【短編】紫信号
優しさなんてわからない。最初から見様見真似だ。
幼稚園で年少の子が泣いていたとき、頭をよしよししてあげたことも。
小学校でブスとからかわれた子を、「そんなことないよ」と励ましたことも。
中学に入り初めてできた彼氏に応え、毎日お弁当を作ったことも。
こうするのが「優しさ」だよね。周りの大人や同年代、テレビドラマや漫画の世界。そこで繰り広げられる悲喜交々を注意深く観察し、正解らしきものをコピーすることで、私はそれを実現してきた。
だって、それしかない。
お父さんもお母さんも先生も教育テレビも。「優しい人になりなさい」と言いながら、どうすればなれるかを教えてくれなかった。「優しい」とされる思考や行動。そのサンプルをかき集め、模倣するしか手が無かった。
相手が嬉しがることをすればよいのか、とも思ったが、それも違う。時に厳しく接することも、優しさのひとつだと言う。「彼氏のこと、甘やかしすぎじゃない」。複数人から指摘されたが、ではどこまでを許容して、どこまでを厳しくすれば良いか、匙加減がわからない。
相手の今後を思い、プラスに転じるであろうことをすればよい、とも思ったが、それも違う。どの時点でのプラスを重視するかは、人それぞれであるようだ。実際、高校受験を目前に「会いたい」を繰り返す彼氏にとっては、先のわからぬ未来より、今を楽しむ方が大事であるらしかった。
私が妊娠をして、その子をお腹から堕ろすことになったときも、果たしてそれが優しさかどうか、よくわからなかった。
まだ十代のあなたには育てられない。こうすることがお腹の子のため。お母さんの忠告を聞き病院で手術をしたけれど、顔すら見ていないその子がそれを望んでいたのか、最後までわからぬままだった。慌ただしくお別れをしたその後も考え続け、だけどやっぱりわからず、自分は正しい人間なのか、優しい人間でいられているのか、疑問は渦巻き、やがて私は何も食べられなくなった。
お父さんは彼氏を殴り、彼氏は学校へ行けなくなり、そうこうしている間に受験も終わり、同級生はみな卒業を迎え、私の卒業証書も家に届いていたらしいけれど、何も食べられず食べたとしても吐き戻してしまう私は、病院のベッドで他人事のようにその報告を受けるしかなかった。
なんとか流動食ぐらいは喉を通るようになり、身体は少しずつ回復へ向かっていったものの、退院後、どこにも身の置き場を持てず、私は一日の大半を家で過ごした。見兼ねたお母さんから勧められ、フリースクールに週二日通うことになり、そこでイズミさんと出会った。
イズミさんはスクールの事務員で、無口で大人しい人だった。黒いセミロングの髪を後ろで束ね、化粧は薄く、服装はいつも白いシャツに黒のタイトパンツ。無印良品のモデルみたいな出立ちだけれど、モデルのような愛想は一切皆無で、他のスタッフや生徒と話しているところを見たことがなかった。
スクールのスタッフが付けているネームプレートについても、『ゆめっち』や『もりぞう』といったニックネームが主流の中、おそらく本名なのであろう『イズミ』の三文字が、油性マジックでぶっきらぼうに書かれているだけ。誰とも話さず、直接生徒と関わる仕事でもないため、そのプレートにある名だけが、私が唯一知る彼女のパーソナル情報だった。
なので、イズミさんの方から話しかけられたときは驚いた。通い始めてから一か月近く、私はそこで初めてイズミさんの肉声を聞いた。
「うるさくてしんどくない?」
帰り際、何かの拍子で私一人となったタイミングに、そう訊かれた。あまりに唐突で、他に誰もいないにも関わらず、本当に私への質問なのかどうか自信が持てなかった。
しかし、言われている内容には心当たりがあった。
スクールは、お世辞にも落ち着ける環境とは言い難かった。中には不良っぽい雰囲気の子もいて、他の迷惑を顧みず大声で話したり、急に席を立ってはコンビニでお菓子を買ってきて、机の上でバリバリと食べ始めたりしていた。スタッフが叱ると倍の勢いで反発する。教室にはまだ小学生の女の子や、障害を持ち刺激に敏感なタイプの子などが集まっており、時に怖がって泣いたり、驚いて叫んでしまったりすることがあった。
「勉強どころじゃないでしょう」
イズミさんが言うので、勉強しに来ているわけではない、と答える。じゃあ、何しに来ているの、と問われ、返答に詰まった。私は一体、ここに何をしに来ているのか。
「社会復帰……でしょうか」
果たして理解を得られるか、不安だったが、そこで思いがけずイズミさんは口の端を緩め、笑顔を見せた。
「じゃあ、私と一緒だ」
この時からイズミさんとの交流は始まった。
と言っても、授業の終わりに一言二言交わすだけで、深い接触があるわけではなかった。話しかけてくれるのはイズミさんの方で、その内容も「梅雨入りしたね」とか「暑くなってきたね」とか他愛のないもの。それらに対し「そうですね」と淡々と応じるだけのところ、しかし、あまり喋らない私たちのやりとりが稀有に映るのか、仲がいいね、と周囲から言われることもしばしばだった。
スクールに通う頻度も、月を追うごとに、週二日から三日、四日と増えていった。中には騒がしい子がいない日もあって、そんな日は落ち着いて過ごすことができた。高校で習うはずだった勉強も、少しずつだが理解が進み、お母さんから「また今年、受験してみれば」とそれとなく催促も受けた。
摂食障害も回復に向かっていたし、大分外にも出られるようになった。
また学校に行ってみるのもいいかもしれない。
そんな気持ちを自覚すると、一度脱線した車輪が、少しずつだがレールの上に戻っていく感覚があった。
*
彼氏と遭遇したのは、八月も下旬に入った頃だった。
スクールから最寄駅に向かう途中に繁華街があり、私は帰り道、その中にある大型書店に立ち寄った。本格的に受験勉強に着手するならば、問題集のひとつも必要だろうと考え、何冊か見繕いまとめて購入した。
「ヒナ」
直方体に膨らむビニール手提げを持ち、書店を離れ、駅へ直結する裏道に入ったところで、声をかけられた。かつて聞き慣れた、私を呼ぶ音。相手が誰なのかは瞬時にわかった。
しかし、振り向いた先にいた男の子は、記憶とは違う装いだった。黒かった髪は銀色に染まり、耳にはリングピアス。宇宙服みたいにダボダボしたセットアップを着て、右手の指には大きな指輪と煙草が挟まっていた。
「よぉ。久しぶり」
胸がざわざわと騒いだ。怖くなり、下を向く。「何だよ、そのリアクション」。彼に向けた頭頂部に、言葉が降ってくる。
「お前さ、音信不通になってんじゃねえよ」
近寄ってくる足音に、びくりと身体が震える。「いやいや。なんもしねぇって」。顔を上げると、両手を顔の横にやり、無害を表すポーズをとっている。
「あのさ、俺だって申し訳ないと思っているわけ。ヒナを傷つけたこと、反省してるし、親父さんに殴られんのも甘んじて受けた。でも連絡とれねーんじゃ、どうしようもないだろ」
「……なんでここにいるの?」
どくどくと跳ねる心臓を感じながら、訊ねる。彼氏は呆れたように息を吐いた。
「別にストーカーしてたわけじゃないって。ツレと遊んでたら、ヒナっぽい子を見かけたから、離脱して声かけただけ。別にお前に未練も何もねぇよ」
「じゃあ、どうして連絡してきてたの?」
着信があることは知っていた。メッセージも来たが、既読もつけずにブロックした。この人を嫌悪していた、と言うより、頭の中を掻き乱されるのが怖かったからだ。
「いや、そりゃあ、お前」
彼氏はそこで頭を掻き、指に挟んでいた煙草を地面に落として踏んづけた。
「あのさぁ、俺だって血の通った人間なわけ。ちゃんと赤い血が流れてんの。わかるだろ」
「……わからない」
「謝りたかったんだよ。お前と、お腹にいた子に」
ふ、と足元が浮き上がる感覚がした。
「あやまる……」
「そう」彼氏は、一歩近づいてくる。「なぁ、子どものお墓とか、仏壇とかないわけ?」
「……え」
「一度ちゃんと手を合わせておきたい。なんかある?」
お墓はない。供養はしたけれど、形として残るものはないようにした。お母さんがそうしましょう、と言ったので、私もそれに従った。
だから、手元にあるのはひとつだけ。
「診察券」
「は?」
私は彼氏を見る。
「産婦人科の診察券なら、ある」
「それが、お墓の代わり?」
わからない。ただ、私がしたことを思い出すとき、これでよかったのかと自分に問うとき、唯一残っている形あるものとして、それを見つめることが多いだけ。
「まぁ、いいや。それ、今手元にある?」
「え……ない」
「じゃあ今度持ってきてくれよ。一週間後、場所はここ。時間はえーっと、バイトあったっけな。まぁいいや、十二時。おけ?」
果たして応じていいものか。イエスともノーとも言えぬ私を置き去りに、「じゃあ、頼むな。絶対来いよ」と、彼氏は手を上げ去っていく。どうやら今の「おけ?」は可否を訊ねるものでなく、記憶したかどうかを確認する意図だったらしい。
取り残された私は、道の上で立ち尽くす。
心臓の鼓動はまだ落ち着かない。
駅へ向かうと、追いかける格好になる。当てはないが、一度引き返すしかない。
息を吸い、振り返って、初めてそこに人が立っていることに気がついた。
「イズミさん……」
帰り際、教室で見かけたときと同じ、白いシャツに黒のタイトパンツ。しかし、いつもは能面のようなその顔が、険しく私を睨みつけている。
「あの、どうして……」
「たまたま」表情が険しさを増す。「大丈夫? 顔色が悪い」
大丈夫です、と返せない。何と言えばいいか、わからない。
口籠もっていると、イズミさんは瞬きをして、意を決したように息を吐いた。
「少し休もう。一緒に行こう」
差し出された手を取り、私はイズミさんとその場を離れた。
*
入ったのは駅と同じビルにある喫茶店だった。昔ながらの装いで、年季の入った革張りのソファに、向かい合わせで腰掛ける。薄暗い照明の下、残り数口で終わるココアを手に、私はイズミさんに事情を説明した。
「それで、どうするの? そのカレに、謝らせてあげるの?」
ひとしきり私の話を聞き終えた後、イズミさんは訊ねてきた。私は下を向き、お臍の辺りに手をやる。かつて命が宿っていた私の内側。問いかけるが、もちろん返ってくるものは何もない。
「どうすればいいか、わかりません」
私は言った。
わからない。この先へ渡っていいものか。見上げた信号の色が混ざり合い、赤でも青でもなくなっていく。そんな感覚がした。
「あの、イズミさんなら、どうしますか」
「行かない。応じない」
即答が返ってくる。
何気なく訊ねてみただけだったので、その力強さに私はたじろいだ。
「……どうしてですか」
「クソ野郎だから。鉄パイプで殴りつけていい案件」ふん、と鼻息を強く漏らして、イズミさんは続ける。「謝って自分がスッキリしたいだけだよ。あなたがそれに付き合うことはない」
それは、確かにそうかもしれない。
「でも、謝るだけなら別にいいかな、とも思うんです。それに……」私は再びお腹に手をやる。もう旅立った命を思いそれをすることが、なんだかよくないことだとは感じながらも、自然とそうやってしまう。「お腹にいた子も、もしかしたら謝って欲しいかもしれない、なんて思って……」
イズミさんは無言で私を見つめる。そして問うてくる。
「それは、優しさなのかしら」
優しさ。
苛まれ続けてきたその言葉に、胸がざわめく。
わからない。私は優しいのか。優しくあれているのか。
「イズミさん……」
「何?」
声が震える。「優しさ、ってなんですか。どうすれば、優しくなれますか」
そう口にした瞬間、とてつもない悪寒が身体を襲ってきた。さっき飲み込んだココアが喉元まで競り上がってくる。どうしたの、大丈夫。イズミさんの声が遠い。「ごめんなさい」と席を立つ。耳鳴りがする。店を出て、駅のトイレへ。個室まで持たない。洗面台で私は嘔吐する。
隣にいた人が足早に去っていくのを感じながら、私は胃の中のものを吐き出していく。今朝から、固形物はほぼ口にしていない。どろりとした胃液混じりのものが、私から排出される。吐くたびに、血の気が引いていく感覚。しまいには立っていられなくなり、洗面台の縁を掴んで、その場でへたり込む。
私の名を呼びながら、誰かが駆け寄ってくる。イズミさんだ、と耳鳴りの中で気がつく。大丈夫。救急車を呼んだから。切迫した声が聞こえる。
そこから先のことは薄っすらとしか覚えていない。
気づけば私は病院のベッドで、点滴を打ちながら横になっていた。きっとイズミさんが呼んでくれた救急車で運ばれ、ここに来たのだろう。目が覚めて、無機質な天井を見ながら、そう思った。
ベージュのカーテンで仕切られた一角。傍らにはそのイズミさんがいて、不安げな顔で私を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「はい」
頷きを返すと、風船から空気が抜けるように、イズミさんは椅子に座り込んだ。一時間ほど私が眠っていたこと。スクールから番号を聞いて、お母さんを呼んでいること。それらを淡々と告げた後、力無く項垂れる。そして驚いたことに肩を震わせ、涙を流し始めた。お母さん以外に大人の女性が泣くところを、恐らく私は初めて目にした。
最初、それは安堵からくるものだと思った。勤め先の生徒が目の前で倒れたのだ。心配をかけてしまったことを詫びなくてはならない。私は背中を起こそうとした。
しかし、
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にしたのは、イズミさんの方だった。
ごめんなさい、ごめんなさい。溢れる涙の隙間を縫うように、ぽつりぽつりと吐き出される。曇天の中、頬に当たった感触が雨粒のそれであるかを確認するかのごとく、私は降りかかる言葉の真意を何度もなぞって吟味した。
だが、わからない。イズミさんが何を思って謝っているのか、皆目見当がつかない。
「ごめんなさい。私が踏み込むべきじゃなかった。介入すべきじゃなかった。でもあなたの辛そうな顔を見たら、どうしても放っておけなかった。何もできないのに。余計な傷を負わせてしまうだけなのに。私は……私は……」
今まで誰も、救えた試しがないというのに。
絞り出すようにそう言うと、完全に俯き、嗚咽を漏らし始める。
時に咳き込み、鼻を啜り、あるいは声を戦慄かせ。
襲いかかる自責の念らしきものと、戦っては負け、戦っては負けを繰り返す。
社会復帰……でしょうか。
じゃあ、私と一緒だ。
いつかした会話が思い出される。
イズミさんが今、何を思っているのかはわからない。ただ、イズミさんもまた、まともに生きていく上で必要なパーツが足りずに生まれ、または失い、今この病室で私と相対するに至っている。その欠落について、多くを語られるよりもずっと克明に思い知らされた気がした。
「ヒナ」
どれくらいの時間が経っただろうか。カーテン越しに、私を呼ぶ声がした。お母さんだ。私が反応するよりも先に、イズミさんが立ち上がり、カーテンを開ける。
「あ」
お母さんが何か言いかけるよりも早く、
「申し訳ございませんでした」
イズミさんは頭を下げた。そのまま固まったように動く気配がないので、お母さんは戸惑ったように私を見る。
「スクールの、イズミさん。救急車を呼んでくれたの」
何故か私が紹介をする。「そうでしたか。あの、どうかお顔を上げてください」。膝を屈め、お母さんが優しく声をかけると、ようやくイズミさんの泣き腫らした顔が浮上する。
「私のせいです。私が娘さんを、傷つけてしまいました」
イズミさんは言う。さすがにもう泣き出すことはないが、顔を歪めて耐えているのがわかる。
お母さんは私を見る。「ヒナ、大丈夫?」「大丈夫」。お母さんはまたイズミさんを見る。
「あの……」
「すみません。私はこれで失礼します」
お母さんの声を遮り、イズミさんは鞄を掴む。待ってください。お母さんは呼び止める。
「今からこの子に話を聞きますが、あなたがこの子を病院に連れてきて、付き添っていただけたのは確かです。どうかそれには、御礼を言わせてください」
ありがとうございました。お母さんが頭を下げる。
イズミさんは苦しげにそれを受け止め、一礼をしてカーテンの向こうへ去っていった。まるで犯行現場から逃げるようで、痛々しく、切迫した雰囲気を纏っていた。
「ヒナ、大丈夫? 何があったの?」
お母さんに問われ、自分が点滴に繋がれていること、繋がれるに至る出来事があったことを思い出す。
どうしようか。どこまでを話そうか。
それにはまず、私がどうしたいか、を決める必要がある。
先ほど感じた悪寒が、再び身体を襲う。
何故か反射的にイズミさんを探しかけ、そこでまた彼女の涙を思い出した。
*
彼氏に指定された、一週間後のその日。私はフリースクールを休んで、約束の場所に立った。
お母さんには結局、彼氏と会ったことは話さなかった。イズミさんと同じように、反対されるに決まっている。ぎりぎりまで行くかどうか迷ったが、その迷う時間を確保する意味でも、お母さんに真実を告白することはできなかった。
いや、違う。
きっと私は、初めからここに来ると決めていた。欲しかったのは悩むための時間でなく、ここに来ることを自分に納得させるための時間。そして、ぎりぎりまで迷ったという既成事実。
正午を少し過ぎて現れた彼氏を前に、私は自分のその本心に気がついた。
「よぉ」
こちらの葛藤など知りもせず、片手を上げ、近寄ってくる彼氏。今日ここに私が来ることを、微塵も疑っていなかったような物言いに聞こえる。
それもそうだ。付き合い始めてから縁が切れるに至るまで、この人の言うことに一から十まで、私は諾々と従ってきた。お弁当も、呼び出しも。それが優しさだと信じ込み、我が儘に応じてきた。
「持ってきた?」
挨拶もそこそこに、本題に踏み込んでくる。私はスクールバックを胸の前にやり、ファスナーを開け、中にあるカードケースから、薄桃色のカードを取り出した。病院の名と無機質な数字の羅列、そして見まごうことなく、私の名前が書かれた診察券。それを相手の目前に差し出す。
「サンキュ」
手を伸ばし、それを掴もうとする彼氏に対し、
「触らないで」
私は言った。言えた。「このままで、お願い」。怖くて前を向くことができない。でも、ちゃんと言った。
「……わかったよ」
むすりとした声音で、彼氏は頷く。じゃあ、そのまま持ってろ。偉そうにそう命じ、しかし、殊更に神妙な面持ちで両手を合わせる。
明るい髪色。大きな指輪がついた指。閉じられた両の瞼。
あぁ、やっぱりだ。
込み上げるものを感じながら、私は思う。
付き合い始めてから縁が切れるまで、私はこの人に従ってきた。でも、今日は違う。私は私のために、ここに来ている。
謝って欲しかった。
私にではない。私が手放した、ひとつの命に。
今まで独り、何度それを試みたかしれない。でも、どれだけ謝っても足りない気がした。足りない分を、一緒に謝ってくれる人が欲しかった。それは病院に付き添ったお母さんでも、彼氏を殴り飛ばしたお父さんでもできないことだった。
この途方もない罪悪感を。
一緒に背負ってくれる人は、この人しかいなかった。
「っし」
彼氏が顔を上げる。手を合わせていた時とは対照的に、晴れやかな顔をしている。
「ありがとな、ヒナ。ようやく気が晴れたわ」
「……うん」
私は診察券を両手で包み、胸に抱く。ありがとう。口には出さないが、私も思う。一緒に謝ってくれて。罪を背負ってくれて。ほんの少しだが、心が軽くなったような気になる。
「いやぁ、実際辛かったわ。マジで罪悪感半端なかったし」
彼氏が言う。ポケットから、タバコを取り出し、口に咥える。
「今、彼女いるんだけどさ。もう、その子とヤってる最中も気が気じゃねぇの。また子供できちゃったらどうしよう、とか、ヒナの子絶対俺のこと恨んでるだろうな、とか色々考えちゃうわけ。もうね、全っ然楽しめない」
タバコに火をつけ、軽快に笑う。
「だからマジ助かったわ。これで憑き物が落ちた感じ」
目の前が真っ暗になる。
足元が音を立てて崩れ落ちるような感覚。私のつま先から数センチの距離、地球に大きなヒビが入り、その対岸で馬鹿みたいに笑っている、顔。
クソ野郎だから。鉄パイプで殴りつけていい案件。
イズミさんの言葉が蘇る。
叫び声が聞こえた。誰だ。私だ。喉の奥からサイレンのように、濁音が撒き散らされている。自分でも何を言っているのかわからない。ただ、大声を出し続ける。
それだけでは衝動を抑えきれず、今度はスクールバックを掴んで振り回す。不恰好に地面に当たって、跳ね上がり。それでも、何度も振る。
診察券はどこに消えた。
探さなきゃいけない。
でも、身体が言うことを聞かない。
感情の奴隷になり、歯止めが効かない。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ここに連れてきてごめんない。産んであげられなくてごめんなさい。命を宿してごめんなさい。こんな人と付き合ってごめんなさい。
優しくなくて、ごめんなさい。
「おい、ヒナ。止めろ。人が来るだろ」
彼氏が私の腕を掴む。振り解こうとするが、力が強い。全身を捩る。まだ解けない。指輪のついた手。頭に血が上り、それに噛み付く。「ッて」。手が離れる。
「おま、いい加減に……」
血走る眼。その手が振り上がり、私の顔に迫る。
「止めなさいっ!」
悲鳴に近い金切り声が、背後から聞こえた。振り向くと、白いシャツと黒のパンツのイズミさんがそこにいた。しかし、視界に入ったのは一瞬。イズミさんは私に駆け寄り、矢鱈目鱈と動き回る私の身体を、強引に自分の方へと向け、抱きしめた。
「ごめん、来た」
イズミさんが言う。肌に染みていく体温に融解されるように、全身の強張りが消えていく。
「え、誰?」
イズミさんの体越し、くぐもって聴こえる彼の声。
「黙って。消えて。二度とこの子に近寄らないで」
対する台詞は、振動を伴って私に伝わる。
彼氏が、彼氏だった男の子が、何か言い残して場を去っていく。それを聴覚だけで私は悟る。
私を抱きしめる腕の強さは緩まず、どころか激しさを増す。
「イズミさ……」
突然、両肩を掴まれ、身体が引き離される。その体勢のまま、イズミさんが私を見る。
「もっと優しくしなさい」
叱りつけるような口調。
「……ごめんなさい」私は謝る。「あの子に、あの子に……」。言葉が続かない。
あの子に優しくする振りをして、私は。
「違う」
イズミさんは首を振る。
「自分に」
優しくしなさい。
優しくしなさいよ、もっと。
再び私の頭を胸に押し付け、私に、そしておそらくは自分自身に言い聞かせるよう、掠れた声で繰り返す。
私の目から、私の体温を含んだものが、溢れ出してくる。
いいのだろうか、と不安になる。
いいのだ、と抱きしめる腕が告げる。
そうか、いいのか。私は思う。
優しさなんてわからない。最初からずっと見様見真似だ。
だからこの優しさも、ちゃんと真似をしなくてはいけない。
真似できるよう、全身全霊で受け止めなくてはならない。
繁華街の路地裏。私たちは互いにしがみつき、わんわんと声を上げて泣いた。いい加減、泣き疲れて落ち着いた頃、イズミさんの電話が鳴った。わかりました、と電話が切られ、二人で歩いて駅へと向かった。
改札の前にたどり着くと、向こう側でお母さんが待っていた。ごめん、呼んだ。端的に謝るイズミさんに「ありがとう」と私は伝え、そこでイズミさんと別れた。
しばらくスクールを休んで復帰すると、イズミさんはスクールを辞めていた。
他のスタッフに聞くと、契約上、最初からその予定だったらしかった。私も私で、本格的に受験の準備に取り掛かるべく、その月一杯をもって退学をすることに決めた。
冬に入り、年末が近づいてくる頃、イズミさんから一通の手紙が届いた。お母さんからそれを受け取り、自室で封を切った。ふたつに折られた便箋と共に、薄桃色のカードが封入されていた。あの日、いつの間にか落とし、諦めていた診察券だった。
便箋を開ける。
そこには丁寧な手書きの文字で、短い文章が綴られていた。
遠藤 雛美 様
ご無沙汰しています。
お母様から住所を聞き、この手紙を書いています。
お母様からスクールを辞め、高校受験にトライするとお聞きしました。
雛美さんが前を向いて歩いていらっしゃること、とても嬉しく思います。
また、私がスクールを辞める際、きちんとした挨拶ができずすみませんでした。
元々決まっていた話でしたが、雛美さんのおかげで、私も前を向いて進むことができています。
あの日、私にあなたを助けさせてくれて、ありがとう。
どうしてもこれが言いたくて、この手紙を書きました。
電話では恥ずかしいので、ごめんなさい、文字で。
本当にありがとう。
お母様から、きっともう大丈夫だ、とお聞きしたので、あの日拾った診察券を同封します。拾ったことを黙っていて、ごめんなさい。
受験、頑張ってください。
寒くなってきたので、お風邪など召されませぬよう。
川崎 泉
便箋を折り、封筒にしまう。開封時にも目にしたが、差出人であるイズミさんの名前と住所が裏面に書かれている。
最初は一瞥しただけでわからなかったが、住所の真下に、封筒と同じ青色のペンで、小さな文字が書き込まれていることに気づく。
『私は今、ここにいます』。
書かれていた文字に、何故だかふと心が和らぐ。
便箋と同じく、診察券も封筒に戻し、私は受験勉強の続きに戻った。
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この作品は、こちらの作品のその後を描いたものです。
