土佐文旦「愛」にあふれて!vol.7 成長期編②
この記事は、園主が体験経験或いは聞き伝えの中から、覚えている物を選りすぐりながら、不定期に投稿しております。文献なども参考にしておりますが、園主の視点ても考察しております。
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②の続きから、
1979年、第二次オイルショックが発生しました。生産量よりも消費が上回るようになり、供給不足により価格は年々高騰していきました。
その中で、白木果樹園の土佐文旦は市場で高値を記録し、ついに1箱8,000円に達しました。この価格は農家の間でも話題となり、土佐文旦の木を植えるために山々が次々と開墾されていきました。また、当時は温州みかんの価格暴落も重なり、文旦へと転作する農家も増加していきました。
県の統計では、当時の文旦の生産量は約1,000〜1,500トンとされていますが、実際には700〜1,000トンほどだったのではないかと感じています。

1976年と1981年には2度の寒波が襲い、土佐市戸波地域では文旦の生産量が伸び悩む時期がありました。しかし、この2度の不作が逆に価格高騰を後押しする形となりました。
私が高校を卒業して家業の農業を継いだ際、最も印象に残っているのが1981年の大寒波です。これは「vol.1」でも触れた通りですが、戸波地域では大きな被害があり、特に宮ノ内地区の文旦畑は壊滅的な被害を受けました。
1980年代に入ると、文旦の価格はさらに高騰していきます。この頃の生産量はおおよそ1,200〜1,500トンでしたが、需要の勢いは止まらず、寒波による減産もあって価格はついに1箱9,000〜10,000円に到達しました。
この高値を牽引したのは、白木果樹園の文旦でした。
当時、私は就農してまだ数年の若造でしたが、市場に文旦を持ち込むと、青果業者や店主の方々が20歳過ぎの私に熱心に話しかけてきました。
「お前んとこの文旦、今日はワシが買ったぞ!」
「明日も同じくらい持ってくるか?」
そんな風に、出荷情報を得ようと、あちこちから声がかかるほどでした。正直、少し有頂天になっていたのも事実です。
その頃、文旦の供給量は足りず、新たな産地や農家の存在が次々に明らかになっていきました。
その中でも注目されたのが、宿毛地域の台頭です。
当時の宿毛の文旦生産量はおそらく200〜300トン程度で、主に温州みかん、夏みかん、甘夏などが中心でした。宿毛でも文旦が栽培されていたことを知ったのは、この頃が初めてでした。
宿毛産の文旦は、かつては1箱2,000円ほどでしたが、やがて5,000〜6,000円の高値がつくようになり、「文旦は儲かるぞ!」という声が広がっていきました。
宿毛では宇須々木周辺の山地が中心で、当時の視察でもほんのわずかな面積だったと記憶しています。
この時期には、高知県内のさまざまな小規模産地が文旦栽培を始めました。
1970年代後半から1980年代にかけて、須崎市、春野町、伊野町、佐川町、越知町、仁淀村、吾北村、高知市、安芸市など、県内各地の市町村で文旦の栽培が広がり、ブームとなりました。
当宮ノ内地区でも、私が就農した当初は、山々にはまだ八朔や温州みかんが主流として残っていました。しかし、やがて「我も我も」と開墾が進み、後継者のいない温州みかん畑を買い取って土佐文旦の苗木を植える農家が増えていきました。
ただ、この頃もなお、国の補助金は温州みかんや八朔にはありましたが、土佐文旦には適用されていませんでした。
1985年からのバブル景気により、文旦ブームはさらに加速します。1985年〜1995年頃には、1箱10,000円だった価格が11,000円、12,000円と上昇を続け、ついには13,500円という過去最高値を記録しました。
この記録は、現在に至るまで破られていません。
当時は、白木果樹園の文旦と、春野町の「◯松」こと松田さんの文旦が、日替わりで市場の最高値を争っていたことをよく覚えています。
この時代の高値は文旦に限らず、ポンカン、温州みかん、新高梨など、高知を代表する果物全体に広がっていきました。
また、同時期に「徳谷トマト」も登場し、フルーツトマトとしての人気が高まったのも、バブル景気の追い風によるものでした。
農産物に限らず、土地価格の高騰と好景気によって、お金の流れが多方面に拡がり、農作物にも高値安定の時代が到来しました。
そして、土佐文旦の人気はますます高まり、供給が追いつかなくなっていきました。
農家は「今こそチャンス」とばかりに開墾を進め、栽培面積を広げていきました。バブル景気も終盤を迎える1990年代後半には、ようやく右肩上がりの消費に生産が追いつくようになっていきます。
