テリトーリオ経済圏と「歩く」ということ
イタリアの魅力的な小さな町に代表される、都市と農山漁村を一体的な地域と捉えるテリトーリオという考え方。これは、単なる地方創生ではない新しい都市と農山漁村のあり方として大きな可能性を秘めている。この考え方の基盤にあるのは、文化的な一体性と経済的・人的な交流、そして、同じ風景・同じ未来を共有しているという共感によるまとまりであり、都市と農山漁村の対等性だと思う。
実際、福岡市からは糸島や朝倉に多くの人が頻繁に通い、風景を楽しみ、美味しいものを食べ、糸島や朝倉の人たちは都市的な楽しみのために福岡の都心に出かけている。すでにテリトーリオとしてのまとまりがある、と言ってもいいのかもしれない。ほかはあまり知らないけれど、各地に一定規模の都市がある九州では、こういうテリトーリオ的なまとまりはすでにあちこちにある、と言えると思う。
そんな中で、なぜまた敢えて「テリトーリオ経済圏」なんてことを言うのか。ただの新しい言葉遊びじゃないのか?
現在のテリトーリオの状況は、人は生き来しているものの、クルマ中心の往来の構造で、既存の市街地ではないところに道の駅ができ、あるいは行列ができる有名店がいくつかあり、そこが都市と農山漁村地域の接点になっている。それはそれでいいことなのだけれど、地域の自然と歴史に培われた風景、現在その地に根付いた生産活動が作る風景から、離れてしまっている。そのために、テリトーリオ的なまとまりがあるにもかかわらず、地域経済全体に波及する効果を十分に出せていないのではないかと感じる。
人の行き来を「経済圏」にしていく、というのは、ここをこうすればいいという単純な解があるわけではない。経済圏を形作るいろいろな動きがあって、少しずつ変わっていくのだと思う。
その一つが「歩く」ということだ。
九州には九州自然歩道という3000キロに及ぶ自然歩道があるが、これは必ずしも自然の中だけを通っているわけではない。いわるゆる登山道もあるが、街と山をつないで舗装道路を歩くところも多い。繋ごうとするとそうなるんだよね。
街と山をつないで歩いていると、風景がだんだんと変わっていく。クルマで通り過ぎるスピードでなく、少しずつ、少しずつ。場所によっては歩いても歩いても風景が変わらないところもある。正直退屈だったりキツイときもあるんだけれど、それを含めて、歩いた時間が自分のストーリーになる。最近、「ストーリー」ってことをよく言われるけれど、自分に関係のない地域のストーリーは深く刺さらない。自分が歩いたというストーリーと接続して初めて、そのストーリーが深く意味のあるものに感じられるのだと思う。そのための仕掛けとして、「歩く」ということの持つ意味はとても大きいと思う。
「歩く」ことを軸にしたテリトーリオ経済圏=風景経済圏について、いろいろ考え、やっていきたいと思っています。
みなさん、よろしくお願いします!
