【最善として自善(自然)にあるもの】
善悪の区別は人間特有のものです。
それは
時に雨が善きものとなり
時に雨が悪しきものとなるように
その時その場の認識によって
同じ雨が善にも悪にもなり得るものだから。
雨そのものは自然のもの。
本來、自然に善悪はありません。
そこに人の感情を通した認識があるだけで、
元來、自然に善悪などありません。
そもそものところ、
人間という生命が
自然のものです。
あまりにも身近な
この“私自身“が自然のものなのです。
それは
血液の通う體(カラダ)だけに限らず
血の通う心(感情)も自然なものですし
人間の特権と謳われるような頭脳もまた自然のもの。
それは
自然由來ではありません。
それは由來なんてものではなくて、
ただただ
➖自然➖そのものなのです。
そのような自然に対して
雨を悪ものにしたり、恵みとして望んだり、
日を悪ものにしたり、恵みとして感謝したり。
時に自然が雨や日を通して
“私“に救いの手を差し出してくれたように認識し、感情を通した感謝をします。
しかし
雨はただ雨として在って、
誰かや何かを癒そうとして在るのではありませんし、
太陽は誰かや何かを照らそうと意図して光っているのではありません。
もちろん
誰かや何かを苦しめようとも
誰かや何かを罰しようとも
誰かや何かに教えようとも意図しておりません。
それが自然という在り方で、
自然そのものは
ただそのものとしてそこに在ります。
そこに自然の意図を汲み取ろうとし
そこに自然の意思を想う
人間もまた自然そのもの。
畢竟
人間とは自然としてそのように在るものです。
それが故に
人間は感情を伴った想像力を備え
人間には想像したことを創造する力が在るのです。
そして
それが人間として自然な在り方です。
雨に善悪がないように
日に善悪がないように
同じく自然として在る人間に善悪はありません。
人間が感情を通して
善悪を付けています。
そしてそれは
人間自身にも善悪を付けます。
たとえば
喜怒哀樂の内
怒り哀しみを悪として喜び樂しみを善として、
たとえば
裕福を悪としたり善としたり
常識を悪としたり善としたり。
しかしそのことも含めて
それは人間という生命の種らしく自然に在るということです。
あらゆる自然に対して
一切の善悪の区別を付けず
仮に
全てを善としたならば、
➖自然は自善(しぜん)➖となります。
“自ら“が善として在るのです。
そのように視点を置いたなら、
【“私“という人間は
自分という自善として唯ここに在る】
となります。
そしてそのように
自分という自然なものを
自善として受け容れた時、
あらゆる他人という人間も自善なものとして受け容れはじめ、
生命として在るあらゆる自然を自善として認識しはじめ、
あらゆる思想も學問も、
宗教も恋愛も経済も
どんな社会的現象にも
➖自善なこと➖
として認識する視点と器が出來始めます。
本來、断罪はありません。
本來、失敗はありません。
本來、傷つけるということはありません。
火山の噴火に恐れ悪としたり
再生の恵みとして畏れるのが
人間という自善です。
落雷を何かの怒りとして
そこに何ものかの意思を投影し
恐れ畏れるのが自善という人間です。
そこに
自善として人間に備わる
想像力と創造力で反応します。
そして
そのこともまた自善なこと なのです。
このような自善である“私たち“ですから
即ちそれは
➖全てが自善➖
ということで、
そしてそのことが
➖全てが最善➖
ということの証明になります。
最善しか起きておりません。
ネガティヴすらそれは最善です。
安心して己の道を🌲☀️
祭統 白宇
SHIR㊉W
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ありがとうございます🌳

