「安息日を覚え、聖としなさい」=あなたの休日を聖としなさい?
※この記事は、特定の教派や信仰理解を否定・擁護することを目的としたものではありません。旧約聖書・新約聖書に共通する「安息日」という教えを、現代社会の現実に照らして考察する、一つの思考実験です。信教・思想・良心の自由を尊重した上でお読みください。
はじめに
前回の記事では、福音派的なキリスト教の前提をいったんそのまま受け取り、それを社会全体に当てはめた場合、どのような教会像が論理的に導かれるのかを、思考実験として考察しました。
その中で特に焦点を当てたのは、もしも「すべての人が教会に集うことが望ましい」と考えた場合、現代社会の労働構造とどのような緊張関係が生じるのかという点でした。
具体的には、
人によって休みの曜日が異なること
不定休やシフト制という働き方も一般化していること
日曜日に必ず休めるとは限らない現実
を踏まえた上で、
曜日ごとに異なる教会共同体を想定する案
一つの地域教会が複数曜日に礼拝を行う案
といった可能性を検討しました。
その思考を徹底していくと、結果として、「地域分散型で、複数回の集まりを持つ教会構造」が論理的に導かれ、それが歴史的なカトリック教会の在り方と、構造的に近いものである、という結論に至りました。
しかし、ここで一つの問いが残ります。
そもそも、私たちはなぜ、「特定の曜日に集まること」をこれほど強く前提として考えているのだろうか。
この問いをさらに掘り下げていくと、最終的には、十戒にあるあの言葉に立ち返らざるを得ません。
「安息日を聖とせよ」。
この記事では、前回の考察で扱った「曜日ごとの教会参加の可能性」という問題を踏まえつつ、この戒めそのものを、改めて問い直してみたいと思います。
それは、
安息日とは、特定の曜日を指す言葉なのか
それとも、時間を神のために聖別するというような原理なのか
もし後者だとするならば、現代社会においてどのように理解され得るのか
という問いです。
前回の記事が、教会構造の側から曜日問題を考察した試みであったとすれば、この記事はその続編として、神学的・聖書的な側から、同じ問題を見つめ直す試みだと言えるでしょう。
1.旧約聖書における安息日:曜日と創造の記憶
旧約聖書において、安息日は明確に「七日目」と結びついています。
神は六日間で天地を創造し
七日目に休まれた
それゆえ、人もまた七日目に労働をやめ、神を覚える
ここで安息日は、単なる休日ではありません。
被造物としての人間が、創造主を覚える日
労働によって自分の在り方を絶対化しようとしないためのブレーキ機能
共同体として、同じリズムを共有するための制度
こうした意味を持つ、神学的な教えと考えることも可能です。
この段階では、曜日(七日目)が重要な意味を持っていたことは否定できないようにも思われます。
2.新約聖書における変化:キリストと「主の日」
しかし、キリスト教の成立によって、状況は変化します。
キリストは、
金曜日に十字架で死に
日曜日に復活した
と信じられてきました。
この出来事を中心として、初代教会は「週の初めの日」に集まり、礼拝を行うようになったと言います。こうして、日曜日は「主の日」と呼ばれ、礼拝の中心的な日として定着していきました。
結果として、
旧約聖書的には、土曜日が安息日
キリスト教的実践においては日曜日が礼拝日
という構図が生まれます。
ここで重要なのは、安息日の役割が、曜日を移しつつも存続したという点であると考えます。この事実は、次の問いを私たちに投げかけます。
もし安息日の曜日が変わり得るのだとしたら、安息日を安息日たらしめている本質は、どこにあるのだろうか。
3.安息日は「曜日」なのか、「聖別」なのか
この問いを突き詰めていくと、安息日の本質は、次のような要素に集約できるようにも思われます。
労働を止めること
人が有限な存在であることを思い出すこと
神を覚えること
時間を神のために区別すること
つまり、安息日とは「特定の曜日」そのものというよりも、安息しつつ、時間を神に向けて聖別するというような事柄にこそ重心があるのではないでしょうか。
もしそうだとするならば、「安息日を覚え、聖としなさい」という戒めは、次のようにも読み替えられる可能性があるのではないでしょうか。
あなたに与えられている休みの時を、神を覚えるために聖別せよ。
これは、必ずしも従来の理解を否定するというようなものではないようにも思われます。むしろ、戒めの核心へと立ち返ろうとする試みと言えるのかもしれません。
4.現代社会が突きつける「曜日問題」
ここで、現代社会の現実に目を向けてみます。
人によって休みの曜日が異なる
日曜日に働かざるを得ない人も多い
信仰共同体においては、安息日に礼拝に参加できないことが、不信仰の故と思われてしまう可能性も有り得る
もしも「安息日=日曜日」と厳密に固定してしまうとするならば、信仰共同体に参加したいと願うような人が社会構造のゆえに制度的に周縁へ追いやられてしまうというような事態も生じかねないと考えることができます。
これは、「安息日を覚え、聖としなさい」という教えが、本来目指していた姿と考えられるのでしょうか。
5.パウロは「日」について、何と言っていたか
ここで、新約聖書の中でも、特に重要な一節に目を向けたいと思います。
パウロは、初期教会の中で実際に起きていた「日をめぐる違い」について、次のように語っています。(『ローマ書』14章5節〜6節を参考)
特定の日を他の日より重んじる人がいる
どの日も同じように重んじる人もいる
しかし、どちらも「主に対して」そうしている
ここで注目すべきなのは、パウロが、正しい曜日を決めようとしていないこと、どちらかの立場を断罪していないこと、判断の基準を「主に向かう良心」に置いていることです。
パウロにとって問題だったのは、「どの曜日が正しいか」ではなかったと見ることができます。むしろ、「日をめぐって互いを裁き合うこと」そのものだったと言えるでしょう。
この視点に立つならば、「安息日をどう守るか」という問いは、単なる曜日による問題ではなく、信仰と良心の向きの問題として再配置されているようにも見えてきます。
6.「あなたの休日を聖としなさい」という仮説
ここまでの流れを踏まえると、次のような仮説も浮かび上がります。
「安息日を覚え、聖としなさい」とは、あなたの生活の中で与えられている休みを、神の中にあって区別しなさい、という呼びかけであるとも考えられるのではないでしょうか。
この理解に立つならば、
日曜礼拝
平日礼拝
家庭集会
小規模な祈りの集まり
といった多様な形は、単なる妥協ではなく、安息日の精神を現代社会に実現しようとするための工夫ではないかとも考えられます。
7.想定される反論と、その考え方
反論①「それでは共同体性が弱まるのではないか」
確かに、同じ時間帯に集まることは、共同体の形成において重要であると考えることは、自然なことでしょう。
しかし現代においては、同じ信仰、同じ祈り、同じ教えを共有する方法は、一つの時間帯に限られないと考えることも可能です。
複数回の礼拝や集会は、共同体性を直ちに解体するものではなく、むしろ包摂性を高める可能性を持っていると考えることも可能ではないでしょうか。
反論②「安息日は神の命令であり、個人の都合ではない」
この指摘は、重要なものと見るべきでしょう。
しかし、ここで問われているのは「命令を軽く扱うこと」ではないとも考えます。むしろ、神の命令を現代の現実の中でどうすれば本当に守れるのか、というような誠実な問いと考えることもできるのではないでしょうか。
仮に形式を守ろうと意識することでかえって内実を失ってしまうとするならば、内実を守るために形式を調整することは、必ずしも不忠実と言えないことであるようにも考えられます。
反論③「日曜礼拝が軽んじられるのではないか」
日曜日(主日)が、教会において中心的な礼拝日であることは、これからも変わることはないと考えることはできるでしょう。
しかし同時に、日曜に来られない人をも包むための、神に向かう道を複数に用意しようとするということは、日曜礼拝を単に否定することではなく、その精神を拡張することだとも考えられるのではないでしょうか。
8.曜日を超えて残るもの
こうして考えてみると、旧約聖書にある戒めから新約聖書の教えに移るに当たり、安息の日(礼拝の日)が土曜から日曜へと移行したという歴史、現代社会において休みが多様化しているという現実は、同じ方向を指しているのではないかと考えることもできるように思われます。
それは、神は、人を縛るために曜日を与えたのではなく、人を生かすために、休みと聖別のリズムを与えたのではないだろうかというような考え方です。
おわりに
この記事で提示した考え方は、あくまで一つの解釈にすぎないものです。しかし、十戒、新約聖書、パウロの言葉、現代社会の現実を並べて考えると、まったく根拠のない思いつきとも言い切れないようにも思われます。
「安息日を覚え、聖としなさい」という戒めを、曜日として守るのか、精神として生かすのか。その問いかけが、現代の教会と社会に、突きつけられていると考えることも可能ではないでしょうか。曜日を超えてなお残るもの。それこそが、安息の日の中にある本質と言えるのかもしれません。
