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【掌編】04:59

紅葉鳥とは鹿の異名。秋に鳴く牡鹿の声が、鳥のそれのごとく切なげであることに由来する。
鹿の鳴き声など聞いたこともなく、鳥の鳴き声に切なさを感じる情緒もない。そんな僕の脳内に、この雑学が色褪せぬままストックされているのは、それが他でもない、先生から授かった知識であるからだ。

廊下の突き当たり、陽に焼けた窓ガラス越しに映る紅葉を見ながら、当時のことを思い出す。まだ幼かった僕に向け、まるで絵本を読み聞かせるように、学術書を開く先生。

『言葉には言霊というものがあってね』

胸にじわりと沁みゆく、セピア色の声音。そこから漂うノスタルジーを振り切り、窓から目線を前へ。大学構内でも外れの外れに位置する古い一棟、さらにその中でも最上階最奥にある部屋の扉を、僕はノックした。

「はい。どうぞ」

中へ入る。埃を被りながらも、乱雑に積み上げられた書物の奥、これもまた見事な紅葉を切り取る窓を背に、デスクに座る先生がいた。

「あぁ、君か」

先生は僕を認めて、軽く頷いて見せる。

「ご無沙汰しています」

一礼。お元気でしたか、とは問わない。そんなものは見ればわかる。

「悪いが手が離せない。珈琲なら自分で淹れてくれ」
「いいえ。今日は結構です」

先日別所で不味いのを飲んだばかりだし、そもそもここのコーヒーメーカーが動くとは思えない。

先生は窓明かりを頼りに、デスクの書物に目を走らせている。本来ならページを捲るのも覚束ない筈であるところ、そこは学者の気迫か、若々しかったあの頃のように力強い手つきで読み進めていく。

「研究は順調ですか」
「順調とはどういう状態だ」
「前進していますか」
「どちらが前かもわからんよ。だから研究している」

相変わらずだな。思わず笑みが溢れる。塞いでいた気持ちが、ほんの少し和らぐ感覚があった。

時計を見る。針が指す時刻は、四時五十九分。

「この研究室も、随分古びましたね」天井の隅、蜘蛛の巣が張っているのを見て取り、僕は切り出した。「まぁ、僕がここに来るようになった当時から、すでにアンティークな装いでしたが」
「もう何年になるかね」
「二十年近く前です。僕はまだ小学校にも通っていなかった」
「私もまた、万年助手と言われていた時代だな」

助手の頃が一番良かった。先生は溢す。「役が上がると、くだらん仕事が多過ぎる。あの頃が一番、研究に明け暮れていた」そして目線を上げ、僕を見た。「君の一族にも随分と協力してもらったものだ」

言語学。とりわけ古代より日本で信仰されている『言霊』の存在の検証が、先生の研究テーマだ。同様の学術的テントを構える学者は数いるところ、自分のような祓い師、呪術的分野への応用に目を向けたところが、先生のユニークさの表れと言える。

「『言葉には言霊がある。それは人間が神の領域へと踏み込む上で、最初のよすがとなり得るものだ』」誦じるように、僕。「まだ読み書きも不十分な自分に向け、先生は滔々と語ってくださいました」
「うむ。今もなおその理念については、些かの曇りもない」先生は言い切る。「当時、その神の領域と親和性が見られる事象として、君の一族が持つ正六角形の力、その発動に伴う口上に着目した。とりわけ重要な試験体として研究に参画してもらったのが……」
「まだ能力を開花させていない、幼き日の僕だった」

先生は深く頷く。目線は低く、僕を捉えているように見えながらも、当時接した、幼少期の僕を見ているように思えた。

一つ目は母のため。
二つ目は父のため。
三つ目は祖のため。
四つ目は裔のため。
五つ目は己のため。
六つ目は神のため。

僕の一族、中でも純血の者がその身に宿す『祓い』の能力は、その口上(僕らの一族は『祝詞』と呼んだ)を唱え、宙に六つの点を打つことで発動する。
大方の者が五歳までにはその力に目覚めるところ、しかし、純血であるはずのところの僕は、同じ年齢に達してもなお、空中に六角形を結び切ることができずにいた。

数百年の時を経て、代々受け継がれていたこの力自体、代を重ねるごとに弱体化が懸念されていた。そんな中、当時最も若い僕に力が宿らなかったことは、一族の危機感を大いに煽ったと言う。
先生の研究チームが協力依頼を申し出てきたのは、そんな混乱の最中であった。

「『祝詞』の力が弱まっているのでないか、というのが先生の仮説でした」
「そうだ。君ら一族が、人と人ならざるものの境界に触れる行為。口上と共にそれが成されるのであれば、まさにそいつは『言霊』の力であろうと思われた。その前提に立った場合、特に六つ目、『神』の実在性が希薄となった現代において、言霊の力が十分に作用しなくなったと考えれば、一連の事象に説明がつく」ふふふ、と先生は肩を揺らして笑った。「君の存在を知った時は、胸が躍った。ここまでおあつらえ向きなサンプルがいるなど、天啓としか言いようがなかった」

そうですね。胸に僅かな澱みを抱えながら、僕は頷く。

共に六つ目、『神』に代わる言葉を探してみよう。
そう差し伸べられた先生の手を取った瞬間から、僕らの二人三脚は始まった。毎週のごとくこの研究室に通い詰め、古今東西あらゆる言葉を試しながら、六つ目の点を打たんと励んだ。その多くが幼き僕には理解が及ばぬ、画数の多い漢字ばかりのものだった。唱える前に先生から言葉の説明をレクチャーされる。その過程で、僕は多くの知識を蓄えていった。

実験は難航した。どれだけ含蓄のある意味深長な言の葉も、僕の六角形を完成させるには至らなかった。度重なるトライアンドエラーに、もう辞めたい、と僕は音を上げた。こんなことをして意味があるのか、こんな力が何になるのか。能力を使えず、一族から冷遇されていた恨み辛みもあったのだろう。自暴自棄になり、先生に対し八つ当たりの言葉をぶつけた。

言葉には言霊がある。それは人間が神の領域へと踏み込む上で、最初のよすが。

「『そしてそれを操る君の一族は、とても気高く美しい』。先生はそう言ってくださいました」

僕の言葉に先生は片眉を上げ、「そうだったかな」と興味なさげに窓の紅葉を向いた。
その体勢のまま、問うてくる。

「何だね、今日は。わざわざそんな思い出話をしに来たのか」
「いえ」僕は首を振る。「二つ、ご報告に伺いました」
「聞こう」

先生は今一度、僕に向き直る。僕は口を開いた。

「先生の仮説は、おそらく間違っています」

根拠は。すぐさま眼光鋭く訊ね返してくる。全盛期を過ぎてなお、この切り替えと回転の速さ。流石としか言いようがない。

「六つ目は『君』のため。当時、その祝詞を唱えることで僕の能力は発動しました。時間がかかった反面、弱体化どころか、僕の力は一族でも群を抜いて強力なものでありました。以来、同じ文句を用い、数多の霊をこの世から祓ってきました」
「承知している。先を」
「はい」僕は頷く。「端的に言えば、『君』以外の文句でも能力が発動しました」

一瞬の静寂。

「それはその代替文句の言霊の力だ」
「それが、そうでも無さそうです。その場の思いつきであるような、さほど呪術的に意味をなさない言葉であっても、六角形は描けます。例えば、先生の背後に映る窓景色、『紅葉』などでもおそらく可能でしょう」

先生は顎に手を当て、眉間に皺を寄せる。「紙とペンをここに」。少し躊躇したが、僕は手近にあった埃まみれの一式を取り、デスクに置いた。しかし先生はそれには手を付けず、なおも沈思黙考を続ける。

「……いつからだ」
「十年ほど前には、すでに」
「どうして言ってこなかった」
「ちょうど先生が闘病中でいらっしゃった時期です。それどころではありませんでした」
「この部屋に戻って来てからも、時間はあっただろう」怒りを滲ませ、ため息を吐く。「私に気を遣ったか。見くびるな、これでも学者の端くれだ。一度打ち立てた自説に拘泥していては、真理には到底辿り着けまい」

大変失礼しました。頭を下げる。

「まぁいい。君の意見を聞こう」
「祝詞の効用や必要性については、未だ不明です。ただ、一度能力が覚醒してしまえば、そこまでその内容は重要ではない。自分の力量では叶いませんが、祝詞なしで祓える術師がいてもおかしくはない、と感じます」
「感想に意味はない。それを実証可能な者はいるか」
「今現在ではおりません。僕がより研鑽を積めば、あるいは」
「ではそれを待とう」
「それも叶いません」

先生の顎から指が離れる。一瞬で何かを悟ったような顔つきに変わる。
僕は一度息を吐き、続けた。

「この研究棟の取り壊しが決まりました」
「……それが、二つ目の報告か」
「はい。先生が此処にいらっしゃることは大学も承知の上でした」
「なるほど。それで君が呼ばれ、こうして出向いてきたわけか」先生は頷き、小気味よく笑う。「皮肉なものだ。研究の一環で君の能力を開花させ、その君の能力で研究を打ち切られる」
「先生……」
「皆まで言うな。わかっている」

わかっている。本当にそうだろうか。
容赦なく自分を『サンプル』と呼ぶ先生。その先生に与えられた、祓い師としての光明と矜持。一方的な思慕を胸に、それを今日ここで貫く自分の葛藤と覚悟が、この人には伝わっているだろうか。

僕はもう一度時計を見る。
四時五十九分。

主を失ったこの部屋の時間は、今もなお動かぬまま。
長い闘病生活を終え、しかし飽くなき探究心故に、此処に縛られ残った先生。その魂と共に、一秒も進まず止まっている。

「死してなお勉学に明け暮れることができたのは、僥倖だった。欲を言えば、今日の君の報告を受け、更なる実験を重ねたいところであるが、仕方がない」

先生は手元にあった書物を閉じ、僕を見る。「やり給え」
僕はゆっくりと、右手で数珠を取り出す。

「ひとつリクエストをしていいだろうか」
「……え?」
「六つ目は先ほど君が言った『紅葉』で頼む。実例を見ておきたい」

あぁ、この人は。
胸から怒涛のように込み上げるものを感じ、堪らず僕は数珠を掲げる。決意が鈍るその前に、勢いに任せ言の葉を吐き出す。

「一つ目は母のため。
 二つ目は父のため。
 三つ目は祖のため。
 四つ目は裔のため。
 五つ目は己のため」

かつて実験を繰り返した日々と同じく、六つ目を先生の指定通りに唱える。
空中に出来上がった光る正六角形を前に、先生は恍惚とした表情を浮かべる。

「うむ。確かに」

六角形は輝きをたたえながら、緩やかに先生へと近づいていく。先生はそれに構う様子もなく、また顎に手を当て、思考を始める。

「となると、前提が覆るな。むしろ言霊を授ける行為と位置付けるべきか、あるいは……君」僕を見る。「そもそも君があの日、六つ目を『君』とした理由は何だね」

胸の内側で解けゆくものを感じながら、僕は答える。

「先生が僕をそう呼ぶからです」

先生が目を見開くと同時に、六角形がその霊体に触れる。光に包まれ、先生の表情が読み取りにくくなっていく。

「なるほど。少し前進した」

最後に言葉だけを残して、呆気なく光は霧散した。
無人となった薄暗い研究室に、僕は一人立つ。
目の前には、先ほどまで先生越しに見ていた、紅い窓景色。

涙と共に、喉元から声が漏れる。

鳥の鳴き声に似ているかは、よくわからない。


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