能楽の源流、大和猿楽と興福寺・春日大社、そして観阿弥・世阿弥 ―日本文化の深層― <白梅のひとりごと>
年初に能楽を紐解く視点から日本文化の深層に迫ることを抱負として掲げました。
「能・狂言」を語れる程の者ではないのは十分承知の上で、門外漢であるからこそ大胆な仮説をたてて論を展開することが出来ようかとの思いもあります。
今まで考察してきたことを少し書いてみようと思います。
観阿弥・世阿弥を生んだ大和猿楽
大和猿楽は現代につながる能楽の源流とされます。
古来、興福寺や春日大社の神事に奉仕することを職務としていました。
外山(トビ)座、坂戸座、円満井(エンマンイ)座、結城座の大和四座が知られています。
この大和猿楽の結城座から出た観阿弥・世阿弥が足利義満に取り立てられ、義満以後も能楽は将軍家に重用されていきます。
神事を越えた古典芸能として大成していく道を得て、それが現代の能楽につながってゆくのです。
大成に向かう道を得たのは、時の権力者に取り入ることに成功したから、というような表層的なことでは決してないと思います。
新しい国家権力にとっても国家運営上、学ぶべき大切な伝承を猿楽自体が内包していたからではないでしょうか。
新興の武家の式楽としての存在感を保ち続けられたのは、それだけの物語られる重要な思いを伝承し続けて来たからだと、私は考えます。
藤原氏に期待されるもの
大和猿楽を考える場合、藤原氏の氏寺である興福寺や藤原氏の氏神である春日大社との結び付きを度外視することは出来ないでしょう。
世阿弥は二条良基より「藤若」という名前を賜っています。
「藤」は藤原氏、「若」は「春日若宮」につながります。
世阿弥が背負ったものの大きさを私は考えずにはいられません。
「藤氏」を期待されるというのはどういうことでしょうか。
それは、藤原氏という氏族が背負ってきた「使命」とも言うべきものに思いを致さなければならないと私は考えます。
この使命というものを理解しないと、『伊勢物語』が何故「古典」として伝承され続けてきたのかは紐解けないのではないかと思います。
清和天皇の女御となった藤原高子と氏の長者である藤原基経との確執。
高子は恐らく聖徳太子とも比べられた叔父である藤原良房の薫陶を強く受けていたのだと思います。
良房が何故聖徳太子と比べられたのかは、自分の子孫を残すことにこだわらない政治的な道を指向したからだと思います。
高子が、基経が一族の繁栄を第一に考えざるを得なかった立場とはどうしても相反する使命感を持っていたであろうことは、想像に難くありません。
藤原北家が権力の中枢に居続けられたのは、この良房が鎌足以来の「乳母」としての使命を持ち続けていたからであろうと私は思うのです。
現在、一般的には藤原鎌足は男性と見なされ、鏡女王を妻としたとも考えられています。
鎌足は鏡女王の子供を養育していますが、私は鎌足は女性であったろうと考えます。
こうした考えにまでなってしまうと、あまりに突拍子もないことのようにに思われるかもしれません。
私も韓流ドラマで王の身辺警護をする近衛兵を女性の集団として描いているのを初めて見た時には、ナンセンス極まりないと思いました。
ただ、武力が優先され、権謀術数がうずまく政争の渦中において、王たる者を身近く守る者を女性の集団で固めることは、利害関係がこじれて敵対しかねない男性の集団より、ある意味理にかなったこととも言えるように思われます。
また、乳母という点で考えた場合、近世になり徳川将軍家の大奥を取り仕切った家光の乳母が「春日局」とされたことは注目すべきでしょう。
この称号は朝廷から賜ったものです。
「春日」という称号が与えられたことの意味は重要です。
春日局は斎藤利三の娘、福です。
斎藤氏は「藤氏」であり、乳母となって出仕する時、福は夫とも息子とも家族の縁を切ってその職務に就いていることは見逃せません。
世阿弥と能楽が背負ったもの
藤原氏、殊に北家が背負ったものを考察しました。
また、「若」という呼称は「女性」を意味するであろうと考えますが、そこに深く切り込むのは別の機会にします。
ここまで説明をしてくれば、私が世阿弥を女性と見なしていることは分かって頂けると思います。
観阿弥は男性であったと思います。
観阿弥が義満のそば近く仕えることは出来なかったでしょう。
世阿弥が義満のそば近く仕えることが出来たのは、女性であり、また義満の子供を養育する立場を与えられることが前提としてあったからではないかと推測します。
別の所で書きましたが、清和源氏の棟梁は女性でなくてはなれません。
正確には歴史的にそうなっていったのだと思います。
中央と結びつきを持とうとするのであれば、決して天皇と敵対する勢力になってはならなかったろうと思います。
そうやって歴史を積み重ねてきたのがこの日本という国なのだと思います。
義満も当然女性であったと思います。
一休さんでお馴染みの一休宗純は、後小松天皇のご落胤と伝えられています。
一方、一休さんは義満の子であるとの俗説もあります。義満を男性と捉える今の考え方ですと、義満の子であるならば後小松天皇の子ではなく天皇の后との間の子供であるとの説まで出てきます。
ただ、義満が女性であるのであれば、この俗説にも信憑性があることがわかります。
世阿弥の子とされる観世元雅はおそらく義満の子であったろうと私は推測します。
父が誰かはわかりませんが、観阿弥が楠正成の姉妹の子とも伝えられていますから、南朝方に関係のある人物であったろうことは容易に想像されるところです。
元雅の死は、それは本当に亡くなったのか亡くなったことにしなければならなかったのかはわかりません。
ただ、彼の行動が政治的に危険視された可能性は否定できないでしょう。
もしくは、もっと自由に行動出来る道を求め、新天地を目指したとも言えるかもしれません。
能楽の歴史を考えたとき、能楽自体が「古典芸能」として大成して時、「政(マツリゴト)」と切っても切り離すことは出来ない芸能であったことは否定できません。
観阿弥・世阿弥だけでなく、能楽そのものが古典である「物語」の数々と同じように、「政」を洞察していく使命を背負ってきた、背負わざるを得ない芸能だったのであうと、私には思われます。
2026.2.20
