なぜ理想を掲げた若者たちは、仲間を手にかけたのか
学生運動は「熱い青春の物語」だと思っていた
ヘルメットと角材、立てこもったキャンパス。一九六〇年代後半の学生運動を、私は長らく「理想に燃えた若者たちの、少しまぶしい青春の一場面」として思い描いていました。体制に逆らい、未来を信じて声を上げた人たち。そう整理しておけば、わかりやすくて気持ちがいい。けれどその整理には、いつもどこか据わりの悪さがありました。だってその運動は、なぜあれほど唐突に、社会から見放されるように消えていったのか。理想に燃えていたなら、なぜ続かなかったのか。その問いに、私はずっと答えを持てずにいました。池上彰さんと佐藤優さんの対談『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 一九六〇−一九七二』は、その据わりの悪さの正体を、静かに、しかし容赦なく解きほぐしてくれます。
池上彰著・佐藤優著『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 一九六〇−一九七二』はこちらから読めます。
「敵」が外にいなくなったとき、刃は内側を向いた
本書がたどるのは、六〇年安保から内ゲバ、そして一九七二年のあさま山荘事件へと至る十二年間です。私が衝撃を受けたのは、連合赤軍が群馬の山岳ベースで起こした事件の記述でした。運動の挫折と孤立のなかで、彼らは「総括」と称して仲間への糾弾を繰り返し、二十九人のうち十二人もの同志が命を落としたとされています。外にいたはずの「敵」が見えなくなったとき、純化を求める論理の刃は、最も身近な仲間へと向かっていった。そしてこの事件が広く報じられたことで、それまで運動に同情的だった世間の空気が、幻滅へと一気に反転したと指摘されています。池上さんはここで、理想そのものではなく、理想を扱う人間の組織がどう壊れていくのかという、もっと普遍的な問いを立てます。本書ではさらに、六〇年安保をめぐる社会党と共産党の対立、新左翼の理論家たちが何を信じていたのか、そして運動がどのようにセクトへと枝分かれしていったのかについても踏み込んで語られており、なぜ運動が分裂を重ねたのかが立体的に見えてきます。一面的な善悪では割り切れない人間の集団の力学を、ぜひ本書で確かめてみてください。
「あの時代」を見る目が、今の自分の足元に返ってくる
この本を読む前、私にとって学生運動は完全に「遠い昔の他人事」でした。けれど読み終えたあと、ニュースで何かの集団や運動が内部分裂していくのを見るたびに、あの山岳ベースの論理がよぎるようになりました。正しさを突き詰めた集団が、なぜ最も近い人を排除し始めるのか。それは六〇年代特有の出来事ではなく、職場でも、ネット上の議論でも、形を変えて起こりうることだと感じるようになったのです。たとえば些細な意見の違いで仲間が敵に変わっていく様子を見たとき、以前なら単なる人間関係のもつれとしか思わなかった場面に、純化の論理が働いていないかと立ち止まるようになりました。歴史を「他人事の物語」ではなく「自分の足元を照らす鏡」として読めるようになった。この変化は、私の日々のものの見方を確かに深くしてくれました。
知らないままなら、私はあの時代を誤解し続けていた
あの運動を青春の美談として片付けていたら、私はその先にある一番大事な教訓を、永遠に取りこぼしていたはずです。池上彰さんは長年ニュース解説の第一人者として複雑な事象を噛み砕いてきた書き手であり、佐藤優さんは外交の最前線を知る作家として組織と思想に通じています。立場の異なる二人が対話を重ねるからこそ、一方的な断罪にも美化にも傾かない、奥行きのある左翼史が描けるのだと感じました。自分はあの時代を本当に理解していただろうか。そう思った方にこそ、手に取ってほしい一冊です。
池上彰著・佐藤優著『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 一九六〇−一九七二』はこちらから読めます。
※本記事にはアフィリエイトリンク(PR)が含まれます。
