あをによし古都――はじまりの地、奈良ホテル(クラシックホテル探訪記①)
はじまりの地が奈良になったのは、社会人になったある日の交際相手のこんな言葉がきっかけだった。
「どこでもいいよ。きみの好きなところに行こう。いくらかかってもいい。」
人並みに旅行は好きだけれど、かと言って旅行を趣味としているわけでもない。そんなわたしの行きたいところ。わたしは考えて学生時代の先輩の発表を思い出した。
奈良ホテル。
西の迎賓館と呼ばれるこのホテルは関西地方唯一のクラシックホテルである。そしてそれは近現代日本文学を学んでいたわたしにとって憧れの場所であった。堀辰雄が愛し、谷崎潤一郎『細雪』にも登場する奈良ホテル。あの演習で先輩はたしか小林秀雄について発表していた。当時のわたしは研究の才能がないことを思い知ったころだった。研究を仕事にすることはできないと早々に悟ったけれど、それでも好きなことに没頭した院生時代は幸せだった。毎日必死でしがみつく日々。先輩の発表もたくさんの下調べをしなければ理解できなかった。
そんな日々を経て、わたしは普通の会社員になった。
元来の融通の効かない性格も相俟ってかなり真面目に働いた。仕事に不満はなかった。わたしは研究を仕事にはできなかった。それでも趣味として続けたいと思っていた。割り切って仕事を手段として捉えるのは案外容易であった。数年働けば仕事にも慣れた。平日は仕事に邁進し休日は目一杯趣味に時間をかける。こんな日がずっと続くのかと思っていた。
修学旅行以来十数年ぶりに訪れた奈良は暑かった。
鹿。寺院。観光客。
暑い夏の盛りにも関わらず人が溢れるその日は、偶然燈火会が催される日であった。
その瞬間は忘れもしない。ディナーのために「三笠」に入り席に着いたときだった。
「結婚してください」
返事をするより前に「いま?」と笑ってしまった。彼は頷いて「緊張する」と言った。
こうして少し間の悪い彼と気取り屋のわたしの二人の人生が重なった。水と油のように交わらなかった休日と平日の間に、いずれにも分類されない時間が立ち現れた。彼とわたしは家族となり、奈良ホテルはわたしたちのはじまりの地となった。
