土佐文旦「愛」にあふれて!vol.4 植え付けられた経緯編
このお話しの内容は、前回の文章内容と必ずしも繋がって無い場合があります。気ままに書いてますので、ご了承下さい。
「なぜ、土佐文旦を植えたのか?」
少し昔の話になりますが、白木果樹園に最初に土佐文旦が植えられたのは、今から約70年以上前、1950年前後頃のことです。
当時、私(現園主・5代目)の曽祖父である初代・白木義行が、10本ほどの土佐文旦の木を植えました。

その後、息子2代目・義喜(祖父)が太平洋戦争で亡くなり、まだ母が5歳だた時、祖母・衛子のもとへ、婿養子として義英(3代目)が白木家に入ります。義英は元々大工でしたが、農地を守るため、大工の仕事をしながら温州みかんや八朔、キンカンなどの柑橘を育てていきました。
さらに、義喜の娘・久子(母)が19歳のとき、私の父である丈夫(4代目)が新たに婿養子として、昭和36年に白木家に入ります。
当時の白木家は、裕福な農家ではなく、ごく小さな貧しい農家のひとつに過ぎませんでした。しかし、2人の婿養子——義英と丈夫は、「白木家に入ったからには、家を繁盛させたい」という思いで力を合わせて農業に励みます。
本格的に土佐文旦に力を入れ始めたのは、昭和36年頃から。父と義祖父は山を切り開き、段々畑を作っては、次々と土佐文旦の苗木を植えていきました。土地が限られていた白木家では、10歳しか歳の離れていない2人の婿養子が、まさに“二馬力”で作業に取り組み、土佐文旦の栽培を一気に拡大させていきました。

数年後には、約1.5ヘクタールの果樹園が完成。土佐文旦や八朔を中心とした果樹栽培が本格化していきます。
では、なぜ温州みかんではなく、土佐文旦を選んだのでしょうか?
それには理由があります。
父が四国内のみかん産地を視察した際、愛媛や和歌山などの他県では、国の「パイロット事業」により、大規模な山の開発が進み、ブルドーザーで山を切り拓いて大量の温州みかんが植えられていました。
その様子を見て父は、「このままでは温州みかんが大量生産され続ければ、いずれ供給過剰になり、小さな産地である高知は価格競争に飲み込まれ、淘汰されてしまうだろう」と危機感を抱いたのです。
そこで、将来性のある柑橘を模索する中で「土佐文旦」の味が大好きだった父が、可能性を感じ白木果樹園では、その栽培に注力していくことを決断しました。
---続く
20251012
