【企画・心構え】「あなたの記事で傷つきました」と言われたら
どもです。白鷺翔です。
今回は「記事を投稿する」という行為をすることにより、100%は避けることは出来ない事柄として
「あなたの記事で傷つきました」
と言われた時のことについて、書いていきます。
「傷ついた」という言葉は、とても強い言葉です。
言われた側は、自分が悪いことをしてしまったのではないかと不安になります。
けれど、そこで即座に「自分が悪かった」と決めてしまう前に、一度立ち止まってほしいと思っています。
書き手が負う責任
白鷺翔が考える「書き手が負う責任」は、大きく2つです。
言葉の影響範囲を考えること・影響された存在を認識すること
これだけです。
自分の言葉がどこまで届き、誰を巻き込み、どんな意味に読まれうるのか。
それを、自分の書く文章全てに対して、一度考えるべきと思っています。
言葉は、書き手の意図通りだけに届くわけではありません。
だからこそ、書き手は「そういうつもりではなかった」という事態が往々にして発生します。
極力その言葉が出てこない状態に整えるのが、書き手の責任と考えます。
また、記事によって影響された人がどのような反応を示すかを「認識する責任」もあります。
感情が動いた人、考えが生まれた人、距離を取った人、様々な方がいるでしょう。
それらを「自分の行った行動の結果である」と認識するという意味です。
ただただ「そう受け取った人がいる」という事実を、なかったことにしないという意味です。
ただし、ここでいう「認識」とは、謝罪すること・相手の解釈を認めることではありません。
それはまた別に、書き手が「選ぶ権利」を持つ領域となります。
読み手が持つ権利
白鷺翔は、「読み手が持つ権利」は以下の通りであると考えています。
記事を読むこと
読んだうえで感情が揺れること
読んだうえで考えが生まれること
読むのをやめること
距離を取ること
自分には合わないと判断すること
読み手の中に生まれた感情や考えは、あくまでも読み手自身のものです。
どのようなプラスの感情・思考であっても、どのようなマイナスの感情・思考であっても、それそのものを誰かから否定されたり非難されたりするべきものではありません。
一つ、グレーにあたるものとして
「記事の著者にコメントを送ること」
があります。
コメントを送る人は、読み手としての権利を持っています。
一方で、「コメントを書く」という操作を行った時点で、その人もまた言葉を発する側になります。
そのため、記事の著者にコメントを送る場合には、書き手としての責任も生じることを認識すべきだと考えます。
つまり、読み手の感情や考えは自由です。
しかし、それを他者に向けて言葉にした瞬間、その言葉にもまた影響範囲が生まれます。
読み手が持たない権利
一方で、明確に「読み手が持たない権利」も存在すると考えています。
それは
「書き手の領域まで踏み込む権利」
です。
たとえば、
求められていない批評を、相手に直接受け取らせようとすること
自分の感情や解釈を根拠に、書き手に行動を要求すること
自分の解釈を事実として押し付けること
書き手の意図を断定すること
責任の範囲を広げて背負わせること
人格批判をすること
公開停止、修正、謝罪を当然のように求めること
自分の感情を理由に、書き手の表現そのものを否定すること
読み手は、感じる自由を持っています。
けれど、感じたことを根拠に、書き手を動かす権利を持っているわけではありません。
「傷ついた」と「傷つけられた」は違う
この2つは明確に異なります。
傷ついた = 読み手の内側で起きた感情
傷つけられた = 書き手の言葉や行動に責任を問う表現
この通り、似たような意味ではありますが、存在する場所が明確に別物となります。
書き手に求められる責任は、
・言葉の影響範囲を考えること
・影響された存在を認識すること
この2つだけです。
つまり「傷ついた人がいた」という事実の認識までは書き手の責任であり、それ以降の行動はあくまでも「書き手が選ぶ事」です。
読み手が「傷ついた」として、その感情のみを根拠に書き手を「傷つけられた」と加害認定し、謝罪を要求することは越権となります。
「傷つけられた」という言葉は、とても強い言葉です。
それは単に「私は傷ついた」と伝える言葉ではありません。
「あなたの言葉には、私を傷つけた責任がある」と告げる言葉です。
つまり、「傷つけられた」と声高らかに叫ぶことは、
「この書き手の言葉は、私に対する加害である」
と触れて回るのと同義となります。
だからこそ、その言葉を使うなら、相応の根拠と覚悟が必要だと考えます。
書き手が、読み手が傷ついたと認識したとき、書き手に生じるのは「次にどのような行動を取るか」を「選択する権利」です。
・記事の内容を変更する
・記事を削除する
・謝罪する
・無視する
などなど
これらの行動の内、どのような行動を取るかはあくまでも書き手が選ぶことです。
そして書き手がとった行動によって、どのような影響が出るかはまた「認識する責任」が生じます。
これが「責任」です。
越権された時の対応方針
この通り、「責任」と「権利」は似てはいますが冷静に切り分ければ明確に分類可能となります。
コメント・他記事にて越権行為を目撃することもあるかもしれません。
しかし、あくまでも書き手に存在する責任は「認識する」ところまでです。
例えそれ以上の何かを求められたとしても、
「それ以上は私が決めることです」
と、書き手としての権利を主張されて問題ありません。
事実と思考と感情を分離しながら受け止めなければならない事柄であるため、高度なことを記載している自覚はあります。
ただ、これらが頭の片隅にあることで、皆さんの心が少しでも守られたらと思って書かせていただきました。
