Netflix映画『ポップスが最高に輝いた夜』を観て
Netflixの映画『ポップスが最高に輝いた夜』(The Greatest Night in Pop)を観ました。
TikTokで「We Are The World」がやたらと流れてきてから気になっていた映画で、ビールを片手に、じっくり鑑賞しました。
「たった一晩」で起きた奇跡のレコーディング
映画の概要をざっくり言うと、1985年に世界中で大ヒットしたチャリティ・ソング「We Are The World」。
その「たった一晩」で行われた奇跡のレコーディングの裏側を、当時の秘蔵映像と最新のインタビューで振り返るドキュメンタリーです。
収録は「一夜限り」の強行軍。
全米からスターが集まるチャンスは、音楽祭「アメリカン・ミュージック・アワード」の夜しかありませんでした。
授賞式が終わった深夜から、朝までの数時間で完成させなければならないという、とんでもないスケジュール。
マイケル、スティービー、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン……。
全員が「自分が主役」で当然の神々です。
そんな彼らにクインシー・ジョーンズが突きつけた条件が、
「CHECK YOUR EGO AT THE DOOR(エゴは一旦捨てろ)私訳」
誰がどのパートを歌うかを納得させるための緻密な根回し。
空腹や疲労でピリつく現場をどう回すか。
ライオネル・リッチーたちが奔走する、生々しい人間模様が描かれます。
一流たちが個人のプライドを捨て、
「一つの目的(アフリカの飢餓救済)」のために団結した、音楽史上最も贅沢で、最も熱い一晩の記録です。
1985年、10歳の私と「We Are The World」
1985年、私は10歳でした。
その前年から、テレビや新聞で知るアフリカの飢餓に心を痛めていました。
私と同い年くらいの子どもが、飢えに苦しみ亡くなっている。
飢餓の恐怖は感じられたけれど、地球儀で見てもすごく遠いアフリカ。
私は子どもだし、何もできない。
自分の住む世界から、あまりに離れすぎている。
10歳なりに、そんなことを考えていました。
そんなアフリカを救うために「チャリティーソング」というものが生まれ、
スティービー・ワンダーと愉快な仲間たちが
♪We are the world♪ と歌っている。
この売り上げがアフリカに寄付されるんだ。
そういう助け方ってあるんだな、と思っていました。
それが「スティービー・ワンダーの曲じゃない、マイケル・ジャクソンの曲なんだ」と知ったのは、25年後。2010年にハイチで大地震が起きたあとのハイチリリーフのとき。
⭐︎そのときのエピソードを書いたnoteはこちら
この映画を観た理由
私がこの映画に興味を持った理由は、
純粋に behind the scene を覗きたかったのが一番ですが、
なぜ10歳の私は、この曲をスティービー・ワンダーと愉快な仲間たちの曲だと勘違いしたのか
「We Are The World」の提唱者、ハリー・ベラフォンテがどのように関わっていたのか
この2つを知りたかったからです。
ハリー・ベラフォンテは、名曲の数々を赤ちゃん時代から耳にしていて、
「ペラポン」という愛称で呼んでいた黒人のおじさんです。
彼が社会貢献に生きた正義の人で、アメリカのレジェンドだと知ったのは、つい最近のことでした。
それも、彼が亡くなる直前です。
幼い頃から親しんだベラフォンテが、
この曲にどう関わったのか。
それを、この映画で見つけたかったのです。
プロジェクトの「中の人」視点で観る群像劇
私はこの映画を、「プロジェクトの中の人」の視点で観ました。ブランドのマーケティングで働く私には、“中の人”として観るのがしっくり。
演者に近い距離で撮影されていたから、臨場感満点です。私はケータリング担当スタッフ設定で映画をみます。
キャラ分析をしながら観ると、
この映画は超巨大プロジェクトを回す有能な人々の群像劇に見えてきます。
ライオネル・リッチー(シゴデキ)
彼はこのプロジェクトのPM(プロジェクトマネージャー)。
曲作り、司会、トラブル調整、寄り添い、そして現場の盛り上げ。
あの日、彼が一番働いていて、一番神経を削っていたことが伝わってきます。
今もアメリカン・アイドルで活躍中。養子のニコール・リッチーを育てあげ、ずっとBuZZの中にいる。本当にシゴデキなエンターテイナーなのですね。
マイケル・ジャクソン(裏方・支え)
スーパースターでありながら、
スタジオでは誰よりも謙虚に、自分のパートだけでなく
「全体のハーモニー」を完璧にしようとする職人気質。
彼の「純粋な音楽への愛」が、プロジェクトを静かに支えていました。
マイケルは、自分が露出しすぎることを避けていた。
チャリティーに自分の色が付きすぎることを懸念していたのです。
ハリー・ベラフォンテ(バックボーン)
彼がいなければ、この夜に「魂」は宿りませんでした。
全員で『バナナ・ボート』を合唱するシーンは、
このプロジェクトが単なるお祭りではなく、
「ルーツ」に基づいた祈りであることを思い出させる、映画一の名シーンです。
余談ですが、この映画で、ハリーベラフォンテがイケオジなことを発見しました。1950年代から売れ続けてるのは、人を惹きつける容姿も一因だったのですね。私はルッキズムを肯定したくないが、そんなことを感じてしまいました。
スティービー・ワンダー(無邪気な場作り)
無邪気すぎて、一時は現場がピリつきました
(スワヒリ語で歌おうと言い出した時など)。
けれど、彼の圧倒的な音楽の才能が、
全員に「あ、自分たちは音楽を楽しみに来たんだ」と再認識させます。
まさに、人たらしな魔法使い。
大御所でいるだけで格が上がるレイ・チャールズは、飛び入りで参加。収録当日はガヤのみ。
スティービーとともに存在感抜群。楽しそうなR&Bの巨人たちはポジティブなオーラを発していました。私の10歳の記憶に、鮮やかに刻まれています。
※レイ・チャールズのパートは、後日に追加で収録されています。
シンディ・ローパー(女子力ムードメーカー)
アクセサリーの「ジャラジャラ音」でNGを出してしまうチャーミングさ。
でも、彼女の声が入った瞬間、曲がパッと80年代の色彩を帯びます。
ややめんどくさい「女子力」が、
あの重厚な男性陣の中に、軽やかな風を吹かせていました。
人種と戦略、そして「エゴは一旦捨てろ」
このプロジェクトは、
ハリー・ベラフォンテの「白人が黒人を助ける」のではなく、「黒人が黒人を助ける」という意志から始まりました。
そこに「白人にも声をかけよう」という発想が加わること自体が、
80年代にまだ残っていた人種差別の空気を感じさせます。
80年代は、人種差別の「融和」の過渡期でした。
だからこそ、スタジオの入り口に貼られた
「CHECK YOUR EGO AT THE DOOR」
という言葉が重いのです。
その字がきれいで、クインシー・ジョーンズの“ちゃんとしてる人間”であることが伝わります。
そして、戦略的なキャスティング。
ベラフォンテの意志を、クインシー・ジョーンズたちが
「世界を動かすには、白人スターの力も必要だ」と広げた。
これは妥協ではなく、当時の社会を動かし、寄付金を集めるための冷徹なまでのプロデュース戦略でした。
ブルース・スプリングスティーンやボブ・ディランがいたからこそ、
当時の「白人の大人たち」の財布が開いた。
このプロジェクトには、一人も欠けることができなかった。
特に、ボブ・ディラン。
居心地悪そうにしていた彼が、スティービーに「ディラン風の歌い方」を教わり、
あの独特の声で歌い出した瞬間、スタジオの全員が笑顔になる。
あの瞬間、人種もジャンルも、音楽とスティービーの才能と、無邪気な人たらし力の前に溶けてしまった。
その感動は、スタジオの外にも広がっていきました。
25年越しで腑に落ちたこと
10歳の私が、
「We Are The World」をスティービー・ワンダーの曲だと勘違いした理由。
それは、彼がサビを歌っていたからだけではなく、スティービーの天才的な才能に人たらし力が加わり、彼が場の雰囲気を支配していたから。
そして、マイケルが売れる曲を作りながらも、
チャリティーの本質を理解し、裏方に徹していたから。
10歳の私が、スティービーやレイ・チャールズ、ライオネル・リッチーを認識していたことは、ハリー・ベラフォンテの「黒人が黒人を助ける」が、マーケティング的に成功していたといえるでしょう。
ハリー・ベラフォンテは、やはり偉大でした。
彼がこのプロジェクトの「心」であり、
アメリカのレジェンドだったことが、よくわかりました。
2023年、96歳で彼が亡くなったとき、
バイデン大統領が出した声明が、そのすべてを物語っています。
「功績は偉大だ。率直な主張、思いやり、人間の尊厳への敬意というレガシーは続く。偉大な米国人として記憶される」
本当の奇跡は「続くこと」
『ポップスが最高に輝いた夜』で見えたのは、
単なる behind the scene ではなく、
才能と心が重なった奇跡の物語でした。
「We Are The World」による寄付は、
2024年時点で総額1億6000万ドル(約240億円)以上とされています。
この数字の背景には、
公開当時の熱狂だけでなく、
数十年経った今でも曲が再生され続け、
印税や使用料がアフリカへの支援に回り続けている「持続的な力」があります。
本当の奇跡は、一瞬でなく、続く。
ちなみに、日本政府は、1984年から1985年にかけて、アフリカに対し合計約600億円(当時の為替レートで約2.5億ドル)規模の支援をしました。しかし、世界からの評価は、支援の金額は高いが、「顔が見えない支援」。10歳の私にも届かなかった。
うっすら毛布を集めていた記憶。その毛布も、エチオピアの港で山積みになって、どうやって人々に届けるんだ!と非難されてなかったっけ。
しかし、その国際的な評価が、「TICAD(アフリカ開発会議)」などの日本独自の支援スタイルへと繋がっていきました。
1985年は、大きなターニングポイントだったのです。
日本の支援は奇跡ではないけれど、たしかに続いています。
すごくいい映画でした。
おすすめです。
マーケティング編に続く
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