
橋を渡り、馴染みの蕎麦屋に寄る。「はいよ」無口な主人が「にしんそば」を出してくれた。 「今日は特別だ、お代はいらない」主人は客をさばきながら、向こう岸で燃える舟をずっと見ていたようだった。「容姿もそれほど良くない自分を、無理を言ってタダ同然で働かせてもらったのに」と申し訳なく思いながらも、ずるずると麺をすする。気づけば酉の刻の鐘が鳴り、空は夕闇に包まれていた。
「ごちそうさま。明日から隣町に行きます。またいつか来ます。長い間、間お世話になりました」どんぶりを置いて店を出た。恩返しはしたいが、残念ながら今の自分に余裕はない。「次に来る約束」がやっととは情けない。主人のつゆの濃さを口に残しながら、家路を急ぐ。
貸家の引き戸の間に、何かが挟まっていた。手に取り、部屋に蝋燭を灯すと畔松が描いた女の絵だ。あいつにしては粋な真似をする。描いてはすぐに売る男が、絵をくれるとは。戸を開け、荷造りを始める。
家具付きでも住みたいという連中が増えてきたので、その勢いに乗って出て行こうと思っている。とはいえ、寝るためだけに帰っていた家だ。荷物などほとんどない。寝具と着物が数着。身軽なのは、出掛けるには都合がいい。かつては岸辺の掘っ立て小屋で寝泊まりし、寅の刻の暗いうちから客を呼び込んだこともあった。
埃をかぶった部屋だが、それほど汚れてはいない。炊事は時折で、ほとんどを稼ぎ先での食事で済ませてきた。「確かに女じゃないね」そう呟いて眠りについた。翌朝、卯の刻の早い刻に引き戸を開けると、ひと気のない通りが少し不気味に感じられた。竹の水筒と風呂敷を背負い、隣町へ向けて歩き始めた。
新しい川で舟を持つことへの責任と不安が入り混じる中、着いて早々、仲間に客を乗せない状態で舟を漕がされた。「客が来たらすぐに乗ってもらうからな」と言われ、新たな舟との日常が始まった。
あの味が恋しくなり蕎麦屋を訪ねると、主人が「これ、渡してくれって頼まれたんだ」と一枚の絵を出してきた。畔松があの刻に描いた絵だ。「主人に銭を渡しておいてくれ」という言伝(ことづて)もあったらしい。畔松は蕎麦屋で一番高いそばを食べ、それを交渉の材料にしたようだ。相変わらず「こすい」というか「ちゃっかりしている」というか。
「これ、お代と絵の代金ね」甲斐はそう言って銭を渡し、帰る道すがら「くすっ」と笑みをこぼした。
主人は、舟を燃やす光景を絵にするなど人でなしかと思っていたが、こうして「やれやれ」と言いたげながらも、満更ではない甲斐の顔が見られたので良しとした。
今日も「ぎぃこー、ぎぃこー」と、舟を漕ぐ甲斐の音が川面に響いている。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援をお願いします。
頂いたチップは活動費に使わせていただきます。