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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #21

クジラリンク(ターコイズブルー)


21.将来の夢


 金魚部屋のドアは開いているのに、シンは立ち入ることもできず廊下に突っ立っていた。波留はスケッチブックを拾い上げ、「忘れ物?」と何事もなかったように首をかしげる。気づけば彼女の顔から青みが消え、天井あたりの青い何か・・もどこかに消えてしまっていた。

 自分の指先が震えていることに気づき、シンはギュッとこぶしを握りしめた。波留に近づいてドキドキするのとは違う、重鈍い不安が鼓動を速めている。

「波留、今なにか喋ってたよね」

「今? 僕、何か言ってた?」

「うん。死ぬのは、怖くないって」

 波留は愉快そうに口角をあげ、それを見たシンはこれが彼女の姿を見る最後になるんじゃないかという気がして、駆け寄るとその細い手首をつかんだ。波留はポカンと口を半開きにし、そのあとクスッと笑う。

「心配しなくても自殺なんてしないよ」

「じゃあ、なんで」

「死んだ母親のこと考えてただけ。母親に会えるなら死ぬのも怖くないって」

「ヨジゲンクジラっていうのは?」 

「シン、知らない? 『夜次元クジラ』っていうVR絵本があるんだけど、それ、僕の死んだ母親が描いたんだ。主人公の『僕』と四次元に住むクジラが旅しながら対話する話。小さい頃は主人公になったつもりでいたから、僕が自分のこと僕って言うようになったのはその絵本のせい。WIZMEEウィズミ―で夜次元クジラを泳がせて遊んだりしてた。最近はほったらかしだけどね」

 波留はいつになく饒舌で、シンは安心するどころか不安が増して手に力がこもった。彼女の手首を掴んだ手が汗ばんでいる。

「この手、どうしたらいいの?」

 波留に言われてパッと手を離し、ごしごしとズボンに汗を擦り付ける。波留と、波留以外の何か・・の視線を感じて、まっすぐ彼女の顔を見ることができなかった。

「波留は、連休どっか行くの?」

「別にどこも行かない。母親は仕事忙しそうだし、学校開いてたらここに来るかも。シンは? 金魚の餌やりは誰がするの?」

「餌は森谷先生がどうにかするって言ってた。俺も別にどこにも行かないよ。ゴールデンウィークは店の繁忙期だし、海に行って、CONAコナの手伝いするくらいかな。CONAも忙しいだろうし」

「じゃあ、学校開いてなかったらCONAに行こうかな」

「えっ?」

「シン、おごってよ」

「ええっ?」

 冗談なのか本気なのか、波留は「よろしく」と手を振った。さっきまでの不安が完全に消え去ったわけではないけれど、じわじわと気持ちが高揚し、シンは「期待すんなよ」と手を振り返して金魚部屋を出る。自分でも気づかないうちに走り出していた。

 スマートフォンを出して小遣いの残高を確認する。四月は今日を入れて残りあと三日。波留におごるには少々心もとない。

「前借りしとくか」

 また? と眉をしかめる母親を思い浮かべながら、シンは自転車にまたがると思い切りペダルを踏んだ。

 もしかしたら今日にでも波留におごる機会があるかもしれない。波留は日暮れ前あたりに家に帰るはずで、それくらいならシンはまだ海かCONAにいる。カフェの窓越しにでも顔を合わせれば、彼女が店に顔を出すかも――。考え出すと衝動を抑えきれなくなり、CONAに直行するつもりだったのを進路変更し、シンは自宅へ向かって自転車を走らせた。


「シンちゃん、おかえり。めずらしく早いじゃねえか」

 学校から帰って玄関前に自転車を停めると、シェ・マキムラの古株タケさんが背後から声をかけてきた。車で買い出しにでも出ていたのか、駐車場の奥から歩いて来た彼の両手には袋があり、ゴボウと白ネギが顔を出している。

「ただいま、タケさん。ちょっと用があって帰ってきただけだから、またすぐ出かける」

「海ばっかり行ってないで、たまには店でバイトでもしたらどうだ?」

 シシ、とタケさんは独特の笑い方をする。

「何言ってんの。シェ・マキムラに中学生なんていらないよ」

「シンちゃんはシェフの息子じゃねえか。店、継ぐんだろ。ちっちゃいころからコックさんになりたいって言ってたもんなあ、シンちゃんは」

 すきっ歯を見せて笑うタケさんが、いま立っているのと同じ場所で自分の父親に叱責されるのをシンは何度か目にしている。他の従業員たちが、古臭いだの野暮だのと父の料理を評するのも耳にしたことがあった。家と離れた場所に店があれば、父親を尊敬しつづけていられたのかもしれない。

「タケさんは中学の頃何になりたかった? 料理人になりたかったの?」

「俺は中学んときはサッカー選手。いかにも将来の夢って感じだろ。料理人になったのはなりゆきだよ。シンちゃんみたいに料理人になるのが夢だったら、俺も自分で店持ったりしたかもな」

「別に、俺は料理人になりたいわけじゃないよ」

 きょとんとした顔で「そうなのか?」と聞いてくるタケさんを愛想笑いで誤魔化し、シンは玄関のドアを開けた。すると、母親が居心地悪そうに目を泳がせて立っていて、話を聞かれたのだと分かった。

「ただいま」

「あ、うん。おかえり」

 シンは目を合わせないまま母親の脇をすり抜けて靴を脱ぐ。

「荷物置いたら海行くから」

「そう。あまり遅くならないようにね。母さんちょっと出てくるから」

 母親の声を背中で受け止め、シンは二階の自分の部屋へ駆けあがった。

 タケさんのせいだ。自分の気持ちがはっきりするまで母親に言うつもりはなかったのに、タケさんのせいで聞かれてしまった。罪悪感がじわじわと胸に湧いてきて小遣いの前借りを頼む気にもなれない。

 車の音が聞こえ、窓を開けると母親の軽自動車が路地を下っていくところだった。おそらく夕飯の買い物だろう。小学生のころは学校から帰ると母親の買い物について行って、そのあと一緒に夕飯を作ったりした。小学校の中学年から高学年にかけての、シンなりに料理に没頭していた時期だ。

 今では父親が家の台所に立つことはほとんどないが、シンが小学生だったころはごくたまにそういったことがあった。普段家にはない細長い包丁で肉や魚を捌き、シンが傍にいるのも忘れたように「火力が」と文句を言いながら自分の世界に没頭していた。シンは憧れをもってその父親の姿を見つめていたけれど、どことなく声がかけづらく、包丁を触らせてもらったこともない。

 母親は自分が作ったものを父親にあれこれ言われるのを嫌い、作るのはほとんど和食ばかりだった。シンに手取り足取り料理を教えたのはその母親で、ある時ふと夕飯の手伝いの先に父の味はないのだと気づき、以来、母親と料理することもなくなってしまった。

 憂鬱な気分を晴らすように勢いよく自転車のペダルを踏もうとしたとき、「シンちゃん」と、またタケさんの声がした。倉庫から戻って来たところらしく、今度は肉の塊を抱えている。

「何? タケさん」

 シンはペダルをひと漕ぎしてタケさんの前で停まった。タケさんは「つめてえわ」と言いながら凍った肉塊を揺すり上げる。

「なんて言うかさ、シンちゃんにも色々やりたいことあるんだろうけど、たまには早く帰ってあげな。前は奥さんと一緒に料理したりしてただろ。シンちゃんが家に帰ってくるまで奥さん一人じゃ寂しいよ」

「夜遊びしてるわけじゃないんだし、そんなに遅くないよ」

「そうかもしれんけど、まあ、たまには親孝行しな。将来のことはシンちゃんの好きにすればいいと思うけどさ」

 タケさんはシンの返事を待つことなく「じゃあな」と裏口から店の中に入っていった。

 CONAに向かう途中で母親の車とすれ違い、お互い笑顔で手を振りあったけれど、シンはいつもより自転車のペダルが重く感じられた。


次回/22.血のつながり

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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