孤独との向き合い方には三種類あると思った(『ウィキッド ふたりの魔女』を観て)
新宿バルト9のDolby Cinemaで『ウィキッド ふたりの魔女』を観た。意味分からないくらい泣いてしまった。もはやどうして自分が泣いてるのかも分からなかった。エンドロールでも涙が止まらなかった。
このnoteでは「孤独感」にフォーカスを当てて語っており、途中から映画の話もしなくなってめちゃくちゃ自分の話をし始めるので、もはや映画の感想と呼べるような文章ではないが、ともかくウィキッドを観たことで自分が感じた・考えたことを素直に語ろうと思う。
私は『オズの魔法使い』の話をちゃんとは知らないのでお話の感想は深く語らないが(これは普通に後悔している。先に観ておけばよかった。)、後に「悪い魔女」と称されることとなるエルファバ、彼女の量り知れない孤独感と、とてつもない強さ・優しさに心が握り潰されてしまった。
私は孤独に打ち克つ強さも、孤独から逃げる強さもない。人に嫌われるのが怖くて孤独に逃げるような弱さしかない。人に何を言われても貫けるような信念もない。簡単に他人に影響されるぶれぶれな自分しかない。他人のために腹を立てる優しさもない。自分を守るための優しさしか知らない。何を取っても自分という存在があまりにもちっぽけで情けなくて、エルファバがあまりに美しくて、涙が止まらなかった。
孤独との向き合い方の種類について
孤独感とは何か。
自分は一人ぼっち、寂しい、悲しい、という感覚。誰かに自分という存在を分かってほしいと願う気持ち。そんなところだろうか。人間なら、きっと誰しも、多かれ少なかれ孤独感を抱くことがあるだろう。
ウィキッドを観て、孤独との向き合い方には三種類あるのではないかと思った。
一つ目。孤独な状況から逃げる、孤独感に抗うタイプ。
これが最も一般的だろう。例えば、寂しいと感じたとき、誰かに連絡したり、話しかけたり等、人と関わることで孤独感を低減させる。至極自然なことだ。孤独感は「一人ぼっち」という感覚なのだから、誰かといれば一人ぼっちではない、というシンプルな構図。
これが孤独感の解消としては根本解決に繋がるだろう。もちろん「誰でもいいから」という付き合い方では一生心が満たされないままかもしれないが、心から信頼できる家族、友人、仲間等がいれば、気の置けない関係の誰かと関われるタイミングがあれば、一時的に寂しいと思うことはあれど、底知れぬ孤独感に縛られることは恐らくないのではないか。(自分にはない感覚なので想像でしか語れないが)
二つ目。孤独に打ち勝つ、または共存するタイプ。
どうしても守りたい何かのために、孤独という道を選ぶ。孤独になることが分かっていてもなお自分の信念を貫く。これは強い、強すぎる。孤独感は拭えていないので根本解決ではないものの、それよりも大事なものを優先するなんて人間としてのレベルが高すぎる。
三つ目。孤独という箱の中に逃げるタイプ。
傷付きたくない、嫌われたくない、否定されたくない。だから敢えて孤独であることを選ぶ。孤独という安全地帯の中に身を置けば、誰かに愛されることもないが、誰かに傷付けられることもないから。これは最も楽で、かつ、最も何の解決にもならない選択肢だ。孤独感はますます強まる一方。
愛を求めていたはずなのに、自ら孤独を選んだエルファバ
この分類で言えば、エルファバは二つ目だ。他の大事なもののために孤独を選ぶ。孤独との共存。
緑色の肌で生まれた彼女は、生まれてからずっと孤独だった。他人は愚か、父親からも虐げられる日々の中、優しかったのは妹と乳母だけ。
シズ大学に入り、学長のマダム・モリブルに自身の魔法の才能を買われて「オズ陛下に推薦する」と言われたとき、彼女は『The Wizard and I(魔法使いと私)』でこう歌う。
Once I'm with the Wizard
魔法使いと一緒なら
My whole life will change
私の人生は一変する
Cause once you're with the Wizard
だって魔法使いと一緒なら
No one thinks you're strange!
誰も私を変だと思わないから!
No father is not proud of you
娘を誇りに思わない父親も
No sister acts ashamed
姉を恥じる妹もいない
And all of Oz has to love you
オズ中の人々が愛してくれる
もうこれ書きながらまたボロボロと泣き始めていますが、ここに彼女の抱いてきた心の傷が詰まっているように感じる。彼女は一体どれだけ寂しかったことだろう。本当は父親からも愛されたかったはずだし、友達も欲しかったはずだ。変だ変だと周りに馬鹿にされ、笑われ、どれだけ傷付いたことだろう。妹とは笑い合える仲だったものの、妹に対する責任も重く感じていた。
彼女は初対面の人に肌の色を驚かれると。まず真っ先に「船酔いじゃないし、草を食べたわけでもない、生まれつき緑なの。」と先手を打つ。これも、自分が少しでも傷付かないようにという自己防衛の手段だろう。
エルファバは、周りに何を言われてもクヨクヨ、メソメソとする様子はなかった。そんな彼女にフィエロ王子が「人にどう思われても平気なんだな」と零すシーンがあるが、それに対しグリンダは「違う、平気なフリをしているだけ」と返す。本当にこの通りだと思った。強そうに見えるエルファバだけど、ひどく傷付いたボロボロの心を一生懸命守るために、平気そうなフリをすることで何とか自分を保っていたのだろう。
誰よりも傷付き、そして愛に飢えていた彼女だったが、オズ陛下に会い、自分の魔法の力を証明したシーンのこと。彼女にとって人生一の大チャンス、オズ中の人から愛してもらい必要としてもらえる千載一遇の好機だったが、彼女はそれを自ら手放してしまう。そんなことよりももっと大事なものを守るために。
オズの国では動物と人間が共存していた。動物も人間と同じように言葉を話していた。しかし動物は迫害の対象とされ始め、言葉を発することも禁じられるようになっていった。彼女はそれに憤りを覚えていた。(彼女が幼い頃、周りの大人の中で唯一愛してくれたのが、熊である乳母だけだったからだろうか。あるいは、周りの人から疎まれ続けた自分と、迫害され始めた動物とを重ね合わせて見ているのだろうか。)
そんな自分の中の信念を無視することは彼女にはできなかった。だから愛されるチャンスを捨ててまで、自分が悪になってまで、それを貫くことを選択した。彼女の孤独とは強さだ。
一方、「善い魔女」とされるグリンダの孤独との向き合い方は、先程の三種の分類で言えば一つ目だろう。孤独感に抗う。
彼女は極端な例かもしれないが、しかしあのように人を愛し、そして人から愛されることを求めることのできる、愛や欲望に正直な人間は、最も生きるのが上手で、最も幸福度が高いのではないかと思う。グダグダとどうでもいいことを考えていないで自分の感情に忠実になったほうがシンプルに幸せになれるのだろうなと思う。
孤独という逃げ道
私の孤独との向き合い方はと言えば三つ目、孤独に逃げるタイプ。どっちつかずの中途半端な弱い人間。
私は常に二つのターンを繰り返しながら生きている。誰かと関わりたい、話したい、人と居ることが楽しいと思うターンと、誰とも関わりたくない、一生一人で居たいと思うターン。
まず、寂しいと感じる心がある。そんなとき、誰かと話したり、一緒に過ごしたりすることで心は満たされる。グリンダのような思考パターンなら(というより大多数の人間は同様なのだろうか)シンプルにここでおしまい。また一人になったら寂しくなるかもしれないが、そうしたらまた人と話す。その繰り返し。
しかし、私は、寂しい→人と話す→ハッピー、では終わらない。寂しい→人と話す→ハッピー→恐怖・不安→人から離れる→人も離れていく→余計に寂しい・でも安心、みたいな感じ。
人と居れば居るほど、大きな恐怖と不安がどんどんと迫ってくる。もう嫌だ、誰とも関わりたくない、みたいな気持ちが不意にやってくる。それは、人から嫌われることが怖いからだ。人から否定されることが怖いからだ。人から傷付けられたくないからだ。
どこの誰と話していようが、そのときはどんなに楽しくても「この人に嫌われたらどうしよう」という不安が徐々に全身を駆け巡っていき、嫌われるくらいなら先に離れてしまいたい、と思い始める。人と関わらなければ嫌われることも否定されることもない。
正確には、嫌われること自体はどうでもいいのだが、その敵意を知りたくない。もしも信頼する人から自分に向けられた嫌悪感を認識してしまったら、私は立ち直れる自信がない。自分が気が付かなければいくら嫌われてもいい。だから、自分から避けてしまえば、避けるという行為によって嫌われるかもしれないが、避けていればその嫌悪感を私が知ることはないから問題ないというわけだ。
私にとっての孤独とは逃げ道だ。孤独という安全な箱の中に閉じこもっていれば自分を守れる。寂しさと安心感は表裏一体かもしれない。不思議なことに、寂しいと安心するのだ。人から傷付けられる心配がないから安心する。
友達が少ない理由
こんな考えだから、友達が少ないのは自らの選択による必然の結果としか言いようがない。友達が欲しいと思ったことがあるのかどうかすら、もう忘れてしまった。誰かと話したいと思うことはあれど、友達という存在は、私にとって不安材料でもあるから、増やせば増やすほど、恐怖が募るものだ。
今でもよく覚えていることがある。中学時代、一緒に帰る仲だった同級生が二人いた。一年生のとき同じクラスで多少交流があり、確か二年生の頃から、どういうきっかけだったかは全然覚えていないが三人一緒に帰るようになった。二年生のときは別クラスだったので、廊下で待ち合わせていた。
友人だったかと聞かれたら、私は違うと答える。既に仲が良かったわけではなく、仲良くなりかけの段階と言えばいいだろうか。趣味近いね!仲良くなれそう!という感じだった。私がもっと器用なタイプなら、きっと友人になれたと思う。
二人ともとても優しかったし面白かった。アニメやボカロなどの趣味が合っていたので、知らない作品の話であっても興味深く聞くことができた。三人とも内気なタイプだったし気が合わないということもなかった。三人でいるときは確かに楽しいという感情もあった。
しかし、結論から言うと、私は二人と関わることを辞めてしまった。ドアスラムほど極端なことはしていないが、帰りのHR後、廊下で待つことを辞め、二人に何の断りも入れずに一人で勝手に帰るようになった。帰り道で二人を見かけたら、慌てて逃げるようにして別ルートを通ったり、物陰に隠れて二人が見えなくなってから帰ったりした。今思うと最低なことをしたと思う。
その二人には一切何の不満もなかった。単に、嫌われるのが怖くなってしまっただけだ。
実は、その二人は私と関わる前から仲が良かった。二人の中に私が加わったような形だったのだ。だから私は三人で帰るときいつも「私邪魔だと思われていたらどうしよう」という不安が常に脳内を支配していた。別にそういう態度を取られたことはない。だけど、そういう態度を取られてから離れるのでは遅いのだ。もしそれを察知してしまったら、きっと私は立ち直れないから。二人が私抜きで楽しそうに話して一瞬でも「こいつ要らないな」と思ったらきっとそれを私は察してしまうだろうから。
結局それで仲違いをしたということはなく、それ以外の場面では普通に関わってくれたが(二人優しすぎるだろ…)、卒業以降はもう関わりがないし、もう今後会うことはないだろう。仮にもし彼女達が私を許してくれていたとしても(そもそも怒ってたかどうかすら知る由もないが)、私が私を許せないから、罪悪感が拭えないから、もう二人と関わることは私にとって不可能だ。
逃げても戻れる場所
そんな私でも、今は友人が二人だけいる。二人とも私と性格は全然違うものの、一人で過ごすことが好きなタイプというのは共通しているからか、なんとなく私の性格を分かってくれている気がして、距離感が心地良い。
一人は高校時代からの親友だ。三年間同じクラスだったので、学校では基本的に彼女と二人で過ごしていた。お昼休憩や駅までの帰り道も一緒だった。
しかし、常にそうだったわけではない。特に何も言わずに一方が勝手に帰ることもあったし、同じクラスなのに一言も会話を交わさない日もあった。それがお互いにとっては自然なことで、まあそういう気分じゃないときもあるよねくらいのノリだった。実際彼女から「なんか昨日喋りたくなさそうだったから話しかけるのやめといたわ」みたいなことを言われたこともあるし、私も「あいつ今日テンション低そうだからやめとこ」みたいな判断をしていた。
もう一人は社会人になって仲良くなった元同期で、研修で一緒だった一ヶ月間、毎日一緒に川辺や公園でお昼ご飯を食べていた。確か二日目あたりだったと思うのだが、「もし一人で過ごしたかったらいつでも言ってね、私もそういう気持ちは分かるから!」と言ってくれて、私はその素直さと気遣いに心から感動してしまった。(結局毎日一緒に食べたけど)
そうか、中学時代のあのとき「ごめん、一人で過ごすのが好きだから先に帰るね」とでも言えばよかったのか。何も逃げる必要はなかったんだ。
二人から逃げたいとはあまり思わない。時々は思うけど、完全に離れたいとは思わない。こんなふうに理解してくれているから、もし一時的に逃げても「ああ今そういうタイミングなのね」と分かってくれると思うから、また安心して戻れるのだ。わざわざ何か言うことはないけど、気持ち的には「ごめんごめんちょっと気分落ちてたわ」くらいのノリでいられる。私にとって孤独という安全な逃げ道を消し去ることは難しいのだが、戻ってもよいと思える場所があることは幸せなことだ。
エルファバとグリンダの正反対すぎる強さ、どちらも羨ましい
映画と関係のない自分語りをしすぎたところで唐突に映画の話に戻るが、ふたりの魔女が持つ強さがあまりにも正反対すぎたなあと思った。だからこそ彼女達の友情が切なく、美しかった。どちらが正しいとかではなく、どちらも正しい。単にやり方が違うのだ。絶対的な正しさなどない。それを二人とも理解している。自分の考えを分かってほしいと思いつつ、分かり合えないことを理解している。
私はエルファバが孤独を選んでまで信念を貫く強さに心から感動し、尊敬した。羨ましいと思った。私には確固たる信念がないから。(ちょうどそういう話のnoteも書き進めているところだ。)
簡単に他人に影響されるブレブレ人間なのだ。自分の価値観や意見が分からない中身空っぽ人間なのだ。映画や音楽等で涙するのも、感受性の高さだと思っていたが、単に影響されやすいだけといったほうが正しいかもしれない。
私は人から嫌われることも、人と対立することも怖くて仕方ない。もし私がエルファバの立場なら、オズ陛下とマダム学長とみっちりと話し合って妥協案を探りたい。しかし、自分の信念がブレブレなので、普通に二人に説得されて流されてしまう気がする。
エルファバは多少カッカしやすいところもあるが、それだけ確固たる意志を持っているということだ。私にそんな強さはない。羨ましい。
一方で、グリンダの強さも羨ましい。人に愛されることを素直に求め、受け入れている。寂しいときは寂しいと言える。
彼女の場合は八方美人とも言えるかもしれないが、八方美人そのものは悪いことじゃないと思う。というかむしろ全体の輪の安定に寄与しているのだからどう考えても良いことではないか。悪い八方美人とは、相手の機嫌を取るために他の誰かの悪口を言う等、相手によって大きく態度をコロコロと変えて信用できないような人であって、単に「みんなに愛されたい」「嫌われたくない」と愛想よく振る舞うこと自体が間違っているだなんて私は全く思わない。
私はグリンダのようになりたいわけではないが、八方美人的振る舞いには強い憧れがある。八方美人は要領が良い。嫌われたくないという気持ちが根幹にあったとして、八方美人は要領良くみんなに優しく愛想良く接するが、要領がとんでもなく悪く不器用な私はそのような人付き合いができないので、心の中では「あの人にこんな言葉をかけてあげたい」とか思ってもそれができず、結果、人と関わらないという選択肢にいってしまう。やたらと気を遣うくせにそれが下手くそ。特に感謝されたときの感情表現が非常に下手なので、あまり感謝されないように隠れてコソコソと気を遣うような形が多い。めっちゃ損している気がする。グリンダはちょっと鼻につくところも多いけど、世渡り上手、気遣い上手だなあと思う。
私にはエルファバのような強い信念も、グリンダのような要領の良さもない。どっちつかずすぎる。もちろん二人は極端な例なので、二人と比べてしまったら大抵の人はどっちつかずかもしれないけど、私からすれば多くの人はグリンダ的要素を多少は持っているように見える。私は究極的にそのどちらの要素も持ち合わせていないので悪いとこ取りだ。もう少し人の厚意を受け入れられるようになりたい。
・・・
鑑賞するまで知らなかったのだが、今回の『ウィキッド ふたりの魔女』は全二幕のうちの第一幕で、第二幕はまた別で上映するらしい。原題は『Wicked: For Good』とのこと。恐らくちょうど一年後くらいにやりそうな感じだ。後編も絶対観に行こう。楽しみだなあ。
2025年3月26日 しろくま
