布教の熱心さを哀れむことはできるのか?
──エホバの証人とキリスト教の共通点から考える
はじめに
Xを見ていると、エホバの証人の布教の様子を見続けた上で「聖書好きは頭がおかしい」と語っているポストを見掛けることがありました。
その発言は、エホバの証人の「布教の熱心さ」や「聖書の教えを伝える姿勢」に対して向けられているものと考えられました。
もし哀れまれているものが、エホバの証人の「教理そのもの」ではなく、「聖書の教えを人に伝えることに熱心である」という点に限られているのだとすれば、果たして、それはエホバの証人だけに当てはまる話なのでしょうか?
布教はキリスト教の根本的特徴
キリスト教は、その誕生のときから「宣教的な宗教」だったと見ることが出来ると考えます。
イエスの弟子たちは、復活の証人として世界に拡がっていったとされています。
使徒パウロは、キリストを信じるユダヤ人として、ユダヤ人でない者にキリストの死と復活を宣べ伝えるために、迫害を受けながらも、各地を旅していました。
フランシスコ・ザビエルも、遠く日本まで命がけで布教に来ていました。
こうした姿はすべて「聖書の教えを伝える熱心さ」によって動かされていたものと考えることが可能だと思います。
つまり、布教に熱心であることは、聖書の教えそのものの本質であって、特定の教派や団体だけの特徴ではないと考えられると思います。
哀れみの矛先は誰に向かうのか?
もし「布教が熱心すぎるから頭がおかしい」とするのであれば、
エホバの証人だけでなく、
使徒パウロや他の弟子たち、
さらにはザビエルをはじめ、
歴史上のすべての宣教師
に対しても同じロジックで「頭がおかしい」と見なすことが可能だとも思います。
つまり、布教の熱心さを哀れむとするならば、結果的にキリスト教そのものを哀れむことになってしまうようにも思われるのです。
信仰者の立場から
キリスト教会の中にいる者として考えるとするならば、「布教に熱心である」という一点をもってエホバの証人を哀れむことはできません。
教えの中の重要な内容が異なってはいるものの、「救いに至るために聖書の教えを伝えるべきだ」という使命感においては、共通のものがあるように考えているからです。
信仰者にとって、布教の熱心さを哀れむことは、同時に自分自身の信仰の根幹──「キリストの死と復活を伝えること」──を哀れむことになってしまうように考えているのです。
おわりに
「布教に熱心すぎて頭がおかしい」と哀れんだり揶揄したりすることは可能なことだと思います。
しかし、その熱心さはキリスト教にとって普遍的な特徴であり、歴史を貫いてきた姿であるとも考えられます。
だからこそ、エホバの証人のその姿勢自体については、そのように扱うことが出来ないと考えています。
重要な教えが異なってはいるものの、むしろ、「なぜ同じ日本人がそこまでして伝えようとするのか」という問いに向き合うとき、キリストの教えの核心に触れることになるのかもしれない、とも考えています。
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