探究学習を身近にするには?考

先日、高校で盛んに行われるようになった探究学習が、大学の先生らを困惑させる「探究公害」となっている話題について考えた。

「探究公害」考
https://note.com/shinshinohara/n/n7745ffbbb8e2?sub_rt=share_b

今回は、どうやったら探究学習が子どもたちにとって身近なものにできるかを考えてみたい。

というか、授業のときから探究のクセをつけたらいいんじゃないかと思う。

たとえば英語で、主語以外は動詞も目的語も同じ英文を並べて、「さて、なんか法則性に気づいた人はいるかな?」なんて問いかけたら、HeやSheなどの英文にはなぜだか動詞にエス(s)がついてることに多くの生徒たちが気づくだろう。

数学なら、
①A+B=C
②A+B-B=C-B
③A=C-B
に具体的な数字を当てはめたりして何度も計算をすることで法則性を生徒が感じ取り、
「もう面倒だから②をすっ飛ばそうよ!」
と多くの子どもたちが言い出すまでしつこく繰り返す。すると、イコール(=)の逆側に動かしたらプラスがマイナスに変わる「移項」というテクニックを子どもたちは発見するだろう。

そんなこと、子どもたちにわざわざ発見させなくてもさっさと教えりゃいいじゃないか、と思う人も多いだろう。先人が法則をあらかじめ発見しておいてくれたのだから、それを覚えりゃいいだけ、覚えるだけなら効率的ではないか、と。しかし私はそうは思わない。

人から教えてもらったことは感動がない。なんならツバついた感じで興味を持てない。学力に秀でた子は「これで他の子にさらに差をつけられる」と思うからか、教えてもらったことも喜んで覚えようとするけど、成績がそこまででもない子は「また覚えなきゃいけないのが出てきた、覚えなければまた親や教師や同級生にバカにされる」と思うとウンザリする。気が進まない、気が重いから覚えようという気が起きない。

でも教えられることなく、自分で法則性を発見するという問いは、クイズに取り組むようでちょっと面白い。授業のスタイルをこのように「法則性を自分で発見する」という形にすると、自然と探究的な姿勢がつくように思う。

「そんなじれったいやり方では学習速度を上げられない」という人も多いだろう。そうだと思う。しかしこうしたやり方だと、多くの子どもは記憶と理解がしっかりすると思う。知らないところから法則性を探し、それを発見するという過程を経ると、理解も記憶もしっかり刻まれる。拙速に暗記させようとするよりも学習効果は高いように思う。

そして、普段の授業からこうした「法則性を自ら探し、自ら発見する」ということが習慣化していると、普段の生活でも法則性を発見するクセがつきやすいように思う。

探究学習は高校からのカリキュラムらしいけど、中学生の頃からこうした授業を受けていたら、探究学習にすんなり馴染めるように思う。中学卒業まで暗記ばかりさせられてたら、そりゃ探究やれと言われてもどうしたらよいのか戸惑うばかりだろう。

私は我が子に、ほとんど何も教えたことがない。幼児期に「なぜなに期」を迎えるのが普通だが、うちは子どもが「なんで?」と不思議がっていたら「なんでだろう?」と親まで不思議がるので、事実上「なぜなに期」に親を質問で困らすことがなかった。不思議に思うことが見つかると、親と一緒になってい仮説を立て、その仮説を検証するにはどんな実験をしたらよいか考えた。それらの疑問は既に答えの知られるものであってもそうして一つ一つ仮説を立て、実験して検証し、発見してきたからか、仕組みの理解が深いし、記憶もしっかり刻まれているし、その後に出会う疑問に対して立てる仮説の精度と実験方法の巧みさが増して、探究する力が自然と高まったように思う。

「車輪の再発明」という言葉がある。既に車輪は発明されてるのに車輪を自ら発明した!画期的だ!と喜ぶ愚かさを笑う言葉なのだけど、私は、こと学習において「車輪の再発明」はとても重要だと思う。車輪は日常生活で目にしているから私たちは知った気になっているけど、自分でさあ作ってみようと思ったら大変難しい。きれいな円形を作り出すのも難しい、車輪に車軸が垂直になるように維持するのも難しい、車軸がこすれてすぐ劣化するのをどうしたものかも大変。自分でイチから車輪を作ろうとすると、その大変さがよくわかり、車輪が知恵のカタマリであることがよくわかる。

人類が既に発見してきたことを再発見することは、生命の「発生」に似ているように思う。お腹の中で赤ちゃん(胎児)が育つとき、魚と同じようにエラが見られる時期がある。人間が魚から進化したことを示す証拠だと言われている。人間が魚から進化したのはもう相当昔の話だと思うが、生命は魚だった時代をいまだになぞっている。学びも、発見するという過程をなぞり直しても構わないと思う。生命自体がそうしてるのだから。

授業と探究を分けて考えること自体、私はもしかしたらナンセンスなのかも、と思っている。授業そのものが、知識のないところから始め、現象をよく観察して法則性を見出し、そこから仮説を立てて実験し、仮説の妥当性を検証する。授業を探究そのものの形で進めるなら、ことさら探究学習を別途実施する必要さえなくなるように思う。

私はそもそも、あらゆる学習は探究的にしたほうが楽しいと考えている。そのほうがクイズみたいで楽しいから。暗記はつまんない。発見済みのことをただ覚えるなんて面白くない。クイズだって答えがあるのは分かっているけど、自分の力で発見することができるか腕試しすることが楽しいではないか。ならば学習だってクイズみたいに進めりゃいいのに。

私が指導していた子で、すぐ教えてもらいたがる子がいた。ところがその子はその場をしのげればいいだけなので、教わったその翌日には忘れてしまう。そこで私は教えないことにした。「先生、これ教えて」と聞いてきても「教科書を読んでご覧」と言って、新聞を読んでいた。
「少しくらいヒントくれてもいいじゃん。ねえ、お願い!」と言ってきても「教科書を読んでご覧、分かるから」と言ってまた新聞に戻った。
私が教えようとしないから仕方なく教科書開くけど、できるだけ手を抜きたいから「このへんかなあ・・・」と言いながら私の目を覗き込む。なんとかアタリをつけようとして。
「そう思うなら読んでご覧」というと、やった、アタリがついたと思って読んで始める。ところが当然ながら、まるで見当違い。「ケチ!ちょっとくらい教えてくれたっていいでしょう!」と怒り出した。
私は新聞を置いて「大丈夫、君なら教科書を読めばわかる。教科書を最初から読んでご覧」と正面向いて語りかけた。
その子は「わ!か!ら!な!い!って言ってるのに!」と悔しがって、突っ伏して泣き始めた。
私は少し様子を見たあと、「大丈夫、落ち着いて教科書を見てご覧、今取り組んでいること似たところがあるから」と語りかけ、また新聞に戻り、落ち着くのを待った。
その子はしばらく泣き続けた後、これ見よがしに「はあ〜っ!」と大きくため息をついて、仕方なさそうに教科書を読み始めた。すると似たところを発見し、「先生、ここ、似てる」。
「おお、よく気がついたね。そこをよく読んでごらん。やり方が分かるから」というと、何度も繰り返し読んで、その通りに問題を解いてみた。
「先生、見て」
丸付けすると、大正解!「よく自力で理解したな」と言うと、さっきまで泣いていたくせに「いやあ、ここ、似てると思ったんだよね!」と興奮、とても嬉しそう。
「その調子で、他のところも教科書を読んでは解いてご覧」と言うと「うん!」と言って取り組み始めた。
自分で教科書を読み、解き方について仮説を立て、その仮説に基づいて解いてみる、という習慣がついた頃、少し理解に手間取ってるところがあったとき、「ん?難しい?教えたろうか?」と言うと、「教えないで!自分の力で理解するから!」と言って拒否した。すぐに教えてもらいたがった子だったのに、えらい変わりよう。

このように「教えない教え方」をすると、子どもは自分の力で理解することの喜びを再発見する。教科書に解き方は書いてあるかもしれないけど、あまり勉強に自信のない子は、自分の理解が果たして正しいか心もとない。もしかしたら大変な思い間違いしてるかも?と、過去の手痛い体験の多さですっかり萎縮してしまっている。しかし。
自分で教科書を読み、「こういうことが書いてあるのでは?」と仮説を立て、その仮説に基づいて練習問題を解き、自分の理解(仮説)が果たして正しいかどうかを確かめる、という作業を繰り返すと、それはクイズを解くように楽しい作業になる。そして、観察し、仮説を立て、実験・検証するというステップは研究そのもの、探究そのもの。
教科書の内容を理解し、記憶するという作業も、実は探究的に取り組める。子どもたちの普段の学習スタイルを探究的にすれば、探究学習で困り果てる子どもはほとんどいなくなるだろう。「いったいこれはどういうことだ?」と「問う」姿勢が日常的なものになれば、「探究公害」と呼ばれるような現象はまずまず起きなくなるだろう。

授業のあり方を思い切って変えてみること。それが有効なのではないか、と私は考えている。探究は何も特別なことではない。赤ちゃんの頃から幼児は日常的に行ってる行為なのだから。それを再び日常に取り戻せばよいだけ。私はそんなふうに考えている。

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