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繋がる街道〜『べらぼう』紀行③

  少し時間が空いてしまいました。まだまだ寒い日が続きます。受験生の方たちは体に気を付けて頑張ってくださいね。私は4月から自分の仕事環境が大きく変わります。不安はありますが趣味の時間が増えそうではありますので、いろいろな本を読んだり、歴史巡りをしようと思っています。できればもう少しきちんとまとめをしてみたいです。
 さて、前回の『べらぼう』紀行②の続きです。

 田沼様の相良藩には荻間川という大きな河があります。

仙台河岸には千石船が横付けできたという

 この荻間川に架けられたのが湊橋です。
 この湊橋を起点として藤枝宿に合流するまでの約7里(28㎞)はいつからか田沼街道と呼ばれるようになりました。

現在の湊橋
相良小学校前には旧湊橋の親柱が保存されている

 江戸時代の五街道の一つ、東海道57次(京都までが53次、さらに大阪まで延ばされ57次となった)のうち、最大の難所は大井川でした。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

 岡部宿~藤枝宿~嶋田宿(江戸→大坂)とやってきて大井川を渡ると金谷宿ですが、増水時には川留めとなってしまい、嶋田宿には人があふれたと言います。
 江戸初期は自力で渡ることができ、浅いところを選んで渡ったり、人足を頼んで渡してもらったりしていたのが、元禄9年(1696)幕府が嶋田宿に川会所を設け、川留め、川明けの指示を出すことになりました。ここで川札を購入しなければ渡ることができず、その料金は当日の水位、人足の数(肩に乗るか、台に乗るか)によって決められました。最大で28日も足止めを食うこともあったそうです。こんなのいくら金があっても足りないですね…しかし、ここ以外での渡河は(表向き)禁止されており、従わないと捕まるかあるいは罰金が課せられました。

大井川の川越制度は明治3年に廃止となった。現在は橋が架かる。

 この渡りを迂回するようにつながるのが田沼街道でした。相良~川崎~吉田~相川~高洲を通って、東海道の藤枝宿へつながる脇街道です。この街道でも大井川を渡りますが、金谷ー嶋田間よりもだいぶ川下になります。その場所では川幅が広がり、浅くなっていたので渡りやすかったようです。

下流の方が川幅は広いが浅く、流れは穏やか

 本来は決められた道以外で大井川を渡ることはご法度で、捕まれば罰を受けます。しかし、船を出すなど川越に手を貸す人足は多くにぎわったといわれています。
 田沼様がこの道を通ったとされているのは実は1回のみ(相良藩入りした帰りのみ)で、あとは相良藩の家中のものたち、相良から公用の荷物を江戸屋敷へ送るときなどで使われることが多かったようです。そういう意味ではむしろ、田沼様の絶大な権力を示す街道ともいえるかもしれません。庶民はその御光にあずかって、ありがたく利用していたのでしょう。

田沼街道

上記の地図は静岡県公式ホームページから
令和6年度認定遺産
『田沼街道とまぼろしの城』  牧之原市、藤枝市 より

 この田沼街道が通過する場所に、大鐘家という国の重要文化財があります。

長屋門
18世紀後年の建立。寄棟造茅葺屋根で、頭には格式をあわらす千木と笠木が立つ
アジサイの時期は綺麗だそう。
田沼街道が家の前を通る
田沼街道
石垣は相良城のもの。打ち壊される時になんとか残すために同家が買い取ったという。
多い時には40人以上の召使を雇ったという。土間にあるのは使用人用の竈。約30人分の煮炊きができるだとか。
主人用のは座敷竃(へっつい)

 大鐘家は名古屋市高針出身で、現在も高針には大鐘さんというお家がたくさん残っているのだそうです。1597年に柴田勝家の家臣となり、その後甥である柴田勝豊に越前丸岡城家老「大鐘藤八郎貞綱」として仕えました。勝豊はその後近江国長浜城主となり、秀吉に下ります。家臣である大鐘家も秀吉側として賤ケ岳の戦いでは柴田勝家と戦いました。その後勝豊は病死し、後に長浜城主となった山内一豊の命により遠州相良に移住しました。江戸初期には旗本三千石の格式をもち徳川に使えましたが、十八世紀初めに大庄屋となりこの大鐘家館を築きました。現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟』の撮影隊も近くに来られたとか(もちろん『べらぼう』でも)。
 大鐘家屋敷は一万坪あり、約一万株の紫陽花があるそうです。また、裏山からは富士山・駿河湾が一望できます(この日は天気が悪く見えませんでした)。
 現在も24代目の大鐘さんが住んでいらっしゃいます。

立派なひな壇
小堀遠州作*庭の庭と伝わる

*天正7年に近江国坂田郡小堀村に生まれる。
父はもともと浅井家の家臣であったが、出家後還俗した後は豊臣秀長に仕え、秀長に従い郡山に移る。秀長の死後は秀吉の直参となるが、秀吉の死後は徳川家につき、その功を認められ備中松山城の守護となった。父の死後その遺領を受け継いだ。
遠州の妻は、藤堂高虎の養女。二代将軍徳川秀忠の時に後陽成院御所の作事奉行となる。駿府城作事の功績を認められ、従五下遠江守に取り立てられたことにより、「遠州」として活躍するようになる。元和9年より伏見奉行となり、以後没するまで同職だった。
 千利休・古田織織部とともにお茶の御三家として有名だが、二条城二の丸庭園、仙洞御所、南禅寺方丈庭園、桂離宮、金池院の庭など、作庭家としての面も持つ。

芸術新潮 1996年2月号『謎の達人 小堀遠州』より

 裏には蔵があり、自由に見学をすることができます。江戸時代を通して同家がいかに隆盛を極めたのかがうかがわれます。

田沼意次より拝領の酒杯、什器
薬の道具…なぜ源内先生の名が…?もしかして…
十返舎一九の掛け軸
英一蝶
渡辺崋山(馬上の武士)と椿椿山(桜)の合作
本居宣長
和歌ー東歌能婦里


 相良という地は、もうひとつ大事な道の起点となっています。命を左右するといってよい「塩」を運ぶ道です。
 奈良や平安の時代には塩づくりは「藻塩焼き」でされました。この製法では不純物が多く、取れる塩はごく僅かでした。江戸時代以降、塩作りは急激な発展を遂げます。しかし、信州のような海のない地では塩を作ることができず、海岸の国々から塩を運んでくるしかありませんでした。信州へ入る塩は、南の太平洋からの「南塩」と日本海岸からの「北塩」があり、それぞれ上塩・下塩とも呼ばれました。このルートは9つあり、その一つが「相良・秋葉道ルート」であったのです。

 相良の浜岡砂丘は、御前崎灯台に向かって広がっておりその風紋は太平洋岸随一と言われるそうです。

さらさらの細かい砂が美しい
波は穏やか

 塩は「揚浜式製塩法」で作られました。

①海水を大桶で運び、汲み溜める
②砂浜の砂をならし、海水を手酌桶、あるいは柄杓で撒く(塩田)
③竹の棒を櫛状に編んだ道具で塩田の砂に筋目を入れ、乾燥させる
④乾燥させた砂を集める
⑤籠に集めた砂へ海水を上からかけて、海水を籠の下の穴へ溜め、これを汲み出す
⑥窯に入れて終夜煮しつめる
⑦米の糠を一掴入れてそれが固まったら、塩の完成

『越境はるか 塩の道 秋葉街道』
有賀競・野中賢三より

めちゃくちゃ大変ですね…貴重なわけだ…

「塩の道」起点
となりには秋葉灯籠

 相良からの「塩の道」は秋葉街道でもありました。火伏(火防)信仰を集めた秋葉道は、塩や魚を運んだ生活道路でもあったのです。

 最初の難所である園坂を登ると須々木原である。ここから牧之原台地の一本道が続くが、朝比奈原字京松原に「ばんじだな」と呼ばれる荷継場兼茶屋があった。更に北原・新野原を経て小笠町高橋に来ると、「馬茶屋」と呼ばれる茶屋があり、ここで塩売り・魚売りは休憩したという。

静岡県歴史の道『秋葉街道』静岡県教育委員会

 小笠原町の平地に抜ける約二キロメートルの間が塩買坂と呼ばれている。掛川方面から塩の仲買人がやって来て、相良から運んできた人たちから塩を買ったので、ここを塩買坂と云った。

『越境はるか 塩の道 秋葉街道』

 こうして相良から運ばれた塩は東海道・掛川まで運ばれました。

現在の掛川駅南口

 掛川で取引された塩は問屋商人たちによって北遠経由(天竜、水窪、佐久間町など、天竜川上流域)で信州方面へ運ばれていきました。信州には材木はたくさんあるものの、生活物資、特に塩がありませんでした。江戸初期には、有り余る木材を売って塩を買ったことからこの材木のことを「塩買木」と言ったそうです(中期以降は三河、富士山から瀬戸内海の塩が中馬によって運ばれるようになった)。
 掛川宿はわずか900mと規模が小さく、飯盛旅籠のない珍しい宿であったといわれます。大池橋を越えると秋葉道との分岐に差し掛かり、そこから30㎞ほど北に秋葉神社がありました(現在は秋葉神社遥拝所が整備されています)。掛川宿から秋葉山を回り、秋葉山から再び南下して浜松宿へ出る人、掛川・浜松宿間の袋井・見付宿(西国からは来た御油宿と繋がる脇街道もあった)から秋葉山に足を延ばす人など、参詣者は多く、旅の手引きとなる道中案内記が作られるほどだったといいます。秋葉山への沿線上には旅籠もたくさんあり、馬、駕籠、医者、あんまなどもありました。
 この秋葉街道が「塩の道」として使われたのは、参拝のためたくさんの人たちで賑わう道であったためなのでしょう。信仰の道と生活の道が同じである、というのは面白いですね。

掛川城も見たかったが、風が強い日だったので断念…
代わりに「掛川鳥蝶花園」に行きました
ハシビロコウ「ふたば」にあってきました

 江戸時代は、全国を繋ぐ街道が整備されたくさんの人たちが宿場町を行き交いました。大名たちの参勤交代の道というだけでなく、庶民もまた自由に旅行ができたというのにいつも驚きます。商人たちは何度となく街道を行き来したことでしょう。そうしているうちに「なんとかショートカットできる道はないものか」と思うのもわかる気がします。そうやってできてきた脇街道の一つ、田沼街道。この道を使ってこっそりと大井川を越える時、かつての相良の街の賑わいを知っている人達の話を聞きながら、田沼様に思いを馳せたのではないか…と思います。名を貶められた田沼様ですが、街道にその名を残すのは憎しみとは真逆の思いからであると思うのです。
 もう一つの相良からの道。人々の祈りの道としての秋葉街道と重なった、人が生きるために必要な物資を運ぶ生活道としての「塩の道」は、今はほとんどが山の中に消えていっています。けれど、ふとした時に蘇ってくる過去のその道は現代の私たちにもつながっているのでは、そんな気がします。

参考

Tokaido.3『東海道と脇街道』 小杉 達 静岡新聞社
『越境はるか 塩の道 秋葉街道』 文;有賀 競 写真・イラスト;野中賢三  
『歩いて学ぶ東海道 57次』 志田 威 静岡新聞社
芸術新潮 1996年2月号『謎の達人 小堀遠州』
静岡県歴史の道『秋葉街道』 静岡県教育委員会
『塩の道』 宮本常一 講談社学術文庫

 2026年1月11日