第二夜|Aubade3年、タグを切れなかった黒のレース── 3年前のわたしに、追いついた夜
これは、フィクションです。
たぶん、あなたの、夜の話でもあります。
——
3年前、
自分のために買った一枚を、
まだ一度も、
身につけていない人へ。
——
「いつか、
ふさわしくなった夜に」
そう言って、
引き出しの奥に、
しまい込んだ人へ。
——
私は、深夜の語り部。
今夜は、
ある女性が、
3年前に自分のために選んだ、
黒のレースを、
そっと引き出しから取り出した夜の話を、
あなたに、
預からせてください。
⸻
火曜、深夜二時。
第一夜から、
ちょうど四日が経っていた。
あの夜、
20年前のピンクを、
ようやく肌に触れさせてから、
なぜか、わたしは、
もうひとつの引き出しが、
気になっていた。
⸻
すーっ。
すーっ。
——
夫の寝息は、
変わらない。
寝室の奥から、
いつものように、
静かに聞こえてくる。
——
わたしは、
裸足で廊下を渡って、
洗面所の灯りを、
ひとつだけ、
つけた。
クローゼットの、
引き出しの中段。
そこには、
紙袋ではない、
箱が入っていた。
⸻
黒い、
しっかりした、
紙の箱。
リボンは、
もう少しだけ、
ほどけかけている。

——
3年前の、銀座。
仕事で、
大きな評価を受けた、
その帰り道。
わたしは、
ふらりと、
銀座の、
あの店に入った。
⸻
Aubade。
オバド。
——
フランスの、
静かなメゾン。
もともとは、
コルセットの歴史を持つブランドで、
1958年に、
Aubadeという名で、
ランジェリーの世界に、
新しい息を吹き込んだのだと、
店員が教えてくれた。
⸻
「Aubadeは、
女性の身体を、
隠すためだけではなく、
敬意を払うために、
考えてきたブランドなんです」
そう言って、
店員が見せてくれたのは、
黒の、
繊細な、
刺繍レースだった。

⸻
深い黒。
でも、
重たくはない。
光を吸い込むようで、
同時に、
肌の奥にあるものを、
静かに照らすような黒。
⸻
そのブランドを、
後に有名にした言葉がある。
——
Lessons in Seduction。
誘惑のレッスン。
——
白黒の写真に、
短い言葉を添えた、
印象的なキャンペーン。
⸻
でも、
その夜のわたしには、
「誘惑」という言葉よりも、
店員の、
別の一言のほうが、
深く残った。
——
「これは、
誰かを誘惑するためだけの布ではありません。
自分の女性性に、
敬意を払うための布です」
⸻
その言葉に、
わたしは、
息を止めた。
そして、決めた。
買う、と。
⸻
値札は、見なかった。
3年前のわたしは、
その日、
プロジェクトをひとつ、
終わらせていた。
たくさんの人を動かして、
たくさんの夜を削って、
何度も自分を奮い立たせて、
ようやく形にした仕事だった。
——
「私は、
知的な女でありたい」
「私は、
自分への投資を、
惜しまない女でありたい」
「私は、
年齢を言い訳にして、
自分を雑に扱う女には、
なりたくない」
——
その宣言として、
わたしは、
黒のAubadeを買った。
⸻
家に帰って、
箱を開けた。
繊細な刺繍。
フレンチレースの、波打つ縁。
背中側は、
深く、静かな曲線を描いていた。
——
息を、飲んだ。
これを身につけたわたしは、
たぶん、もう、
3年前までのわたしではない。
そう、思った。
⸻
——でも。
⸻
その夜も、
わたしは、
それを身につけなかった。
理由は、はっきりしていた。
——
「夫は、
たぶん気づかない」
「気づかれない方が、
上品なのかもしれない」
「いや、そもそも、
夫の前にこれを身につけて立つ、
その勇気がない」
⸻
でも、本当は、
もうひとつあった。
それが、
いちばん深い理由だった。
——
「こんな、
知的で、
上品な布を、
わたしが、
纏っていいんだろうか」
——
それが、本当の声だった。
布が、立派すぎた。
わたしの方が、
追いついていない気がした。
⸻
だから、
引き出しの中段に、
しまった。
タグも、切らずに。
——
「いつか、
わたしが、
これにふさわしくなった夜に」
——
そう、つぶやいた。
⸻
そして、3年が経った。
——
「ふさわしくなる夜」は、
来なかった。
仕事は、続いた。
評価も、受け続けた。
役職も、少し上がった。
周りから見れば、わたしは、
たぶん、
ちゃんと前に進んでいた。
——
でも、
「これにふさわしいわたし」、には、
いつまで経っても、
なれなかった。
⸻
今夜、ふと、
箱に手を伸ばした。
リボンは、
すっかり、くたびれていた。
箱を開けると、
3年前の、あの銀座の夜の香りが、
ほんの少しだけ、
残っている気がした。
⸻

黒のレースを、
そっと、両手で持ち上げた。
3年経っていても、
色は、深いままだった。
少しも、
わたしを責めていなかった。
少しも、
「遅かったね」とは、
言わなかった。
ただ、そこにあった。
⸻
Lessons in Seduction。
誘惑のレッスン。
——
3年前の店員の声が、
蘇る。
「自分の女性性に、
敬意を払うための布です」
——
わたしは、ずっと、
それを誤解していた。
「敬意」というのは、
夫に見せて、
褒めてもらうためのものだと、
どこかで思っていた。
「上品な誘惑」ができる女に、
わたしがなってから、
これを身につけるべきだと、
思っていた。
⸻
でも。
3年経って、
ようやく気づいた。
——
敬意とは、
夫へのものでも、
誰かへのものでも、
なかった。
——
自分の女性性、
そのものへの、敬意。
——
「わたしは、
ここに、
こうして、
女として存在している」
その確認。
⸻
それは、
誰かに認めてもらうものではなく、
自分が、
自分に捧げる、
ささやかな儀式、
——
だった。
⸻
順番が、また、逆だった。
——
「ふさわしくなったから、纏う」
ではなく、
「纏うことで、
ふさわしくなっていく」
——
そういう布、だった。
⸻
わたしは、ずっと、
布にふさわしい女に、
なろうとしていた。
でも、本当は、
布の方が、
わたしに追いつくのを、
待っていてくれたのかもしれない。
⸻
第一夜のピンクのレースが、
教えてくれたことと、
少し似ている。
でも、少し違っていた。
——
第一夜のピンクは、
20年前のわたしを、
抱きしめる夜。
第二夜の黒は、
3年前のわたしに、
追いつく夜。
——
どちらも、
「順番が逆だった」、
という発見だった。
⸻
鏡の前で、
そっと、肌に当ててみた。
黒のレースの、波打つ縁が、
鎖骨のあたりに、
すっと触れた。

——
冷たい。
そして、すぐに、温かくなった。
⸻
50代の肌に、
黒は、
まったく似合わないわけでは、
なかった。
むしろ、
20代では出せなかった、
深い静けさが、
そこには、
ある気がした。
⸻
抑制の中の、色気。
静けさの中の、火。
——
派手では、ない。
あからさまでも、ない。
でも、
内側に、
しっかりとした灯が、
ともっている。
⸻
その灯を、
3年前のわたしは、
自分の中に、
ちゃんと見つけていたのだ。
今夜、ようやく、
それがわかった。
——
3年前のわたしは、
ふさわしくなかったのでは、
ない。
最初から、ふさわしかった。
ただ、わたしが、
それを認めていなかっただけ、
だった。
⸻
鏡の中に、
50代のわたしと、
3年前のわたしが、
同じ顔をして、立っている。
二人で、
ふっ、と、笑った。
——
「ごめんね。
3年も、待たせて」
——
「いいよ。
ちょうど、いい夜だった」
——
3年前のわたしが、
そう返した気がした。
⸻
夫の寝息は、変わらない。
それで、良かった。
——
今夜のわたしは、
夫に気づかれたかったのでは、ない。
夫に褒められたかったのでも、ない。
——
夫の視線を、
取り戻す前に、
まず、わたし自身の視線を、
わたしに、戻したかった。
——
これは、
夫に見せるための夜じゃ、ない。
これは、
3年前のわたしと、
今夜、ようやく、
握手をした、夜。

⸻
黒のレースは、
鏡の前で、
静かに、
わたしの肌の上にあった。
タグは、まだ、
ついたままだった。
——
わたしは、
小さなハサミを、
取り出した。
⸻
3年間、
切れなかったタグ。
⸻
ちょきん。
⸻

その音が、
思っていたより、
はっきり、
洗面所に響いた。
——
まるで、
3年間、
わたしを縛っていた、
細い糸が、
ようやく、
切れたみたい、
だった。
⸻
わたしは、息を吐いた。
ふっ、と。
——
そして、
鏡の中の自分に、
小さく言った。
——
「もう、
ふさわしくなるのを、
待たなくていい」
——
それは、
誰にも聞こえない声だった。
でも、
わたしには、
ちゃんと聞こえた。
⸻
🌙
⸻
これは、ある女性の話。
でも、たぶん、
あなたの、引き出しの中段の話でも、
あります。
——
「いつか、
ふさわしくなったら、纏う」
——
そう言って、
しまい込んだ一枚。
——
3年。
5年。
7年。
——
その、「ふさわしくなる夜」は、
あなたに、
訪れましたか。
⸻
それとも——
⸻
もう、最初から、
ふさわしかったのに、
あなただけが、
それを認めて、
いなかった、
——
だけ、では、ありませんか。
⸻
今夜、もし、
あなたの引き出しの中にも、
タグを切れないままの一枚があるなら。
出さなくても、いい。
身につけなくても、いい。
——
ただ、
思い出してあげてください。
⸻
その一枚を買った日の、
あなたのことを。
少し誇らしかった、
あなたのことを。
ほんの少しだけ、
未来の自分を信じていた、
あなたのことを。
——
その人は、まだ、
あなたの中に、います。
そして、たぶん、
こう言っています。
——
「遅くないよ」
「ちょうど、
いい夜だったよ」
⸻
🌙 七つの夜の、地図
——
第一夜|Victoria’s Secret ── 憧れ
20年前のわたしを、抱きしめる夜
第二夜|Aubade ── 知性
3年前のわたしに、追いつく夜
第三夜|La Perla ── 芸術
自分の価値を、取り戻す夜
第四夜|Agent Provocateur ── 危険
眠らせていた火を、怖がらない夜
第五夜|Simone Pérèle ── 成熟
年齢を、敵にしない夜
第六夜|Lola Luna ── 秘密
誰にも見せない場所を、赦す夜
第七夜|日本の肌色のレース ── 帰還
旅した先で、家を見つける夜
⸻
次の夜は、La Perla。
イタリアの職人が、
ひと針、ひと針、
美しさを重ねてきた、
あのレース。
「ランジェリーは、芸術だ」
そう、
静かに宣言するような、メゾン。
⸻
ある女性が、
35歳の誕生日に、
自分への、たった一度の贅沢として、
La Perlaの、
象牙色のレースを、
ひとつだけ買った。
——
でも、その夜、
夫が、洗濯機の中で、
そのタグを、見つけた。
——
そして、こう言われる。
⸻
「お前、最近、
なんでそんなに、
高いもの買うんだよ」
⸻
その一言で、
彼女は、
自分の価値まで、
責められたような気がした。
——
第三夜は、
「自分の価値を、
誰かに認めてもらえないと、
信じられなくなった女性」、
の物語です。
——
そして、そこから彼女が、
どうやって、
自分の価値を、
自分の手に取り戻していくのか。
⸻
金曜の、二十時に、
静かに、置きます。
⸻
⚠️ 第三夜から、有料記事になります。
⸻
第三夜|La Perla
── 象牙色のレースと、自分の価値を取り戻す夜
5月29日(金)20:00 公開予定
単話 ¥500
⸻
または、
マガジン一括購入で、
七つの夜を、
最後まで、お読みいただけます。
🌙 『もう一度、わたしを纏う夜』
── Lingerie Collection 七つの夜
▶ https://note.com/shinya_megami/m/m23e44a766d55
——
⏳ 6月12日(金)22時より、
マガジン早割 ¥2,500 で販売開始予定。
6月16日より、
通常価格 ¥2,980 に移行します。
——
🎁 マガジンの方が、お得です。
第三夜〜第六夜の単話 ¥500 × 4夜 = ¥2,000
さらに、第七夜(マガジン限定)と、
番外編・小さな特典が、加わって、
——
すべてで、¥2,500(早割)。
⸻
七週間。
七つのブランド。
七つの夜。
旅した先で、
家を見つけた、ある女性の物語、です。
⸻
これは、
夫を振り向かせるための物語では、
ありません。
あなたが、
「最初から、ふさわしかった」
と、
自分に言えるようになるための、
七つの夜です。
⸻
🌙 フォローすると、深夜に届きます。
火曜と金曜の、二十時。
短編、更新中。
——
そして、もし、
夫婦の沈黙そのものに、
向き合いたくなった夜が、あれば。
——
🌙 別の本も、書きました。
『夫の沈黙が、溶けていく夜』
── 触れられなくなった夫婦に、もう一度、灯をともす7夜
深夜の女神学・完全版。
夫の沈黙の、本当の正体。
半オクターブ低い声の、作り方。
触れ合いの、七層の地図。
そして、今夜からできる、
7日間の灯をともすレッスン。
——
⏳ 早割 ¥2,500(6月15日 23:59 まで)
🛡 返金保証つき・理由不問
▼ こちらから
https://note.com/shinya_megami/n/ncb35c08ec89a
⸻
『もう一度、わたしを纏う夜』と、
『夫の沈黙が、溶けていく夜』。
二冊で読むと、
夜は、もう一段、
深く、ほどけていきます。
⸻
♡ 心が少しほどけたら、
スキを、そっと押していってください。
それが、次の誰かの、
深夜の灯になります。
⸻
※本作は、深夜文学シリーズの一篇です。
語り手「深夜の語り部」は、フィクション上の存在です。
描かれる夜、痛み、再生は、
誰かの実在の輪郭から、お借りしています。
—— 深夜の語り部
⸻
🌙 物語は、続いています。
第四夜|Agent Provocateur(公開中)
深紅のレースと、
「いい子」の奥で眠っていた火。
▼ 第三夜はこちら(公開中)
https://note.com/shinya_megami/n/n0d0376c62d7b
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ランジェリーは、自分を、思い出すための、布だった。 七夜にわたって、女が、自分のために、レースを纏う物語。 そして、自分を取り戻した女が、…
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