安心って、なんだったのか
仕事が終わって、
家に帰る。
やっとひとりになれた。
そう思ったはずなのに、
なぜか身体の奥が休まっていない。
服を脱いで、
椅子に座って、
スマホを開く。
LINEの通知が残っている。
返していなかったことを思い出す。
少し間が空いてしまった。
なんて返そう。
どう返したら自然だろう。
重くならない方がいいか。
でも軽すぎても変か。
既読だけついて、
返ってこなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、
また呼吸が浅くなっている。
今なら分かる。
あの感覚は、
単純に「返事を考えている」のではなかった。
“相手の中に居る自分”
をずっと気にしていた。
どんな自分として見られているか。
変に思われていないか。
嫌われていないか。
空気を壊していないか。
その確認を、
ずっとしていた。
だから、
家に帰っても終わらない。
ひとりなのに、
ひとりになりきれない。
昔は、
この感覚をみんな普通にやっていると思っていました。
むしろ、
気を遣えることは良いことだと思っていた。
空気を読む。
相手に合わせる。
ちゃんと返す。
相手が嫌な気持ちにならないようにする。
社会ではそれが、
“ちゃんとした人”
として扱われることも多い。
だから、
より上手くやろうとする。
でも、
ここに少し奇妙なことがある。
安心したくてやっているはずなのに、
安心から遠ざかっていく。
返事を返せば、
一瞬ホッとする。
でも、また次が来る。
また空気が生まれる。
また気を遣う。
また「どう返すべきか」が始まる。
つまり、
安心したかったはずなのに、
ずっと“待機状態”になっている。
完全に休まれない。完全に気を抜けない。
どこか、
常に社会の中へ接続されたまま。
昔のSNSやLINEが広がり始めた頃、
既読スルーという言葉がありました。
返事がない。
それだけで、
人間関係の空気が変わる。
学生時代、
あれは案外大きかった。
学校の空気が、
スマホの中にそのまま続いている。
家に帰っても終わらない。
休憩時間でも終わらない。
寝る前も終わらない。
誰が誰に返した。
誰が誰を外した。
誰がどんなテンションだった。
誰が浮いている。
誰が好かれている。
誰が空気を乱した。
見えなくてもいいものが、
ずっと見え続けている。
しかも厄介なのは、
その環境に長く居ると、
それが“普通”になっていくことだった。
だから、
疲れていることに気づきにくい。
気を遣っていることにも気づきにくい。
呼吸が浅いことにも気づきにくい。
でも、
ひとりになった瞬間、
どっと疲れる。
何もしたくなくなる。
スマホを閉じても、
まだ頭の中では会話が続いている。
「あの返事で良かっただろうか」
「変に思われてないだろうか」
「冷たくなかっただろうか」
「重くなかっただろうか」
本当は、
ただ安心したかっただけなのかもしれません。
嫌われたくなかった。
孤独になりたくなかった。
居場所を失いたくなかった。
だから、
ちゃんとしようとしていた。
でも、
その“ちゃんと”を続けるほど、
自分が休まらなくなっていく。
ここには、
かなり現代的な苦しさがある気がしています。
昔は、
家に帰るということは、
社会から離れることだったのかもしれない。
でも今は違う。
ポケットの中に、
ずっと社会が入っている。
誰かの視線。
評価。
空気。
関係性。
期待。
役割。
それらが、
ひとりの時間の中まで入ってくる。
だから、
“本当に自然で、ひとりになる”という感覚が、
かなり失われている。
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