午 歌舞伎座 七月大歌舞伎 夜 『鎌髭』『神明恵和合取組』『春興鏡獅子』 <白梅の芝居見物記>
歌舞伎十八番の内 鎌髭(カマヒゲ)
松岡亮脚本、藤間勘十郎振付・演出。
『鎌髭』は、安永3年<1774>年4月、中村座で四代目市川團十郎により初演されました。
が、七代目團十郎が天保年間に市川宗家のお家芸として「歌舞伎十八番」を選定した時には、すでに内容がよくわからなくなっていた演目のようです。
明治期に澤瀉屋によって復活されたこともあったようですが、今回の上演は当代により、平成25年<2013>5月南座において復活初演されたものとのこと。
『壽三升景清(コトホイデミマスカゲキヨ)』の外題は翌年正月新橋演舞場にて、「景清物」の通し狂言として上演された時に用いられたものです。
近世芸能に登場する「景清」は、源平合戦当時の物語などに登場する人物ではありません。
歌舞伎十八番においては、『景清(牢破りの景清)』『鎌髭』『関羽』『解脱』にも景清を登場させています。
市川宗家にとってのみならず、近世芸能における「景清」の位置はとても重要ですが、ここでは踏み込みません。
「悪七兵衛」と呼ばれるからでしょうか「悪い人物」と解釈している向きもあって驚きますが、近世芸能に登場する「景清」は所謂悪人、敵役ではありません。
青隈を入れていますが、それは赤い隈の「熱血漢」を表すだけでなく「理性的・知的」側面を表すためのものであろうと私は考えます。
私が『鎌髭』自体を拝見するのは今回が初めてです。
大変面白く見物することが出来ました。
近世の歴史を扱っているという点に関してはどうかという側面もあるかと思いますが、「景清物」に関しては私自身まだ消化しきれていないところがあるので考察は差し控えざるを得ません。
本作は景清を主人公としており、Aプロの中村福之助丈も、Bプロの中村鷹之資丈もよくやっていらっしゃると思います。
ただ、荒事らしい大きさやおおどかさを見せる以外に為所があるわけではな役どころ、というのが若い役者にとっては如何ともし難いものがあるように思います。
今回の舞台としての面白さはなんといっても、猪熊入道の中村虎之介丈の奮戦によるところが大きいように感じます。
初演の市川猿弥丈の先例が生きているのか、喜劇的な間の良さを出せるところは大きな強みになっていくのではないでしょうか。
神明恵和合取組(カミノメグミワゴウノトリクミ) め組の喧嘩
文化2年<1805>2月、江戸芝神明の境内で相撲がかかっていた時に、そこを持ち場としていた町火消しである「め組」の鳶の者と、力士が起こした乱闘事件を題材としています。
ただ、芝居として実録風に脚色されての上演は、明治23年<1890>年3月東京新富座において初めてなされました。
作者は竹柴其水。すでに「江戸」の文化が「歴史」になりつつある時代であり、黙阿弥風の演出が喜ばれ、現代でも人気の演目として残っています。
初演の辰五郎は、五代目尾上菊五郎。
脚本としてはかなりの愚作と渥美清太郎氏は厳しいのですが‥
私は七代目菊五郎丈の辰五郎で熱狂した世代であり、大好きな芝居の一つです。
平成中村座における十八代目中村勘三郎丈の辰五郎も、七代目(五代目の芸系と私は推測)とは違って六代目菊五郎の辰五郎はこうしたものだったのかと思わせるような、また違った魅力のある舞台を拝見させていただいています。
そうした理想型を持ってしまっている見物としては、今回初めて拝見した当代團十郎丈の辰五郎には、少なからずショックを受けてしまいました。
渥美清太郎氏の評にも一理あることは確かなのでしょう。
役者によって芸風の違いがあってもそれはいいのです。
ただ、近代になって美化して造形されていったとも言えるであろう、鳶の者に託した町人の張りや意気地、粋といったものの美学が芝居のど真ん中にない、やんちゃが仕掛けた乱闘騒ぎとしか言えない芝居では‥
それを古典歌舞伎と言うことに私はかなりのためらいを覚えます。
近代以降音羽屋系で磨き上げてきた「男伊達」の美学というものが、今回の舞台では無残に破壊されてしまっているように私には感じられました。
中村芝翫丈演じる四ツ車の方に分別のある大きさがあり、鼻っ柱の強いやんちゃが相撲にいいがかりを付けているように見えてしまう芝居では‥
今回上演された「島崎楼店先の場」を私はおそらく初めて見たのですが、この場を出すことによって、却って「め組」側に非があるようにも感じさせてしまったことは否めないでしょう。
他の場面では、市川右團次丈や中村歌之助丈が鳶の者としての男伊達が感じられる芝居をしていたので、却って気の毒なようにも感じます。
辰五郎内など、中村扇雀丈が侠客の世話女房としてきれのあるいい芝居をしていたので、非常にもったいなく感じてしまいました。
團十郎丈は非常に器用な役者なのだと思います。
恐らくこの芝居を教わった時にはそれなりの合格点はもらっていたのかもしれません。ただ、簡単に身に付けた「芸」というのは簡単に崩れます。
こうした音羽屋風の世話物の芸の基礎が崩れ、我流になってしまっていることは否めません。
見どころになるところが見どころになっていないうらみがあると私には感じられます。
勢揃いの場や最後の梯子を間に挟んでの押し合いなど、元気いっぱいで見せ場にもなってはいるのですが‥
大名という権威を笠に着た相撲に対する、長いものに巻かれない自分たちの力でしっかりと立っていようとする生き方をよしとし、命まで張ろうとする芝居。
幡随院長兵衛でもそうですが、こうした美徳は近世だけではなくむしろ「侠客」が注目を浴び発展した近代以降に洗い上げられた美学といえるのかもしれないと、考えさせられます。
単なるやんちゃ同士の乱闘ではなく、そうしたものが鮮やかに出てこないと、「傾く(カブク)」精神が「生き方の美学」にまで昇華することはないのではないかと私には思われます。
実際にあった「め組」の鳶と力士の乱闘のきっかけは、ささいなことと言っても「め組」側にその非があって喧嘩の発端となったことは確かなのだと思います。
ただその実録の上に描かれてしまっては、古典歌舞伎としては成り立たないのではなかと私は思うのです。
今回、焚きだし喜三郎で松本幸四郎丈が花を添えますが、八つ山下の場では、こうした役どころとして自然に歩けていないところも、私としてはとても気になりました。
この世代にとって、劇団の垣根を越えた共演も多くなっている中、こうした世話物の芸の基礎がかなり崩れてきていることに不安を覚えずにはいられません。
新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子(シュンキョウカガミジシ)
團十郎丈がかかさずジム通いをし身体作りに余念がなく、食生活のこだわりといい、洩れ伝わってくるところからうかがえるそのストイックな生き方は、同世代や後輩に大いに刺激を与えていることは確かでしょう。
今回の舞台を拝見して、『勧進帳』の弁慶を担える役者が今回のように小姓弥生を完璧に踊りきっていらっしゃるということは、決して生半可な決意で出来ることではないと私は思います。
成田屋を背負った者の決意の表われた舞台であることは間違いないでしょう。
團十郎丈の描く弥生を拝見していると、どこまでも美しくどこか儚げで恐らく男性が誰しも守ってあげたくなるような女性がしっかり造形されているのを感じます。
團十郎丈の中に確かにある理想の女性像が描き出されているのだろうと私には感じられます。
ただ、その理想型の中に人間としての「温もり」が感じられないのも確かです。
喜びや悲しみ、怒り、失敗や挫折、嫉妬や恨み、人生の様々な場面で様々な境遇や己自身と格闘しながら、人々は生きていきます。
完璧でなくても、不完全を受入れながらも、己を磨き続けられた者だけがはなつことの出来るオーラというものがあるのだと思います。
歌舞伎の世界でも何故大ベテランの芸が素晴らしいかといえば、己の目指す美学に向かって、常に前を向いて芸道に邁進してきた者だけが放つオーラとでも言えるものがあるからだと、私は思います。
歌舞伎は「人間如何に生くべきか」という生き方の美学というテーマが根底にあると言えるのですから、尚更です。
また、芝居というものは己一人で成り立つものではないでしょう。
他者との関係の中で、人間世界は描かれていきます。
自身や他者の不完全を受入れながら、焦らず前向きにお互いに研鑽していくことが何より大切であるように思います。
完璧を目指すことは決して悪いことではないと思います。
ただ、それが行過ぎてしまっては、己だけではなく周りも窒息してしまいかねませ。
また、不寛容は己自身の世界を非常に小さなものにしてしまいます。
芸術とは懐の深いものでもだと思います。
舞台はそれに携わる者、観客も含めて創造されていくものだと思います。
もう一段高いところから己のなすべきことを俯瞰する目も必要であるように私には思われます。
2026.7.22
