土佐文旦「愛」にあふれて!vol.5 創世紀編
この記事は、園主が体験経験或いは聞き伝えの中から、覚えている物を選りすぐりながら、不定期に投稿しております。文献なども参考にしておりますが、園主の視点でも考察しております。
土佐文旦の創成期!
土佐文旦が最初に苗木として農家に植えられたのは、**昭和18年(1943年)**のことです。
まだ太平洋戦争の真っ只中。当時、宮地文也氏によって、土佐市宮ノ内地区に植え付けられたのが始まりでした。
当時の日本では、国策として食糧の増産が求められ、お米やイモ、粟(あわ)や稗(ひえ)などの栽培が推奨されていました。そんな時代に、文旦のような“嗜好品”の栽培など、とても許されるものではありません。
もし見つかれば、憲兵に罰せられる可能性さえある、**いわば“禁じられた果実”**だったのです。
それでも宮地氏は、人目を忍び、密かに文旦を育てていたといいます。
(これは、宮地正憲氏の証言によるものです)

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戦後の広がりと農家の挑戦
戦後になると、宮地さんをはじめ、物珍しい作物に惹かれた数人の農家たちが、何度か県の果樹試験場から配布された文旦の苗木をこぞって植え始めました。
その結果、昭和20年代後半には、少しずつ生産面積も生産量も増え始めます。とはいえ、まだまだ配布の数は知れた事、当時の収穫量はまだわずか数百キロ程度でした。
前回(vol.4)でも触れましたが、昭和20年代から40年代にかけては、国の政策により温州みかんの大増産が進められていた時期です。その一方で、文旦の栽培は国からの推奨もなく、“興味本位”で始める農家が多かったと考えられます。
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市場に受け入れられるまで
当時、文旦を栽培しても販売先がなく、農家は仕方なく農協に持ち込みます。しかし、農協ではこう言われたそうです。
「温州みかんなら国が推奨しているので扱うが、そんな聞いたこともない柑橘は持ってくるな!」
「持って来ても売る事は出来ないので、自分で売る様に!」
文旦は、農協にも拒否され、市場で売ることさえままなりません。
それでも宮地氏はあきらめず、自転車の荷台に文旦を山積みにして、舗装もされていない道で、当時はトンネルが出来て無かった朝倉山を越えて、高知市内の青果店へ向かったといいます。
宮地さんが、たどり着いたのが、高知市上町にある「山長」という青果店(現在も営業中)でした。ここで文旦を扱ってもらうことになります。
しかし、数日後に売れ行きを確認すると、店主からはこんな言葉が返ってきました。
「味を知ってもらうために、1個売るのに1個丸ごと試供品として出さないとダメ。こんなの、全然儲けにならん!」
それでも、「あの文旦、おいしかったからまた欲しい」というお客様からの声が徐々に届くようになり、文旦はまるで亀のようにゆっくりと、売れ始めていきました。
やがて、他の市内の幾つかの青果店でも取り扱われるようになり、少しずつ人気が高まって行きました。
20251016
