夜次元クジラは金魚鉢を飲む #23

23.裏返し
「波留?」
波留が玄関にぼんやり立ったままでいると、那波がリビングから顔を出した。
「なんで上がってこないの? 叔父さん来てるよ」
「うん」
せめて田辺がいなければ、と恨めしく思いながら重い足を引きずってリビングに顔を見せると、ソファに座っていた叔父が「おお」と感嘆の声をあげて腰を浮かせる。少し立ち耳で、細面に切れ長の穏やかな目元には皺がいくぶん増え、波留はその眼差しから目をそらし、似ている、と思った。相手もそう思ったに違いなかった。
叔父と田辺はソファに向かい合わせに座っていて、那波は田辺の隣に腰をおろし、波留は立ったまま「お久しぶりです」と頭を下げる。
「久しぶり、波留。三、四年ぶりくらいか。大きくなったな」
叔父はソファの片側に体を寄せ、座面を叩いて波留に座るよう促した。
「先に部屋に荷物置いてくる。もう出かけるよね」
波留が言うと、那波は壁際の時計に目をやり「あっ」と声をあげる。
「うそ、もうこんな時間」
つられるように全員が窓に顔を向けると空はピンクと水色のグラデーションを描き、まるで映画のワンシーンのように道を歩く人の姿はシルエットになっていた。
「波留ちゃん、休みの日にこんな遅くまで学校開いてるの?」田辺が聞いた。
「地区サークルで学校使ってる人たちもいるから、僕が帰る時もまだいた」
「波留は何のサークル入ってるんだ?」
叔父らしい口調で克樹が尋ねる。
「入ってない。担任の先生が美術室使わせてくれるって言うから学校行ってる」
「へえ。学校でもVRで描いてるの? ゴーグルつけて描くなら学校じゃなくてもいい気がするけど、友達も一緒に?」
「僕ひとりだよ。描いてるのはふつうのデッサン。スケッチブックで」
波留の口からスケッチブックという言葉が出たのが意外だったのか、叔父は身をのりだして会話を続けようとしたが、那波が「あとは夕飯を食べながら」と遮った。
波留と顔は似ていても、克樹は笑顔が柔らかくまわりを委縮させない。那波がヨガスタジオの生徒たちに見せていた表情とそっくりだ。この男たちは那波の別の顔を知らない、と波留は思う。
留里が死んだあとの過度の心配性、波留からすれば監視とも思えるような居場所確認のメール。今どこにいるの、誰と一緒なの、何時に行って何時に帰るの、何をしているの。
一時はノイローゼになりそうだったが、田辺が家に来てから那波のメールが激減していた。ヨガスクールの準備が忙しいせいもあるかもしれないけれど、田辺の前で寛容な母親の仮面をかぶっているのだと思うと波留はうんざりする。
以前の那波だったら、今日も昼過ぎあたりから「まだ学校?」と一時間おきにメールがあったはずだが、電話もメールもひとつもなかった。
「嫉妬とは執着」と夜次元クジラの声がしたのは、自分の部屋にあがり、鉛筆で袖口の汚れたパーカーを着替えているときだった。
壁からぬうっと姿を現した夜次元クジラは床から天井までを埋め尽くす特大サイズで、口と目だけが辛うじて部屋におさまっている。
「僕が誰に嫉妬?」
夜次元クジラの声は空気を振動させているのか、それとも何か別の次元のものを震わせているのか。波留以外の人間が夜次元クジラの声を聞くことはないけれど、夜次元クジラは波留の中の何かを確実に振動させている。
「縛られることで安心を得るのは三次元の人間が持つ性だ。拘束が解けると不安に襲われる。そして、もう一度縛ってほしいと考える」
「縛ってほしくなんかない」
「ならいい。執着がなくなるほど四次元に近づく。裏返しでなければ」
「裏返し?」
波留がクローゼットを開けると、田辺からもらったワンピースが目に入った。撮影の日にプレゼントされ、社交辞令で身に着けて以来袖を通していない、小さなクルミボタンがいくつもついた水色のワンピース。
「これでいいか」
波留はボタンを全部外し、薄手のパーカーの上にジャケットとしてはおったが、田辺からの贈り物をなぜ着ようという気になったのか自分でもよく分からなかった。
「誰の目を意識するのか。意識する目がなくなれば四次元も近づく」
夜次元クジラの言葉はいつも不可解だ。けれど、水色のワンピースを着た自分の姿を鏡で見て、波留は叔父のことが頭にあったと気づいた。波留がこの格好で姿を見せれば、田辺は得意げに自分が贈ったものだと言うはず。そうすれば、叔父との距離が保たれる。
――僕はあなたのことを父とは思っていないし、叔母や従兄弟からあなたを奪う気はありません。
言葉を使わずにそれをどうやって伝えるか、波留はずっと考えてきた。叔父と会わないよう避け、会っても距離をおいていたけれど、田辺からもらったワンピースを着ることも同じ意味を持っている。
パーカーの襟元から手を突っ込み、ペンダントを服の外に出した。留里からもらったクジラの尻尾のペンダント、田辺からもらったワンピース、他に身に着けているものはすべて那波に買ってもらったもの。そして、波留が叔父からもらったのは遺伝子であり命だ。もらいものばかりで生きているのに、波留は自分の中に何もないような気がする。
留里はもうこの世にいない。田辺がワンピースをくれたのは那波の気を引くため。那波は田辺の目を気にして波留から離れていく。叔父は、最初から波留のものではない。どこに目を向けても波留の居場所はなかった。
「波留」
那波の声が聞こえて不意に苛立ちが胸の中で弾け、ワンピースを脱ごうとしたけれど、思いとどまって部屋を出た。予想通り田辺は自分があげたワンピースだと克樹に話し、叔父はそれがワンピースだということに驚いている。
「波留が着ると、何でも波留らしくなるなあ」
叔父の言葉で波留はなぜか泣きそうになり、誤魔化すように「早く行こう」と先に立って家を出た。どこに行くのか波留はまだ知らされておらず、行き先がシェ・マキムラだと聞かされたのは田辺の運転する車の中だった。
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