夜次元クジラは金魚鉢を飲む #3
3. 四次元金魚
チャイムが鳴り、森谷が後ろを振り返って時計を確認した。
「もっと聞きたいんですけど、時間がないので進めますね。波留さん、VRアートのこと先生も知りたいので今度ゆっくり教えて下さい」
波留の性別についても、留里のことについても、何事もなかったように森谷は手続きを進める。彼女のペン先が学外活動という文字の上で止まり、「サークルは?」と波留の顔をのぞきこんだ。
「強制ですか?」
波留が問い返すと、ピチャンと背後で金魚が跳ねた。
「強制じゃないけど、学校としては一応推奨してる。地区サークルか、文科省推奨のオンラインサークルか。なるべく学校と家以外の第三のコミュニティを持つことが好ましいって言われてるから」
「群れるのは好きじゃないです」
「絵を描くならいくつか紹介できるサークルがあるけど」
「そういうとこ行けるなら引きこもったりしません。一人で描いてる方がいい」
そう、と森谷は残念そうに肩を落とした。
「先生は絵を描くとき誰かと一緒に描くんですか? 僕は一人の方が集中できる」
「描いてるときはそうなんだけど、見せ合ったり批評し合ったりするのもプラスだと思うの。私が中学生の頃はまだ学校に部活があって、美術部に所属してた。楽しかったよ」
波留がうんざりして「もう終わりですよね」と腰を浮かせると、森谷は慌ててタブレットの画面を進め、「終わりです」と電源をオフにした。
「コラ、波留」
たしなめる那波を無視し、波留は棚の上の金魚鉢に近づく。赤い金魚は思っていたよりも大きく、体長は六、七センチほど。出目金はそれよりひと回り小さく、赤い金魚に追いかけられて水草の陰に隠れた。波留が金魚鉢をのぞきこむと、餌をもらえると思ったのか赤い金魚がバシャバシャと飛沫をあげて水面から顔を出した。
「波留さん、餌あげてもいいよ。いつも朝と夕方にあげるようにしてるんだけど、もう四時過ぎたし」
波留は素直に餌の袋を手に取り、花の種みたいな粒々の餌をパラパラと金魚のそばに落とした。出目金は赤い金魚の食べ残しを水底でつつき、めぼしい餌を食べ尽くした赤い金魚が出目金に向かって潜っていく。出目金の尾ビレがいびつなのは、おそらく赤い金魚にかじられたのだ。
「かわいそう」
つぶやくと、出目金と目があった。前屈みになった波留の目線近くまで泳いできた出目金は、ガラスの壁に突き当たると水面に向かって上っていく。
「出目ちゃん、またいじめられちゃったの?」
気づけば波留のすぐそばに森谷が立っていた。水面にたどり着いた出目金が森谷に向かって口をパクパクと動かし、体をくねらせて空中へと泳ぎ出る。波留の見ている前で金魚鉢のヒラヒラを乗り越え、森谷の肩口で彼女を見上げる出目金は、悲しいかな森谷の目には映らないようだった。彼女が見ているのは金魚鉢の中にいる三次元の出目金だ。
森谷が少量の餌を出目金のそばに撒いてやると、宙を泳いでいた出目金は金魚鉢へと戻っていった。そして三次元の出目金と重なり、ひとつになる。
「先生のお気に入りは出目金?」
波留が中腰のまま森谷を見上げると、森谷は出目金に向けていた笑顔を波留に向け、「どうかな」と首をひねった。
「出目ちゃんも金ちゃんも最初は同じくらいの大きさだったのに、いつのまにか金ちゃんの方が大きくなっちゃって、追いかけられたりしてるから心配なの。別々にした方がいいのかもしれないけど、寂しいかなって」
金ちゃんイジメはだめよ、と森谷は赤い金魚のそばでガラスをトントンと叩いた。金魚は知らん顔をしている。
「金ちゃんにはお気に入りの男子がいたんだけど、卒業しちゃったからご機嫌ナナメなの」
森谷はその卒業生を思い出しているのか、懐かしそうな、少し寂しそうな顔をした。その表情がパッと切り替わり、「そういえば」と手を叩く。二匹の金魚が動きを止めて彼女を見た。
「他の生徒さんは二年の終わりに進路調査したんです。まだ仮の仮みたいなもので、心の準備しておいてね、くらいのものなんですけど。波留さんは高校のこと、何か考えてる?」
波留がチラッと那波の様子をうかがうと、彼女はいつの間にか窓際で海をながめていて、波留と目があうと任せると言うように肩をすくめた。
「T高のつもりです」
「T高? T高って、あのT高?」
波留がうなずくと、森谷は「そっかあ」と感心したように何度もうなずいた。
「学校いかなくてもちゃんと勉強してた波留さんにはああいう学校の方がいいかもしれないね。自分のペースで進められるし」
「オンラインなら人と会わなくて済むから」波留の付け加えた言葉に、森谷はウーンと唸った。
「先生としては、T高に行くならやっぱりサークルに入るのがおすすめだなあ。地区サークル入らない? 何かあったときに助け合えるのって、身近な人たちだと思うから」
「何かって、地震とか?」
波留の冷めた口調に森谷がサッと顔を強ばらせ、沈黙の中で風の音と那波のため息が重なった。
「波留、そういう言い方しないで」
「何かあった時どこにいるかなんて分からない。僕らは留里ママを助けられなかった」
「私たちはいなかったけど、留里ママを助けてくれた人がいるの」
「死体を」
「波留は留里が埋もれたままで良かったって言うの?」
「そんなこと言ってない」
視界の隅に黒いものが動いているのに気づき、波留が目を向けると出目金がまた金魚鉢から逃走していた。三次元の本体と違って優美な尾ビレは、その黒色のせいか愛らしさとともにどこか不吉なものを連想させる。たとえば悪魔の使いのような。そんなことを波留が考えていると、ふと出目金が波留を振り返り、愛嬌をふりまくように首をかしげた。首というより体を。
「ごめん」
波留が謝ると森谷がホッと肩の力を抜き、それを見て安心したのか出目金の泳ぐスピードがゆっくりになる。
「じゃあ、今日はここらへんで。始業式の日にクラスみんな自己紹介してもらう予定なので、何話すか考えておいてね。波留さん」
教室を出る間際に波留が金魚鉢に目をやると、二匹の金魚がじっと森谷を見ていた。森谷のそばを泳ぐ四次元金魚は黒い出目金だけで、三次元に繋がれた赤い金魚は、おそらく死ぬまで金魚鉢から出られない。
次回/4. 四次元のクジラ
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