古代東山道と律令制度後の東山道
信濃の古代東山道と律令制度後の東山道

信濃に入った東山道は使われた時期に応じてルートが異なり、二つあると言われている。一つは、律令制度前の大和朝廷の東国支配とその経営のための経路として開かれた道である古い東山道であり、古代東山道(こだいとうさんどう)・古東山道(ことうさんどう)と呼ばれている。二つ目は、詳細は後述するが、律令制が整った後の道である東山道(ここでは単に東山道と呼ぶ)の二つがある。
古代東山道は 大和朝廷の東征軍や要人が東国平定のために通過した道であり、大化の改新後制定された東山道以前の古道であるため古代という冠がつく。
そのルートは、都のあった大和地方から美濃へ出て木曽川をさかのぼり、いまの中津川から、当時「信濃坂」(このころは峠のことを坂といった)といわれた御坂峠=神坂峠(みさかとうげ)をこえて伊那谷に出、そこから天竜川沿いに北上して三峯川谷(今の高遠町のあるあたり)を通って諏訪へ下った。諏訪湖を左手に見て小県郡(ちいさがたぐん)の大門峠(だいもんとうげ)へ上り、頂上の近くからコニーデ型の蓼科山(— 標高2530m の 雄峰が聳えそびえ鬼気 迫るー)の山腹の雨境峠(あまざかいとうげ—当時は天坂といったと推定—)を経て、望月の「瓜生坂(うりゅうさか)」を過ぎ、「入山峠」(いりやまとうげ)」 (碓氷うすい)を通過して、上野(こうずけ)、下野(しもおさ)を経て陸奥(むつ)の多賀城(たがじょう)に至っていた。
「神坂峠(みさかとうげ)」や「雨境峠(あまざかいとうげ)」を超えの旅人は、難所である峠で、旅の安全や残してきた家族の安否を気づかって、幣(ぬさ)を捧げて手向(たむ)けの儀式を行なった。神坂、雨境峠、入山峠からは、滑石製模造品(かっせきせいもぞうひん)注1)が多数出土している。臼玉や手捏土器(てずくねどき))注2)などが出土しており、古代における重要な経路にあったことがわかる。
注1) 滑石製模造品(かっせきせいもぞうひん) 「滑石は長野県の山岳地帯の蛇紋岩の周辺でみつかる、特別に柔らかい(モース硬度1)の石で、古くは石鹸や耐熱材として利用された。模造品とは、実用品でなく儀式用のミチュアであり代用品という意味をもつ用語である。
注2) 「手捏土器(てづくねどき)」とは、ろくろなどの道具を使わずに、指先や手のひらで粘土をこねて作った小さな土器のことである。特に古墳時代の遺跡から出土するものを指すことが多く。神様へのお供え物を入れたり、お墓(古墳)に供えたり、住居を建てる際や廃止する際のお清めに使われた。 手のひらに収まるようなミニチュアサイズのものがほとんどである。古墳時代にはすでに「ろくろ」を使って整った形を作る技術(須恵器など)がありましたが、あえて手でこねて作ったのは、「特別な儀式のために、その場で即興で作られた」あるいは「形式的なミニチュアであることに意味があった」からだと考えられている。
雨境峠(あまざかいとうげ)と勾玉原(まがたまはら)

五世紀後半から六世紀にわたり人々の間では、峠の峰には荒れる神がいると云われ、峠を越す際に幣(ぬさ)を奉納し旅の安全を祈願する習慣があった。平安時代以後の奉納品は、米や野菜、紙などに変わったが、それ以前は、極く小さな剣形、円板形、臼玉などの滑石(かっせき)製模造品が用いられていた。この模造品は、一から二㎝の極く小さいもので必ず小孔があけられ、草や糸を通して峠付近の巨岩、巨木などにかけて祭祀がなされたと伝えられる。
信濃で滑石製模造品が出土する峠を西からあげると、岐阜県から伊那谷に通じる神坂峠(みさかとうげ)、群馬県から佐久地方に通じる入山峠(いりやまとうげ:(旧碓氷峠))などでこれらを結ぶ道が五世紀から六世紀にかけて大和朝廷の東征軍や要人が東国平定のために通過した道で、大化の改新後制定された東山道以前の古道で古代東山道とも言われていることは前述した。 明治、大正の頃、この峠付近一帯の地から滑石製模造品が多く拾われ勾玉原と呼ぶようになった。
雨境峠祭祀遺跡群(あまざかいとうげさいしいせきぐん)
古(古代)東山道(こ(こだい)とうさんどう)の通過点である雨境峠には、女神湖の周辺に多くの祭祀遺跡群がある。鍵引石(かぎひきいし)→与惣塚(よそうずか)→中与惣塚(なかよそうずか)→法印塚(ほういんずか)→鳴石(なるいし)が並ぶ。古代東山道の雨境峠を中心とした祭祀遺跡群の一つで五世紀頃から中世にかけて古代の祭りの場であったと云われる。
与惣塚(よそうずか)

与惣塚は、旅人や地方の者がここにさしかかるとき、蓼科山の偉大な大自然の姿に神秘さを感じ敬虔の念かささら祈りを捧げ、この地に社を建て古代から近世初頭まきがんさいしで祈願が行われた祭祀遺跡である。
昭和四十一年の発掘調査でこの付近や塚から神に奉祀した滑石製の勾玉(まがたま)、臼玉(うすだま)、剣有孔、円板、古銭、銅釘などが収集されこの付近の原を勾玉原と称している。
鳴石(なるし)

鳴石は古代 東山道の雨境峠を心とした 祭祀遺跡群の一つで 5世紀頃から中世にかけて 古代の祭りの場としてあったようである。雨境峠には 女神湖の周辺にある鉤引石(かぎひきいし)け引きし際の瓦 予想図か 方位 図かなど 古代から中世にかけての遺跡が多いが中でも書きしいしい人 悪い日は 古代人が申請した巨石で神の法人を願うため滑石製の勾玉 下玉 つるぎ 鏡を滑石で模造したものを報じる 万座 として使われた。
古代東山道と支道

一志茂樹氏や黒坂周平氏は 古代東山道には大門峠から分かれる支道を想定されている。この支道の存在が、後述する論点である生島足島神社の国造推定と関連していると考えられる重要な鍵となる視点である。
一志茂樹)は「雨堤峠にかかる手前の池ノ平から、 大門峠を越えて 四泊ーよどまりー現在 小さかった分 長門町に出る依田川に沿って下り 通じたるもの」。 [一志茂樹『古代東山道の研究』p340~p341、信毎書籍 印刷株式会社,1993年。]と指摘してる。黒坂周平氏は「大門峠から依田窪へ下り、そこから二道に分れて、一は依田川下流で千曲川を渡り、千曲川右岸に沿って(または神川上流から菅平をこえて)北国―すなわち越の国方面へ向かう道と、一は砂原峠ー丸子御嶽堂と富士山方面から生島足島神社に通ずる峠ーをこえていったん塩田へ出、室賀峠を越えて越の国方面へ通ずる道とが開かれたものと考えられている。塩田平に出るのは、ここに国造がいたからであるが、室賀峠を越えて北国へ向かうのは、現在でも "岩鼻の険”と称される千曲川左岸の険悪なところをさけたのである。こう考えてくると、今の旧上田盆地一帯は、古代東山道と古代北国道との交点に当り、まさに交通上または政治上、きわめて枢要な所とならざるを得ない。」とある。[・上田小県誌刊行会『上田小県誌 第一巻歴史編上(二)古代中世』信毎書籍 印刷株式会社、1980年 p102 黒坂周平執筆担当]である。
筆者も、大門峠から依田川の支流の大門川に沿って下り、四泊・長久保(今の長和町)・長瀬(上田市丸子)通り、塩田平に通ずる塩原峠をへて生島足島神社周辺に通ずる道を想定している。これは、国造が重要な道路周辺にあるべきだとする想定によるからである。
律令制度後の信濃の東山道
奈良から平安時代の一時期を、律令(法律)によって統治された「律令国家」と呼んでいるが、この国家の下では機内とその他の国々をブロックに区分けして統治した。これを「五機七道」(ごきしちどう)と総称している。五機とは国の中心である機内の五か国を指し、七道とは機内から放射状にのびる東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸道を指した。個のうち特に東山道は、東北地方の開拓に欠かすことのできない道路で、政治的・軍事的に重要な役割を果たした。駅前により原則的には三十里 (約十六㎞)ごとに駅(駅うまやー)が設置され、一定の駅馬を備えて公用の官人や公文書の伝送の役目をする駅長えきちょうー・駅子えきしーなどが置かれた。。「延喜式」は八紀の初頭、延喜年間(九〇一~) から延長年間(九言~)にかけて成立した、有名な官撰の書物であるが(式というのは施行細則に当る)、その中の「兵部省」 の部に、五畿七道諸国のすべての駅が記載されており、それによると東山道の通過地点は次の通りであった。
まず都から近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)を経て神坂峠を越え、信濃国伊那谷へ入る。それから阿知・育良(ゆくら)・賢錐(かたぎり)・宮田(みやた)・深沢(みさわ)等の駅(うまや)を通って天竜川沿いに北上、善知鳥(うとう)峠から松本平に出て、覚志(かがし)・織織(にしきおり)の二駅を通過し、保福寺峠(ほうふくじとうげ)を越え、小県郡に入ってからは浦野(うらの)・日理(わたり)の駅を通って国府に至り、さらにそこから佐久郡清水(しみず)・長倉(はせくら)の駅を通過し、確氷峠(入山峠)越しに上野国(群馬県) 坂本駅に下り、下野国(栃木県)を通って陸奥の国に達している。なお、筑摩郡の松本市付近から出た支道は、宋康・日理・多古・沼辺の各駅を経て「越の国」に通じていた。
上田地方には、浦野駅(うらののうまや)と日理駅(わたりのうまや)が推定されている。日理は「渡り」に通じ千曲川の渡河とかその地点にあったと考えられ、文献では駅馬十疋(ひき)が置かれていた、唐白遺跡(からうすいせき)(常磐城字唐白)には、心塔礎(とうしんそ:塔の中心の礎石)とみられる巨石や瓦塔片(がとうへん)などが発見されており、また周辺の環境などから、 この一帯が日理駅跡指定地として、最も有力視されている。
東山道 日理駅跡( とうさんどう わたりのうまや) 推定地

東山道古代東山道とはことなり、新しい東山道は、宝福寺峠を超え、小県青木の浦野駅をとおり、千曲川周辺の日理駅ががあある。上田地方には、浦野駅(うらののうまや)と日理駅(わたりのうまや)が推定されている。日理は「渡り」に通じ千曲川の渡河とかー地点にあったと考えられ、文献では駅馬十疋(ひき)が置かれていた、唐白遺跡(からうすいせき)(常磐城字唐白)には、心塔礎(とうしんそ)ー塔の中心の礎石とみられる巨石や瓦塔片(がとうへん)などが発見されており、また周辺の環境などから、 この一帯が日理駅跡指定地として、最も有力視されてい
奈良から平安時代の一時期を、律令(法律)によって統治された「律令国家」と呼んでいるが、この国家の下では表内とその他の国々を七ブロックに区分けして統治した。これを「五歳七道」(ごきしちどう)と総称している。五歳とは国の中心である機内の五か国を指し、七道とは機内から放射状にのびる東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸道を指した。 とくに東山道は、東北地方の開拓に欠かすことのできない道路で、政治的・軍事的に重要な役割を果たした。駅前により原則的には三十里 (約十六㎞)ごとに駅(駅うまやー)が設置され、一定の駅馬を備えて公用の官人や公文書の伝送の役目をする駅長(えきちょう)・駅子(えきし)などが置かれた。
東山道 浦野駅(とうさんどう うらののうまや)推定地

8世紀初頭に開設された東山道は、大和朝廷の東北経営の動脈であり、五畿七道の中でも金銀を産出する豊かな国であった。
都と地方を結ぶ七道には、必要な人馬を常備する駅がおかれました。馬の頭数は養老律令(757)の「厩牧令(くもくりょう)」に七道の幹線道路を大路・中路・小路に分けて駅毎に馬の数が決められていた。大宰府への山陽道は大路で30頭、東海・東山道は中路で10頭、北陸・山陰・南海·西海道は小路で5頭でした。しかし難路の保福寺峠 (1340m)を控える浦野駅(うらののうまや)と錦織駅(にしきおりのうまや)は15頭と決められていた。信濃国府に隣接した浦野駅はどこにあったのか。東山道研究の権威、故一志茂樹(いっししげき)博士は「本宿(もとじゅく)」の地名を発見し、浦野駅の中心地は当郷(とうごう)の岡石地区と想定したのです。昭和50年(1975) に圃場整備事業の対象地となり、春と秋に緊急発掘調査が実施されましたが、縄文時代から鎌倉時代の土器および須恵器や土師器の遺物が多数発見されるに留まり、調査地点からは駅跡の存在を示す遺構や遺物は発見されなかった。
東山道は今からおよそ1200年前、都から、はるばる陸奥・出羽の国まで、国の力によって開通した、いわゆる 「管理」です。この道は中央政府と地方の国府を結ぶ幹線道路でしたので、中央から地方へ、地方から中央へ、防人や兵団、また、貢進物や発された兵士などが通る日本の大動脈といってもよい重要な道でした。特に信濃は国の中央にありましたが、険しい所が多かったので、決められたより多くの人・馬が配置されており、その使命も特に重要でした、そのため中央の文化、地方の物資が絶えず通行し、 これがやがて信濃の優れた文化を生むもとになりました。駅とは古代の「管理」に設けられた施設で、この信濃山道が通過していた青木材には、かつて「浦野駅」が存在していたとされており、その遺産とされる国宝大法寺三重塔も残っております。
