夜次元クジラは金魚鉢を飲む #39
39. 好きな人
汗で額に張りついた波留の短い髪に、シンはそうっと触れた。夜次元クジラが姿を消したあとすぐ「波留が倒れた」と中庭の海斗と森谷に向かって叫んだが、二人の足音はまだ聞こえてこない。
「波留」
ぐったりと壁にもたれかかり肩を上下させて苦しげに息をしていた波留は、そのときまぶしそうに薄く目を開け、「あそこ、しっぽ」とつぶやいた。そして、朦朧としたまま立ち上がろうとする。反応を期待していなかったシンの気持ちは浮き立ち、と同時に奇妙な不安が胸に広がった。
「波留、無理しないで。先生が来るから」
シンの言葉を無視して波留はよろめきながらその場に立ち、何かを探すように手を動かした。彼女の目にシンの姿が映っていないことは明らかだった。
「波留、平気?」
「……うん、怖くない。……クジラだもん」
波留はまた夢を見ているのだ。昨夜と同じように、現実と過去と夢とがごっちゃになった世界に、彼女は夜次元クジラと一緒にいる。
「手、つなぎたい」
波留が伸ばした手をシンがつかまえると、彼女は顔いっぱいに無邪気な笑みを浮かべた。こんな時なのに、シンは間近でみる波留の笑顔にドギマギし、それ以上に熱を帯びた彼女の手に驚く。波留は崩れるようにシンに体重を預け、荒く熱い息を吐いた。
「シン!」
海斗の声がして、廊下の向こうから森谷と二人が並んで駆けて来る。
「波留、熱があるっぽいんだ」
シンが言うと、息を切らした森谷が心配そうに波留の顔をのぞきこんで額に手を当てた。
「シン君。とりあえず、保健室に連れて行こう」
「でも、養護の先生いないんじゃないの?」と海斗。
「そうだけど、お家の人が迎えに来るまでベッドに寝かせてあげたほうがいいでしょ。お母さんに連絡してみるから」
ね、波留さん、と森谷が彼女の耳元で呼びかけると、波留はわずかにうなずいたように見えた。
普段利用することのないエレベーターに、シンは波留をおぶって乗り込んだ。鏡に映った彼女の顔は赤く、時おり首筋を撫でる息が熱い。海斗はもどかしそうに一階のボタンを連打し、森谷がその様子を見て苦笑した。
エレベーターを降り、北棟を出て渡り廊下を歩きながら、ふとシンが足裏に目をやると靴下が真っ黒になっていた。脱ぎ捨てた靴は波留のものも一緒に海斗が両手に持ち、その隣で森谷がスマートフォンを操作している。体育館のドアは全開になっていて、地区サークルなのか卓球台が三台並んでいた。
「繋がらないなあ」
小さくため息をつく森谷のスマートフォン画面には、『呼出中』の文字が点滅している。彼女は諦めて『終了』をタップした。
「とりあえずメッセージ入れておくね。もうちょっとしてからまたかけてみる」
すると、海斗が「俺んちにかけようか」と提案した。
「親父に電話して、波留ちゃんの家に伝えてもらう」
ちょうど南棟校舎にたどり着いたところで、海斗は手に持った二人分の靴をドアの前に置くと、ポケットから取り出したスマートフォンに向かって「親父に電話」と口にする。
「先行っといていいよ」
スマートフォンを耳に当て、海斗は追い払うようにシッシッと手を振った。
「先行ってようか、シン君」
森谷が南棟のドアを開け、サークルで賑わう調理室と人けのない美術室の前を通り過ぎ、ようやく保健室にたどり着くとシンは窓際のベッドに波留を寝かせた。力尽きて隣のベッドに倒れ込んだら、森谷が入り口から見えないようにベッドの脇のカーテンを引く。
「おつかれさま、シン君」
森谷は波留に布団をかけ、冷蔵庫から冷却シートを出して彼女の額に貼り付けた。そのあと彼女のパーカーの襟元から手を突っ込んで体温計を差し入れる。シンは体を起こし、ベッドに腰かけて波留の顔をのぞきこんだ。熱のせいか目尻に涙が溜まっている。
「母親と喧嘩したって言ってた」
シンがポツリとつぶやいたとき、ピピピピと体温計の音が鳴った。
「三十八度一分。連絡つかなかったら病院に連れていった方がいいかなあ。慣れない環境で疲れが溜まってたんだろうね」
体温計を片付けると、森谷はシンの隣に座って子どもみたいに足をプラプラと揺らした。
「波留さん、お母さんと喧嘩したからこんな早く学校に来たの?」
森谷に言われてシンが壁にかかった時計を見ると、ホームルームもまだ始まらない時刻だった。
「波留は出目金が死ぬ夢を見て心配になったって。俺と海斗はちょうど海からあがったときに波留に会ったんだ。様子がおかしかったから気になって追いかけて来た」
「出目ちゃん、波留さんの夢にも出てきたんだね。私じゃ頼りないから波留さんにSOS出したのかな」
教室で見せるのとは違うどこか頼りなげな森谷の顔を見ていると、シンは少しだけ海斗の気持ちが分かる気がした。きっと放っておけなかったのだ。そんな森谷が金魚を殺して埋めるとはどうしても考えられない。
「ねえ、先生。もしかして金ちゃんも死んだ?」
「えっ?」と、森谷が驚いた顔で首をひねり、シンは胸をなでおろした。
「さっき金魚部屋に行ったら金魚鉢が空っぽだったから」
「あ、あれは先生が水こぼしちゃって、金ちゃんはバケツに移してある。波留さんが水汲んでくれててよかった。ごめんね、二匹とも死んじゃったと思った?」
「波留が、二匹とも死んだってショック受けてた。出目金と一緒に埋められたって。俺も空っぽの金魚鉢見たときはもしかして二匹の墓だったのかって早とちりした」
太ももの上で握りしめた森谷の手が小さく震えていた。口元は強ばり、頬がかすかに青ざめ、「本当はね」と彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「本当は、食いちぎられた出目ちゃんを見たら金ちゃんが許せなくなった。衝動的に金魚鉢を割ろうとして、こぼれた水で床が水浸しになって我に返った。金ちゃんは、金ちゃんなりに生きようとしてただけ。出目ちゃんが一匹になったらかわいそうだって決めつけて、何もしなかった私が悪いの。ちゃんと居場所をつくってあげるのも教師の役目なのに、出目ちゃんの居場所すらつくってあげられないなんて教師失格だね」
「そんなことない。波留にとっては金魚部屋が居場所になってたと思う。それは森谷先生が作った場所だよ。教室も家も、波留はたぶん息苦しかったんだ。だから余計に金魚がいなくなってショックだったんじゃないかな」
「……そうね」
森谷が泣きそうな声を出してシンは慌てた。そのときガラッとドアの開く音がし、背後のカーテンが引かれると「連絡ついた」と海斗が得意気な顔で立っている。
「親父が波留ちゃんちに行って伝えたから、これから迎えに来るはず」
報告を終えると、海斗は波留のそばに寄って顔をのぞきこんだ。
「波留ちゃん、平気そう?」
「三十八度。解熱剤飲ませたほうがいいかなあ」
森谷は立ち上がって戸棚を開けようとしたが、鍵がかかっている。
「車なら十分もかからないし、すぐ来ると思うよ」
そうね、と森谷は薄く笑みを浮かべて肩を落とした。
「ほんと、役立たずの先生でごめんね」
森谷は申し訳なさそうに波留の顔を見た。その森谷の顔のすぐそばを、ユラユラと出目金が泳いでいる。シンは目を擦り、もう一度森谷を見た。
「先生、出目ちゃんが泳いでる」
「何言ってんだ? シン」
海斗が「お前も熱出たか」と、からかうようにシンの額に手を当てると、出目金は不思議そうに首をかしげた。
「四次元では出目ちゃんは死んでいると同時に生きていて、存在しているし存在していないんだって」夜次元クジラが言っていた言葉だ。
「シン、やっぱりお前も寝とけ」
海斗も森谷もシンの言葉に困惑していたが、シンは構わずベッドから立ち上がり、波留の耳元で問いかける。
「どこに行ってるんだよ、波留」
窓から差し込む光で短い髪の毛が金色に輝き、シンは波留の髪をなでた。
「シン、焦っても仕方ないんだから大人しく座っとけ」
「違うんだよ、海斗」
「違うって何が」
「俺もよくわかんないけど、波留は今そういう場所にいるんだ。でも、出目ちゃんと違って波留には体がある。だから、波留が戻ってきたいと思えば戻って来られるはずなんだ」
シンの背後で二人は顔を見合わせていた。シンは二人のことなどお構いなしに、波留の手を握りしめそこに行きたいと念じる。波留のところに。
「出てこいよ、夜次元クジラ!」
――お前の海はいい。
ふと、夜次元クジラの言葉が頭を過った。気づくと目の前に微睡みの海があり、海斗も森谷も、ベッドに横たわる波留も、保健室の戸棚もすべて海の中で揺れている。けれど、夜次元クジラの姿はなかった。
クジラがいなければ波留のところに行けない。昨夜の夢の中でも、金魚部屋の前でも、夜次元クジラは口を開けて漆黒の闇に波留とシンを飲み込み、波留はここではない時空に行ったのだ。
ついさっきの出来事がずいぶん昔のように感じられる。昨日は波留と一緒に行けたのに、どうして今回は波留だけを連れて行ってしまったのか。あのとき見た光景を思い出し、シンはハッと顔をあげた。窓辺に駆け寄って中庭を見渡すと、微睡みの海に沈んだ芝生の上で何かがキラリと光ったように見えた。
「俺、ちょっと探しもの。波留のことお願い!」
言い終わったときシンはすでに駆け出していて、海斗と森谷は呆然とその後ろ姿を見送った。
「シン君は、波留さんが好きなんだね」と森谷が表情を緩める。
「シンをからかうと面白いんだ」
海斗が森谷の隣に腰をおろすと、森谷は「ごめんね」と顔をそらしてうつむいた。
「海斗君まで巻き込んじゃった。もう生徒じゃないのに」
「そういう言い方はなし。波留ちゃんは友達だし、金魚は俺がとったやつだし、シンはバカだし。それに、先生は」
海斗が言葉を切ると、森谷が「頼りないから?」と続ける。
「違う。でも、俺にできることは頼ってよ。もう中学生じゃないし、もう森谷先生の生徒でもないから、だから」
海斗の視線から逃れるように森谷が窓に目を向けると、中庭の中央あたりでシンが芝生に這いつくばって何かを探して始めた。
次回/40.触れられない人
#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022
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