見出し画像

人間らしさ(2)

前回はこちら。

ナラティブ

私たちの思考・認知の様式としてのナラティブとは何で、どのような特徴があるでしょうか。ナラティブは物語と訳されますが、様々に使われることによって、その意味は拡散しています。ここでは私なりナラティブについて、考えてみます。

前後即因果の誤謬の体系的濫用[9]

ロラン・バルトは、物語の構造分析序説[10]のなかで、

物語とは、スコラ哲学が、そのものの後に、故に、そのものによって、post hoc ergo propter hocという定式を用いて告発した論理的誤謬の組織的応用ということになろう。この定式はたしかに「運命」の銘句ともなりうるものであって、物語とは要するに運命の《言語》(ラング)に他ならない

と述べました。前後即因果の誤謬の体系的濫用[9] と千野帽子は訳しています。
post hoc ergo propter hocとは前後即因果の誤謬といわれます。前後即因果の誤謬とは、前後関係があるときに因果関係と誤認してしまうことです。たとえば、注射をした翌日に下痢をしたとします。もちろん注射がされた薬剤に対する反応としておなかを壊すこともあり得ます。しかし、本当の原因は、受診した医院の待合室で風邪をうつされたのかもしれませんし、前日に食べた刺身が起こした可能性もあります。入学試験に合格したのは塾の先生のおかげ、と思っているけれども、実際には塾に行かなかったとしても合格した可能性はありますし、様々な要因の一つとして塾に通ったことがあるかもしれないのです。

因果関係があるのか、それとも偶然の前後関係なのかは、もし試行を繰り返すことができれば、ある程度確かめることができるかもしれません。注射であれば、注射をするたびに同じ現象が起きるか、考えられるほかの原因を取り除いた環境でも同じ現象が起きるか、他の人でも同じ現象が起きている人がいるか、それを説明する根拠となる現象があるか、などです。それでもなお、因果関係がある可能性が高いということは言えても、100%原因であるということは難しい場合が多いと思います。しかし、試行を繰り返せない場合は、調べることはできません。入学試験の場合であれば、塾に通わなかった場合を検証することはできません。すでに通ってしまっているからです。同じ塾に通って、別の試験を受けてみたところで、元の試験に受かったことを説明する根拠にはならないでしょう。

私たちは物事の間に、何らかの因果関係を見つけようとします。あるいは、前に起こったことを後に起こったことの理由にしようとします。前後関係に何らかの理由をつける、“理由関係”を見出すことがナラティブの特徴と言えるでしょう。

自然科学的な現象について因果関係を証明する場合には、試行回数を増やして、統計的に解析することができます。これでも、相関関係を因果関係と誤認する可能性は排除しきりませんが、少なくとも検証が可能です。しかし、人生は一度きりです。同じ試行を同じ条件で繰り返すことができないことがほとんどです。それでも過去から学び、未来につなげるためには、理由関係を見出すことが必要だったと考えられます。


私たちの思考様式には物語があり、物語はたいてい、前後関係を因果関係として認識することで成り立ちます。科学的な因果関係は言えなかったとしても、一回性の人生にとっては誤謬ではないのです。


固有名に基づく理解

哲学には、固有名に関する問題があるそうです。

固有名は決してその「確定記述」、つまり定義付けの束へと解消できない。 例えば名「アリストテレス」を私たちは通常、プラトンの弟子であり、「自然学」を著し、アレクサンダー大王を教えた人物を名指す記号として用いる。 したがってそこでは 固有名の指示対象は、それら諸性質の記述 (確定記述)の束により決定されると考えられる。しかしそれは間違っている。 何故なら私たちは実際には、固有名を支えるひとつひとつの確定記 について、その反実仮想 (可能世界)を語ることがつねにできるからだ。 例えば私たちは、「ア ストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかも知れない」と矛盾なく語る。[11]


ある固有名を、いくつかの記述でもって定義したとき、後にその事実が否定されたとしても、固有名が指し示す対象が変わることはありません。逆に言うと一般名では、記述された内容が変われれば、指し示す対象は別のものです。犬という語について、哺乳類であるとか4つ足であるとか人類と古くから共存していたなどと記述したとして、実は哺乳類でなかったとしたら、それはそれまでの犬とは別の何かになります。


固有名はじつに物語的に感じます。物語ではそれまで語られていたことが、ある時点で逆転したとしても、理由が見つかるのであれば物語が別の物語に変わることはありません。これは物語の結末が常に開かれているから、と私は考えます。

良い物語とは、終わった後にロスが生じると私は定義しています。このロスは、テキスト化されたり放映されたりした物語が終わったあとにも、そこで描かれたキャラクターのその後が、まだ続いている気がして、まだ続いているはずなのに、もう“会えない”ときに、喪失感が生じるのだと思います。物語が形式的に終幕をむかえても(作者が物語を終わらせても)、キャラクターたちは生きて動き続きの物語を紡いでいるような感覚。アニメや漫画の二次創作がファンの手によって盛んに行われているのは、喪失感の埋め合わせであると同時に、物語の結末が閉じていない、開かれているためだからだと思います。物語が開かれているということは、固有名が確定記述の束に還元されていないことと相似しているように思います。物語とは固有名を記述する形式であり、固有名とは物語を持ち、ただ一つのものとして存在する事象ではないか、と思います。


Brunerのナラティブという認識モデルについて、連想するのは、コンピュータのプログラミングにおける変数の型です。Cなどの比較的初期の言語では、変数を設定するときにあらかじめ変数の型を宣言しておく必要がありました。これは、当時のマシンでは変数に割り当てられる記憶領域(メモリ)が小さく余裕がないため、確保する領域をできるだけ小さく確定しておく必要があり、宣言された変数の型に必要な分だけメモリを確保するという内部的な手続きが必要でした。現在広く使われているpythonなどでは、変数の型を宣言する必要はありません。Python側で自動的に変数のタイプを判別するからです。私たちの認知システムも、変数の型を自動的に割り当てているのではないかと考えています。一度固有名として割り当てられれば、変数へ物語を記述することは、無制限に続けられるのではないかと。これは、例えば記憶術では、物語を続くと覚えやすいということが言われていることから考えました。円周率の暗記の達人は、語呂合わせで「物語」を作っていると聞いたことがあります。物語化すると覚えやすいのは、物語という認識の“変数型”にメモリの制限がないからではないかと考えます(全く検証できない空想です)。


固有名がナラティブを持つ認識の形式とすると、この形式が必要なのはなぜかという疑問もわきます。固有名やナラティブと同じように、変化があっても別のものとみなされず、同一性を保持し続ける概念に、“現在”があります。例えば、今この瞬間の“現在”と、5秒前の“現在”は違うでしょうか。時間が流れた分違うもののはずですが、もし同じものでないとすると、“現在”は連続しないものになります。今この瞬間の“私”と5秒前の“私”とは、時間が異なっていても同じであるように、“現在”も、今この瞬間と5秒前とで、同じであって、よいはずです。しかし、もし現在が同じとするなら、時間は進まなくなってしまいます。各時刻での現在が、異なるとすると時間の連続性が失われ、同じとすると時間流れが途絶えます[12]。これは固有名やナラティブと同じような性質に思えます。あるいは、固有名やナラティブには、時間の流れが内包された概念であり、それゆえに、確定記述の束に還元されず、完結することなく常に開かれているのかもしれません。

クラインマンの臨床人類学から、病気とは何かを考えてきました。診断としての病気は、クラインマンで言えば疾病です。病いとしての病気に、あるいは患者さんやその家族が持つ説明モデルの方に、その人らしさが宿っています。ですから、患者さんからの視点で言えば、自分のナラティブに病気と治療がうまく組み入れられた時だけ、それらを受け容れることができるのでしょう。

現代日本では、宗教的な要素を含む伝統的な医学治療は、大きく力を失っています。伝統的な医学にかわって、似非医学が台頭してきているように感じるのが気になるところです。自然科学としての医学的な雰囲気をまとう、自然科学でない医学は、本来の医学の信頼を損ねる可能性があります。伝統的な治療から引継ぎ、患者さんのナラティブを受け持つことが、もしかしたら精神医学に求められているのかもしれません。これは、科学の対象としての生物らしさと対比される、“人間らしさ”、医学の場における人間らしい扱いに通じるように思います。

もしそうなったとすると、精神医学のたたずまいは非科学的に映りそうです。精神医学は医学とみなされるのかという不安も精神科医としての私は感じています。


人間らしさ

病気とは、健常な社会から疎外されやすい集団から、社会に再度組み込むための制度の側面があって、何を正常とみなすかによって変動しています。ある症候・現象・行為を、疾患とするかどうかの枠組みから、診断の拡散と収束がおこり、疾患の範囲も変動していました。さらに患者さんにとっても、主観的な体験としての説明モデルによって、それを病気とみなすかどうか、どのような病気か、変わってきます。医学は、主観をもって一回性の人生を生きる人間を対象にする以上、再現可能な生物としてのヒトを対象とする生物学の内側だけにとどまることができません。人間らしく扱うこと、人間らしく扱ってもらえたと思えることが必要です。


「人間らしくあつかってもらえた」と患者さんが感じるためにはどのような方法が必要なのでしょうか。人間らしく扱われたと患者さんに仕向ける、ということは、患者さんを操作しようとすることであって、それは支配につながります。患者さんがどう思うかを操作しようとせずに、まず医療者が人間らしく扱うということが必要です。診断名というラベルを貼って、患者さんを分類に組み入れて、統計学の対象にする前に、固有名を持つ人間として患者さんに出会う必要があるでしょう。ラベルを貼るということはしばしば強力で、ラベルは貼るよりきれいに剥がす方が難しいのです。まず人間として出会い、人間として認識すること、人となりを知ることが必要です。精神科では、主に初診の時に、患者さんのこれまでの経歴を詳しく聞ききます。病気と直接は関連がないような生活歴、生活史のなかに、物語<ナラティブ>が生じるでしょう。

医学は、病気がどのようなものであったとしも、困難に直面したときに社会から人間らしく扱われるための枠組みである必要があります。精神科のみならず身体的な病気を扱う医学であっても、対象が人間である以上、文系的なナラティブの視点が必要です。患者さんは固有名を持ち、ほかに同じ存在はないという複数性持つ、唯一無二であることを実感できるかどうか。

逆に、診断名によって分類し、分類されたヒトを同じものとみなす、統計学・生物学的な姿勢は、固有名を奪います。診断された病気の疾病としての側面だけを診ようとするとき、医学は人間性を失うかもしれません。治療において最も大事なことは、治ることです。治るための方法論として、生物学的知識は医学の中核にあります。生物学的統計学的な研究の成果を生かすことは、医学の中核であることには変わりませんが、臨床の場では、直接患者さんと接するという意味で、学問や研究から少し距離を置き、より人間らしい、患者さんとの出会い方が問われるでしょう。ヒトと人間との止揚の過程に、生物学を中核としながらもそれとは異なる、医学の本質があると思います。

[9]千野帽子. 「人はなぜ物語を求めるのか」. 筑摩書房. 2017

[10]ロラン・バルト著. 花輪光訳. 物語の構造分析. みすず書房. 1979

[11]東浩紀. 「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて―」. 新潮社. 1998

[12]熊野純彦. 西洋哲学史 近代から現代へ . 岩波書店. 2006

いいなと思ったら応援しよう!