夜次元クジラは金魚鉢を飲む #31
31. 悪夢
湯気の煙る浴室でシャワーを浴びながら、波留は胸に揺れるペンダントを握りしめた。丸く尖った尻尾の先が手のひらに食い込み、降り注ぐ熱い湯とともに涙が流れ落ちる。
「なぜ泣く」
夜次元クジラはユラリユラリと波留の頬を掠めて泳ぎ、波留が両手で耳を塞いでもその声ははっきりと聞こえてくる。波留の芯の部分を直に振動させ、夜次元クジラは淡々と話し続けた。
「母親が死んだことしか思い出せないのに、なぜそんな首飾りに執着する。そんなものに頼らなくていいとなぜ分からない。おまえが三次元の物に執着する限り母親の存在を感じることはできない。おまえは四次元散歩などと呼んでいるが、三次元を移動しているだけだ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
波留が顔をあげると、夜次元クジラは待ちくたびれたような目をして口を開けていた。身構える前に波留は暗闇に飲まれ、ペンダントを探して胸のあたりをまさぐったけれど何の感触もない。夜次元クジラの鳴き声が内側から聞こえ、頭の中がしびれ、その声はいつも波留に話しかけるのとは違って、失恋の歌のような、鎮魂歌のような、どこか悲しげな響きをまとっていた。
少しずつ闇が薄らいでくると、首から下げたペンダントのチャームが波留の鼻先でユラユラと揺れていた。掴もうとしても手はすり抜けるばかりで、波留は蛍を捕まえるようにそっとチャームを包み込む。
「どこを見てる」
クククッと夜次元クジラの笑う振動を足下から感じ、下をのぞきこむと緑色の梢のようなものが見えた。その合間を夜次元クジラが泳いでいる。頭上では水面が光を不規則に透過し、水の中だと気づいて咄嗟に息を止めたけれど、意味がないと悟ってすぐにやめた。息を吐き出してみても気泡も何も出てこず、景色は歪んで酔いそうだ。どこかで嗅いだことのある生臭い匂いがする。
「もっと下だ」
夜次元クジラはさらに深く潜り、波留が平泳ぎで近づいてみると赤い鱗のようなものが見えた。夜次元クジラと同じくらいの大きさの赤い魚が水草に頭を突っ込んでいて、その陰に黒っぽいものが横たわっている。
「う、わっ」
薄墨のような色をした鱗がハラリハラリと水中を舞い、動く気配のない出目金の体は一部が不自然にへこんで内部が露出していた。赤い金魚は容赦なくそれを食み、波留は思わず目をそらす。吐き気がした。
「明日には別々にしてやるんだから、こんなのただの夢だ!」
ドアを引く音がし、「出目ちゃん」と森谷の声がする。波留の意識は金魚鉢の水の中なのに、夜次元クジラの声と同じように森谷の声も異常なほどクリアに聞こえた。
「あ、金ちゃんがまた出目ちゃんイジメてる。ダメだよ、金ちゃん」
ぬっと影が覆った。森谷が金魚鉢をのぞき込んでいるのだろうけれど、水面が揺れて顔はハッキリしない。その影が移動して、ゆがんだ人の顔がガラスの向こうに現れた。
「出目ちゃん? やだ、出目ちゃん、死んじゃったの?」
出目ちゃん、と繰り返す森谷の声に誘われ水草の陰から泳ぎ出た出目金は、黒く美しい鱗と、夜会ドレスのような優美な尾ビレを持っている。
「ごめんね、出目ちゃん」
森谷は水底に取り残された死骸に向かって謝っていた。出目金は森谷の方へと泳ぎ、金魚鉢をすり抜け、波留もその後を追って外に出る。気づけばいつものようにパーカーとワークパンツで机に腰かけていて、視線の先で森谷は金魚鉢に取り縋り、そのそばを黒い出目金が尾ビレを揺らし泳いでいた。
「森谷先生」
声をかけても森谷は振り向かなかった。彼女の肩は震え、嗚咽を堪えるような荒い息遣いが聞こえる。
「金ちゃんのバカ。……私の、バカッ!」
突然、森谷が金魚鉢をつかんで頭上に持ち上げた。エアポンプがカランと音をたてて壁を打ち、水が床の上で飛沫をあげる。金魚は辛うじて鉢の中に留まっていた。
「森谷先生!」
波留はとっさに手を伸ばしたけれど、森谷の腕を掴むことも、金魚鉢を奪うこともできず、半分ほどに水の減った金魚鉢の中で赤い金魚が跳ね、出目金の体は底石と水草に埋もれた。森谷は今にも金魚鉢を床に叩きつけようとしている。
「夜次元クジラ、先生を止めて。こんなの嘘。ただの夢だ」
教室半分くらいの大きさになっていた夜次元クジラは、我関せずといった表情で悠々と波留のまわりを泳いでいる。
「夢だと思いたいのか?」
「止めて。時間を止めて」
「止めたければ止めればいい。思うままだ」
夜次元クジラが高く透き通った声で鳴いた。その声がおさまると、静寂の中で聞くキーンという耳鳴りのような音がし、波留はふと違和感を覚えた。よく見ると森谷の頬の曲線に涙の粒がふたつピタリと留まり、金魚鉢の水は重力を無視して水面をゆがめたままアクリル樹脂のように固まっている。四次元出目金と夜次元クジラだけが時間の止まった世界で宙を泳いでいた。
「時間を止めてみたところで何も変わりはしない」夜次元クジラは窓の向こうの海を見ている。
「出目金は死んだと同時に生きていて、そして生まれてもいない。この座標では死んでいるというだけだ。お前の母親は死んだ。そして生きている。けれど、母親の残した首飾りに執着しているお前の地図には母親が死んだ座標しかない」
「ペンダントを、外せばいいの?」
夜次元クジラはそれには答えず、無言のまま波留を振り返って大きく口を開けた。
「待って。じゃあ、捨てたらいい?」
眼前に迫る闇に、波留はペンダントに触れないよう固く両手のこぶしを握りしめた。けれど、黒い世界に包まれると堪えきれずペンダントを探し、あちこち手を伸ばしてみるものの、ペンダントにも自分の体にも触れることはできない。
このまま三次元に戻れなかったら――。
「ママ! ……留里ママッ!」
恐怖に駆られ、波留は叫んでいた。
次回/32.最期の会話
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