南朝の面影〜「井伊谷宮」と「方広寺」
2025年8月15日、お盆休みを利用して名古屋から1時間ちょっとで行ける舘山寺温泉へ。子供が小さい頃は、舘山寺ロープウエイや、浜名湖パルパルによく連れてきていたものです。さすがに子供も大きくなり、ガイドブックに載っていた”日本庭園は東海随一!”の「龍潭寺」へ行くことに!!




しかし!!8月15日のお盆真っ只中。井伊家の檀家さんたちの法要の日であり、お庭へは入ることができませんでした…

庭が見られなくてしょんぼり…






後醍醐天皇は、南北朝時代の幕開けとなった天皇であることは誰しも知っているでしょうが、その皇子たちについてはほとんど知られていないと思います。戦前は、南朝方の圧倒的劣勢の中、楠木正成は「天皇ために最期まで身を捧げた忠臣」として称えられ、圧倒的劣勢である太平洋戦争下では国威発揚に使われました。敗戦後『太平記』は授業ではほとんど取り上げられることはなくなり、取り扱い注意、というような雰囲気がありました。
最近、能楽師の安田登さんが、『NHK100分de名著』の番組で『太平記』を取り上げて下さり、意外と面白いな、と思ったもののあまりの長さに読み通していません…
後醍醐天皇には、一説には、18人の皇子、16人の皇女がいたとも伝えられ、その子供たちを手足のように使って全国を支配しようとしました。
宗良親王は第四皇子です。母は、二条為子、つまり藤原俊成、定家に連なる歌人の家系でした。小さい頃に母が亡くなり、八歳で仏門に入りました。十五歳で妙法院の門跡を継ぐまで、母の生家において外祖父・為世から幼い頃から歌の指導を受けていた、と言われます。
後醍醐天皇は、兄、後二条天皇が亡くなったための中継ぎ天皇でしたが、「理想」の治天を目指し倒幕を画策します。天台座主であった護良親王(大塔宮)を還俗させ軍事を任せ、代わりに宗良親王を天台座主に就任させます。延暦寺の擁する衆徒は潜在的かつ強力な戦力であり、また南都興福寺、東大寺などの情報ネットワークの要でもありました。延暦寺は「国家守護」ための寺でありますが、護摩を焚き祈るのは「国家」すなわち「天皇」のためともいえるのです。天台座主というのは、後醍醐天皇にとってなくてはならない後ろ盾でもありました。
しかし、後醍醐天皇のたびたびの国家転覆計画は幕府に露見し、「元弘の変」では天皇、一宮であった同母兄の尊良親王ともども、配流の憂き目に遭います。宗良親王は、讃岐へ流されました。
天皇不在時に護良親王と楠木正成は精力的に働き、やがては倒幕へ加担するものが増えていきます。宗良親王もまた、監視人である豪族の風見鶏的変心により、配流地を脱出することができました。
足利尊氏の幕府からの離反が決定打となり、北条高時の死をもって鎌倉幕府は滅亡、やがて建武の新政がスタートします(このとき逃げた高時の遺児、時行が『逃げ上手の若君』のモデル)。
しかし、余りにも現実の政治とかけ離れた建武の新政は二年で頓挫します。尊氏を気を付けるようにと再三護良親王が注進していたにも関わらず、親王は遠ざけられ、やがて足利方に幽閉され、最後は惨殺されます。これは足利側と後醍醐天皇の寵妃である廉子の画策であるともいわれますが、私は後醍醐天皇の思惑が入っていたのでは、とも思います。自らが不在のうちに、軍をまとめ上げ、強将である楠木正成をも抱える親王が煙たくなり「自分がトップに立ちたい」という強烈な欲望のもとに、親王の処遇については知らんぷりを決め込んだのでは、と思うのです。
護良親王が亡くなった時点で、おそらく楠木正成は後醍醐天皇の行く末を予測出来ていたのでは、と思います。そして自身の行く末も諦観していたのだと。なぜなら『太平記』の中でも有名な「桜井の別れ」で、息子、正行に遺言を残しているからです。正成が最期に弟と刺し違えて死ぬ場面は、よく読むと後醍醐天皇を讃えているわけではありません。
穿った見方をすれば簡単に取り換えのきく「天子」の時代、「天が選ぶ正しいもの」こそが天皇であり、決して「自ら名乗りを上げるもの」が天皇というわけではないといえるでしょう。
尊氏はあくまでも忠誠を訴え、天皇側との和睦となります。天皇は、和睦に反対する新田義貞に、皇太子・恒良親王を奉じて越前へ下がることを指示し、遠ざけます。尊良親王も越前行きに付き添いました。
天皇は各地に皇子たちを派遣し、全国へ勢力を伸ばそうとします。
宗良親王は北畠親房ととに伊勢へ向かいました。鎌倉には成良親王を足利直義とともに派遣しています。懐良親王は九州の大宰府を目指しました。
しかし、皇太子を越前に下がらせたことに不審を感じた尊氏は、越前金崎城を攻め、死の覚悟を決めた尊良親王は自害します(いち早く義貞は脱出。息子が尊良親王とともに自害)。なんとか脱出した恒良親王も捕えられ、成良親王とともに幽閉され、最後は毒殺されました。
足利尊氏は室町幕府を打ち立て、光明天皇が即位しました。ここに南北朝時代が始まりました。


さて、井伊家と宗良親王のつながりは、どうなっているのでしょうか。
宗良親王は、1336年に北畠親房とともに比叡山から伊勢へ着きますが、後醍醐天皇が吉野へ行宮を遷したとの知らせを受け、慌てて天皇のもとにはせ参じます。そこで親王は、還俗して、遠江・井伊城へ下向せよとの勅を授けられます。
北畠親房は、長男、花将軍こと顕家と共に義良親王を奉じて奥州へ赴きます。北畠顕家は、この地に鎮守府将軍として駐在することになります(中尊寺には、現在も彼による『中尊寺供養願文』が残ります)。
遠江で宗良親王の派遣を強く望んだのは、朝廷に忠誠を誓う武士、井伊介道政でした。天皇は宗良親王をこの井伊城へと派遣させることにしたのです。
井伊家は平安、一条帝の時代に、藤原備中守共資が赴任したのにはじまり、以後、十二代当主道政まで二百八十年にわたり国守を務める名門でした。この地で親王が読んだ歌、道政の娘駿河姫との恋の歌などは、私歌集である『李花集』に収められています。
井伊谷宮はこの時、親王が在した井伊城のあった場所であるといわれます。宗良親王の陵や井伊谷宮は井伊氏の負担で整備され、明治時代に政府に認められました。


金崎城を落とされた南朝方は、北畠顕家に関東討伐、京の制圧を命じます。親王も顕家の軍に合流し、三河、尾張とたどっていきます。またこの時に、北条高時の遺児、北条時行も合流しています。戦いはいよいよ激しさを増し、宗良親王は義良親王とともに途中で離脱し、吉野の行宮へ帰着します。おそらく時行も同行したのでしょう。
この後、北畠顕家は戦いの中で21歳の若さで亡くなります。
宗良親王の再度の遠江への派遣が決まり、伊勢の大湊から大船団を組んで出航することになりました。時行はここに加わっていたようです。しかし、船団は暴風雨にあい、義良親王の船は伊勢へ押し戻され、宗良親王と時行の船は漂流しながらもなんとか遠江の湊へと達しました。
遭難の報を知り、井伊道政は親王一行を井伊城に迎え入れました。時行はしばらく井伊城で過ごしたのち、信濃の諏訪氏を頼っていきます。井伊城で尊氏に抵抗すること4年、後醍醐天皇がその年の八月十六日に崩御します。後を継いだのは、義良親王(廉子の息子)で、後村上天皇となりました。
井伊城が劣勢になる中、宗良親王は時行とのつながりを頼りに信濃へ行くことを決意しますが、信濃勢は大徳寺城の戦い(1340)によって敗れたため、行く先を越後、越中へと移します。ちなみにこの時も時行は逃げ延びています。
親王は、越中で剃髪し、再び仏門へと入りました。息子を失った北畠親房は、さかんに親王と歌のやり取りをしています。
1341年楠木正成の息子、正行の反撃は高師直によって潰えました。
高師直と足利直義との争いから始まった観応の擾乱(1350)は、再び南朝を動かすことになります。1352年、親王は征夷大将軍に任じられ、諏訪氏をはじめとする信濃勢を引き連れ鎌倉に攻め入ります。これには時行も同行しています。しかし、最後には小手差原で敗れ撤退することになりました。この後、時行は囚われ処刑されました。
親王はその後、越後、信濃と転戦した後、信濃国大河原で香坂高宗の手厚い加護のもとに余生を送ることになります。宗良親王が信濃宮とも呼ばれるのは、この地に30年以上も暮らしたからです。
宗良親王は、私歌集である『李花集』だけでなく、二条家の威信をかけた南朝方の勅撰集である『新葉和歌集』の編者となりました。



龍潭寺・井伊谷宮にほど近いところに『方広寺』というお寺があります。ここもまた、南朝の面影の残る寺です。
開祖は後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師です。井伊家の一族である奥山朝藤から寺院創建の依頼を受けた禅師は、遠江に関係の深い宗良親王に協力を仰いだといわれます。信濃の大河原に住まいしていた親王を訪ね、後醍醐天皇の供養をともにすることを約束したのでしょう。

個人の寄進によるもの。









脇侍がどちらも、学問関係なのがいい。

皇室ゆかりの寺でもあり、葵と菊の御紋とが並ぶ。

勅使の出入りした玄関。





無文元選禅師が中国から船で帰国する際に、台風に遭遇しました。そこに鼻の高い偉人が現れ「無事に送り届けましょう」と言い、博多の港に導いたとされます。禅師が方広寺を開いたときに再び現れ、弟子となりました。禅師が亡くなった時にはこの山を守りますと言って姿を消したそうです。
境内は明治14年の大火で焼けており、唯一残ったのが七尊菩薩堂でした(火を消してまわる人影を見たとの言い伝えも…)。


禅師が帰国し、行脚の途中で天竜川を渡る際に竜神が現れその背を橋として渡したという。竜神は方広寺を開山した時に現れ、女身となって「成仏させてください」と願ったため、法華経で身を撫ぜたところ解脱し、「永久にこの山の水をお守りします」といって消えていったという。
法華経というモチーフからも典型的な「龍女成仏」ですね。
鎌倉仏教(神仏習合)から室町に全盛となる禅宗の移行期のようなお話が面白いですね。
椎河龍王、半僧坊大権現、七尊堂を合わせて、奥山三社と言われているそうです。

禅師が中国で五百羅漢を奉拝された故事にちなみ江戸期に作られた。自分に似た顔はあるかしら…


沙羅双樹の樹も
お盆の真っ只中、暑いこともあってか、参拝の方はほとんどいませんでしたが、境内は美しく保たれていました。地元の人たちに愛されているんだな、という印象です。木々が綺麗な春や秋に来てみたいですね。こんな素晴らしいところで息子たちに供養される御醍醐天皇は幸せですね…
戦前の教育では『太平記』が使われ、天皇への「滅私奉公」の教科書とされたというのがとても不思議です。今の私からすると、”現実を知らず、廻りの意見を聞くことのできない理想だけの「天皇」に振り回される部下や周囲の人間は、痛みと破滅しかない”、「トップがダメなら、どれほど有能な配下があろうとも未来はない」という真理がズバリと書かれているとしか思えないのですが。
天皇に振り回されて一生を終えた皇子たちは果たして何を思ったのでしょうか。何も残すことなく命を落とした皇子がほとんどで、その声は決して聞こえることはありません。
しかし、その中で、歌人であった宗良親王は自選集である「李花集」と、勅撰集である「新葉和歌集」で、無文元選禅師は、「方広寺」という寺の創建で後世に名が残りました。
本来の一宮(皇太子候補)は、宗良親王と同母であった兄、尊良親王でしたが、彼は20歳前後で元弘の変で配流、帰還後は廉子の子が皇太子となります。最期は天皇に派遣された越前で敵に囲まれ自害しています。宗良親王は兄の歌を「新葉和歌集」で44首も収録しています。
もっとも彼らにしてみたら「名」を残すよりも現世を好きなように生きたかったのではないでしょうか。自分とは関係のない思惑で始まった戦争で一生を終わってうれしい若者などいないでしょう。
宗良親王の行く先々に、北条時行が現れますが、彼らの間に何らかの交流はあったのでしょうか。親王は、時行の自らの宿願(尊氏に対する復讐)のために、自在に動き廻り、時には北条を滅ぼしたともいえる南朝に与することもいとわない柔軟な姿勢をどのように眺めたのでしょうか。とはいえ時行もまた語る言葉を持ちません。彼が本当はどう感じていたのかはわからないでしょう。その語られない物語が、現代に漫画という形でたくさんの人に知られるようになったのは、時行の供養にもなるかもしれません。

宗良親王は京都から遠江へ赴く際に、尾張、三河を越えていきました。たどりついた遠江は、今とは全く違った風景であったでしょう。しかし、穏やかな水面の浜名湖には驚いたことだと思います。『李花集』には
遠江国に侍りし頃月歌とてよみ侍りし
湊江や夕潮ふかくなるままに月にぞ浮かぶ浦の松原
と歌われます。また、心細い思いも抱いたのでしょう。次のような歌もあります。
都をいでてのちは時のまもやすき心ちなく侍りて
世の中の浪のさわぎにこぎいでてしあまの小船ぞよる方もなき
本来ならば、歌の道にまい進したかったであろう一人の青年が、父親とはいえ「天皇」に振り回され、命を懸けて戦う一生を送らなければならなかった…その姿は先の戦争の若者たちに重なります。
坂本竜馬らによって愛唱され、太平洋戦争でも盛んに歌われたのは、
君がため世のため何か惜しからむ 捨ててかいある命なりせば
ですが、天台座主であった親王の歌であるとすれば、天下泰平、国家安寧を導いてくれるのが「君」でしょう。「君」が混乱や戦いを廃し、人々の幸せのためになら「命を捨てる」という歌であるはずです。
けれども、親王の本音はむしろ
思ひきや手もふれざりし梓弓おきふし我が身なれむ物とは
であったと私は思います。
参考文献

写真スポットがいっぱいあって、娘は大興奮でした…

2025年8月15日
