空と海の特攻──生き証人の言葉と人間魚雷「回天」
この記事は、昨年終戦記念日にYouTubeで見た鳥谷さんの話と10年前にしった海の特攻隊の話をAIに話し内容をAIに構成して作成したものです。
戦争時代を過ごされた方たちの事をきちんと伝えたくてまとめています。
この当時の様子や内容を知ってる方は、多いと思います。
家族や大切な方に送られた最期の手紙は、「日本には切腹という文化があった、だから全部が嘘だとは言わないが、本音じゃない。
みんな死にたく無かった。
それを書けば、検閲で落とされ家族の元に届かない。届くためには、英雄かのように書いてしまう事もあったと思う。
と鳥谷さんは言ってます。
まだ、YouTubeで見れます。
本当の戦争の歴史を知って欲しくて、シリーズで記事にしました。
太平洋戦争末期、日本軍は「特別攻撃隊」という名のもとに、若者たちの命を兵器として使った。
空からは戦闘機で敵艦へ、海からは魚雷の中に入ったまま海底へ──。
「空の特攻」を生き延びた98歳の元隊員が今なお語り続ける。
その言葉を、人間魚雷「回天」の記録とともに、ここに残す。
「死にたくない」と語った男が伝えたいこと
佐賀市に住む鳥谷邦武さんは、大正15年(1926年)生まれの98歳。
陸軍特別攻撃隊「第453振武隊」の元隊員である。
16歳だった1943年、大空への憧れから福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に自ら志願して入校した。
しかし1945年3月、18歳だった鳥谷さんに突然、特攻隊への編入命令が下った。「志願」ではなかった。
「命令だから、いやも応もない。諦めるしかなかった」
特攻隊員として使用される予定だったのは、大戦末期には旧式化していた九七式戦闘機。
重い爆弾を抱えた機体は速度も出ず、操縦も難しい。
同期の仲間と、鳥谷さんは本音でこう話し合っていたという。
「抱えたこともない爆弾を抱えていくなんて馬鹿らしいな。もったいないな。特攻なんかで死にたくないと、本音でよく話していました」
そして出撃命令を待つ間、仲が良かった同期生は繰り返し口にしていた。
「死にたくねえなあ」と。
その友は1945年5月、沖縄周辺の戦闘へと飛び立ち、帰らなかった。
「落とされるって分かっているんですよ、100%。これくらい落としやすい飛行機はない。重い爆弾を抱えて、ヨタヨタしながら飛んでいて、反撃もできない」
鳥谷さん自身は出撃命令が下る前に終戦を迎え、生き延びた。
しかしその後、シベリアに1年7カ月間抑留されるという別の地獄が待っていた。
90歳を過ぎるまで、鳥谷さんは公の場でこうした「裏の話」を口にしなかった。
特攻に命を捧げた戦友たちに「失礼だ」と感じていたからだ。
しかし特攻経験のある同期生が80代で世を去ったとき、鳥谷さんは語り始めた。
「本当のことを後世に伝えたい」
2025年4月、98歳の鳥谷さんは大刀洗平和記念館で約120人の前に立ち、証言した。
今なお続く世界の戦争については、こう言い切った。「愚の骨頂だ」と。
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海の底の特攻──人間魚雷「回天」
空の特攻隊が戦闘機で敵艦へ突っ込んだように、海には別の特攻兵器があった。
それが人間魚雷「回天(かいてん)」──潜水艦から発進し、人間が操縦したまま敵艦に体当たりする、生還が一切想定されていない兵器だった。
「回天」という名は、「天を回らし戦局を逆転させる」という意味を込めて開発者・黒木博司大尉が発案した。
しかしその実態は、戦局の悪化に追い詰められた軍が、若者の命を「消耗品」として使う兵器だった。
兵器の誕生と構造
開発のきっかけは、1943年末。
甲標的(特殊潜航艇)の搭乗員だった黒木大尉と仁科関夫中尉が、九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷の試作を進めたことに始まる。
軍令部は当初「それはいかんな」と却下したが、血書による嘆願と戦局の悪化が重なり、1944年2月に試作が命じられた。
当初は「搭乗員を脱出させる装置」が設計条件にあった。
しかし脱出装置の開発は進まず、開発者2人の主張により1944年5月に断念された──つまり、最初から死ぬことが前提の兵器として完成した。
仕様詳細全長14.75 m直径1 m排水量8.3 トン炸薬量(先端)1.55 トン(通常魚雷の約2倍)搭乗員1名(脱出装置なし)運用方法潜水艦に搭載し発進、
海中を操縦して体当たり生産数終戦までに420基
エンジンは一度始動すると止めることができなかった。
420
終戦までの生産数
約1,400
訓練を受けた搭乗員数
49
出撃・戦死した搭乗員数
15
訓練中の死者数
訓練の島・大津島
山口県周南市沖に浮かぶ大津島(おおづしま)に、回天の訓練基地が設けられた。
島の周囲を実際に航行する訓練が繰り返され、今もその基地跡が全国で唯一残されている。
山口県周南市の回天記念館には、全長14.75mの実寸大レプリカが展示されている。
搭乗員・整備員の遺影や遺品、手紙、軍服など約1,300点が収蔵され、元搭乗員たちのインタビュー映像も見ることができる。
知らずに造った人々
回天の製造には、民間の若者たちも動員された。
京都府京丹波町の高光朝子さんは、女学生だった1944年ごろに山口県光市の光海軍工廠へ学徒動員され、回天の部品を製造した。
しかし当時、それが人間を乗せた兵器だとは知らされていなかった。終戦後、学校関係者から事実を聞かされたとき、こう絶句した。
「人が中に入る魚雷だなんて夢にも思わなかった。偉い人は、なぜ人間魚雷を考えたのか。乗る人はどんな気持ちだったか……」
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語り継ぐということ
鳥谷邦武さんが証言するまでに、戦後70年以上の時間が必要だった。
特攻で散った戦友への敬意と、「本当のことを伝えなければ」という使命感のあいだで、その言葉は長い間、胸の内に留められていた。
人間魚雷「回天」の搭乗員たちの遺書や手紙は、今も記念館に残されている。
彼らが何を感じていたか、完全には知ることができない。
ただ確かなのは、10代から20代の若者たちが「戻れない筒」の中に入り、海へと消えていったという事実だ。
戦争とは何か。鳥谷さんの言葉が、静かに問いかけてくる。
「戦った相手も家族がいる人間。その人間が変わってしまうのが戦争の恐ろしさ」
【参考・証言出典】
・鳥谷邦武さんの証言:毎日新聞(2025年9月)、RKB毎日放送(2025年4月・5月)、時事通信(2025年7月)、西日本新聞(2019年)、サガテレビ(2017年放送)
・YouTubeチャンネル「日本で生きる人たちへ」(2025年7月公開)
・人間魚雷「回天」:Wikipedia、周南市回天記念館、歴史人、瀬戸内Finder
・高光朝子さんの証言:京都新聞(2021年)
【注記】
本記事は公開情報・報道記録をもとに構成しています。鳥谷さんの証言は各報道で確認できるものを引用・要約しています。
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