韓国キリスト教会を批判する信仰者の動画を観て──文化はどこまで福音に混じってよいのか
※この記事は、特定の教派・文化を断罪するためのものではありません。宗教文化の差異を理解しつつ、キリスト教の普遍性についてあくまで個人的な一つの見解を書いたものです。非常に繊細な問題なので、慎重に、動画を題材とし、独立した一つの考察をしたいと思います。信教・思想・良心の自由を尊重しつつお読みください。
1. はじめに:一本の動画が投げかけた問い
最近、小林拓馬さんのあるYouTube動画を観ました。
その内容は、「韓国キリスト教は異なる教えを取り込みすぎていて、聖書からかけ離れて、もはや別の宗教と化している」というような批判でした。
コメント欄も活発であり、これらのことに関して問題意識を持つというような視聴者の方も多いようでした。
その動画の中で、韓国キリスト教は、
儒教が混じっている
シャーマニズムが混ざっている
拝金主義が混じっている
歴史観と憎悪を混ぜている
といった内容が語られていました。
韓国キリスト教も多様なものであると考えられ、一部の現象をもって全体を語ることはできないものの、このことについて、良くない事実であると考えられるものについては、良くないものとも「混じりすぎ」と批判する考えについて理解できる面があります。
しかし動画を観た上で、このように考える部分もありました。
そもそもキリストの福音とは、どのような人にも接近しようとする教えではないか?
文化が混じることは、必ずしも不健全なことではなく、ある意味においては、必然のことではないか?
この記事は、そのことに関して、掘り下げる試みです。
2. 別の可能性に関する考察
ここで、あえて別の可能性について考えてみたいと思います。
キリスト教は「混じる宗教」というよりも「取り込もうとする宗教」のようにも感じられるのではないかということです。
およそ2000年の歴史を振り返れば、キリスト教は単に他文化を破壊する宗教というものではなく、他文化を大胆に吸収し続けてきた宗教であると考えることも可能です。
ヨハネによる福音書はギリシャ哲学を取り込んでいた
「ロゴス」という語はギリシャ哲学でも重要な概念でしたが、ヨハネ福音書はその語彙を新しい意味に再解釈してキリストを指し示した、とも理解されています。
中世神学はアリストテレス哲学を統合しようとした
トマス・アクィナスの神学は、アリストテレス哲学の概念や論理構造を積極的に取り入れ、それをキリスト教の枠組みの中で再構成したものと言われています。
司教制度はローマ行政の真似をしたとも考えられている
司教制度は、完全な模倣ではないにせよ、ローマ帝国の都市行政モデルの影響を強く受け、都市単位で司教を配置する形で発展したとも言われています。
宗教改革は印刷技術に強く関連していた
16世紀、ヨーロッパにおけるプロテスタントの宗教改革は、当時発展していた印刷技術と深く結びついており、その大量の出版物によって急速に広がったと考えられています。
このように、キリスト教は文化を用いて、その器を福音のために転用しようと努力してきました。
つまり、文化が混じること自体は「問題」というよりも、キリストの教えが含んでいる「本質」であるようにも感じられるのです。
3. 現代のキリスト教も「何でも使う」
現代のキリスト教を観察してみると、文化受容の姿勢はさらに多彩になっているように感じられます。
現代にあるキリスト教を眺めても、キリスト教は、何でも用いて、神、復活のキリストへの信仰を伝えようとしていると理解することも可能ではないでしょうか。
教会
聖書
神学(学問)
芸術(美術、音楽など)
本(文学、信仰書など)
科学技術(各信仰と相反しない部分において)
マンガ、アニメ
ラジオ
テレビ
インターネット
動画(YouTubeなど)
AI
これらすべてが福音を運ぶ要素になっているという理解も可能だと思われます。
そしてキリスト教は、この「何でも使う」という力によって、世界宗教になったと考えることができる側面があるようにも思われます。
4. では韓国キリスト教の「文化混入」は問題なのか?
批判的な声はこう言うでしょう。
「聖書と違う考え方が混じっている」
「シャーマニズム的すぎる」
「危険ではないか?」
確かにその意見も良く分かります。
単純にOKということは難しいとも言えるでしょう。
しかし、歴史的に見るとすれば、これはむしろ一つの自然な現象であるようにも感じられます。
キリストの教えに、文化や国民性が強く影響するのは、ある意味では当然のことであり、それによって信仰が広がるなら、一つの福音の目的が果たされていると考えることもできるように思われます。
5. 文化が混じるのは、あらゆる人に開かれた救いというキリストの意志の裏返しとも言えるのではないだろうか
ここで、パウロのある言葉を思い出します。
パウロはキリストを伝える姿勢に関して、このような言葉を語りました。
すべての人に対して、すべてのものになりました。
その意味で、このような意見が述べられることもあるかもしれません。
キリスト教は、万人にキリストの死と復活の福音を伝えようと努力する。
万人には、万人の文化がある。
だから様々な文化に寄り添い、包み込もうとする。
このように捉えることもできるように思われます。
「万人の救済を目指す」というキリストの意志を実現するためには、すべての文化と「関わる」必要があるようにも感じられます。
西洋文化
アフリカ文化
韓国文化
日本文化
土着文化
これらすべてと関係しようと努力する。
言い換えれば、文化の混入は「キリストがその文化を愛し、その中へ入っていく行為」の現れであるように感じられる部分もあるのです。
6. しかし、文化を残しすぎると「我の強さ」にも感じられる
ここにおいては、逆の視点も重要であると思われます。
また、ここでは、我という言葉については、自己保有物への望ましくない執着という意味において用いています。
元の文化、国民性を残しすぎて、それでも福音を語ろうとすることが、実は「本人の我」にすぎないというような場合もあり得る。
文化を尊重するのは、基本的に良いことであると考えられます。
しかし文化への「固執」は、福音とは別の要素であると考えられます。
文化を言い訳にして変わらない
文化に対して過度に執着する
文化を神聖視してしまう
文化を守る自分のアイデンティティが中心になる
こうなると、文化の受容ではなく、特定の文化への依存・文化絶対視になってしまうようにも思われる。
その場合、文化は福音の器ではなく、「我」の器になるように思われる。
このような見方も成り立つように思われます。
7. キリストの福音における真の文化受容とは「福音を目的とし、文化は媒介にすぎない」という姿勢ではないだろうか
ここで整理してみます。
健全な文化受容
文化は手段
キリストの福音が中心
キリストの万人への救済が目的
柔軟性と適応力がある
不健全な文化固執
文化が中心になる
キリストの福音が従になってしまう
変わらないための口実になる
「我」の強さが残りやすい
この差が重要であるように思われます。
8. おわりに
一本の動画は、「韓国キリスト教への批判」という切り口でした。
その意見は、同意できる要素もあるように感じられます。
そして、その動画へのコメントは百件以上のものがありました。
課題として見なす人が多いものでした。
しかし、文化と福音の関係は、もっと深いとも言えるのかもしれない。
キリスト教には文化を破壊するというよりも、包み込もうとする精神で歩み寄るという側面もある
万人を救うために文化に寄り添おうともする
文化の混在は単なる堕落ではなく、むしろ自然な現象ではないだろうか
しかし文化への固執は「我」の強さを表すとも言える
キリストの福音における真の文化受容は、キリストの精神を中心に据える姿勢ではないだろうか
こう考えると、韓国キリスト教の問題も、福音と文化の関係を考えるためのヒントになるようにも思われます。
