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歴史と伝承のあいだ(2)そして物語へ:阿智~園原

 翌日もよい天気でした。

朝から豪華飯!しいたけの味噌漬けがうまかった…

 おいしい朝ごはんを食べ、温泉にゆっくり浸かってから出発。
 園原インター近くにある『阿智神社』へ。

行きに通りかかって気になっていた…
奥宮と前宮あり、こちらは奥宮。「延喜式神名帳」にも乗る、由緒正しい社。
鳥居のすぐ前は車が走る道路
苔むした石碑がある
鳥居を越えると車の音は遠くなり、静けさが漂う。
ピンと張りつめた空気が清々しい。
神楽舞台ですね。

 篝薪神楽が舞われるようです。鳥居の外の案内版には歌が書かれていましたので、これを詠唱するのかな…?もし見られるのであれば見てみたいですね。

ふらまおく しなののくにはも かみおろす
日霊之火能神(しるめのほのかみ) あれましし 
やつかのわだつみ にわびこそ
やまとにのこす やごごろの
吾道大社(あちのおおみや) 大神宮
  反歌
   きりふるる すがのあまなみ ふきはれて 
   ひるかみむらに のぼる太陽(おおかみ)

御流神道大阿闍梨 盡々法師 新宅大門 献詠
右手奥の階段を上がると磐座がある
祭神「天思兼命(あめのおもいかねのみこと)」が祀られている
おそらく「神社」よりも古くからの自然崇拝の祭祀場でもあったのだろう。
磐座は東西南北を指し、冬至の日の太陽は磐座の東側先端の延長線、南より下りる網掛山と北より流れる清内路山の稜線との接点より静かに上っていくのを配することができる(説明板より)

案内板によれば

昔から村の人たちに「山王さま」と親しまれ、小丘は阿智族の祖・天表春命の墳墓「河合の陵」と名付けられて信仰を集めてきました。巨石は磐座であると云われており、巨石を囲む遺構が発見されたことからそれが確かになりました。
 この地が阿智神社の祭神、八意思兼命・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の総本社であることがうかがえます。この二神は、信濃国に天降って阿智の祝の祖となったことが「先代旧事本記」に記されており、また天思兼命は「古事記」「日本書紀」に高天原随一の知恵の神として登場しています。

阿智村観光協会の案内板より

 八意思兼命・天表春命は饒速日命に同行した神の一人なので、神様自体は渡来系なのかもしれないですね。『古事記』の記述からすると神武天皇の時代です。
 いずれにしても、この地には古くから渡来人がやってきていたかもしれないというのには驚きます。

 さて、園原インターに向けて再度出発。

園原ICから出てきて右に行くと昼神温泉、左に行くと園原
絶景!
「園原の里」
しかし、ビジターセンター『ははき木館』は年末年始のお休みでした…残念…
いろいろなイベントをやっているようです。

 東山道は、古代の五畿七道の一つ。近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を東山道とします。

 蝦夷討伐の際に坂上田村麻呂が都から奥州へと向かったのもこの道でした。

坂上田村麻呂通過の碑
坂上田村麻呂は阿知使主の子孫と言われています。同じ「あち」なので阿智神社の阿智と同族かと思ったら、時代が全然違いますね。阿智王は後漢霊帝の曾孫と言われ、応神天皇の時代の渡来人(4~5世紀)で東漢氏の祖です。 

 万葉集を編んだ大伴家持は越中から京へ戻りますが、その後陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を任じられます。もし、多賀城へと赴いたのであればこの東山道を通って行ったことでしょう。東山道の終点地は多賀城であるからです。   

 また、「駒つなぎの桜」と呼ばれる樹齢450年の桜の木があり、義経が駒を繋いだという伝説があるそうです。 
 奥州藤原氏、藤原秀衡のもとに潜伏していた義経は、治承4年(1180年)兄頼朝の挙兵を聞いて秀衡が止めるのを振り切って奥州から東山道を通り鎌倉をめざしました。そのため、東山道は旧義経街道とも呼ばれます。
 「白河関」は奥州の入り口で、そこで義経は戦勝祈願をしています。後年、頼朝に追われ奥州へ落ち延びる際は「安宅関」を無事に越えた後、北陸へ出て日本海側を北上したとされています。ただ、幼少期に奥州へと向かったルートはこの東山道であったかもしれません。

 *ちなみに江戸時代には「白河関」の場所がわからなくなっていたのを、文献的に白河神社あたりと特定したのは、白河藩主であった松平定信です。

 東山道最大の難所と言われたのが、美濃と信濃間にある「神坂峠」で、歌にも歌われました。

 命からがら峠を越えて、東国(信濃側)の最初の地が「園原」でした。そして、この地で語られる体験談が都に伝わるようになったと考えられます。
 三十六歌仙の一人・坂上是則(百人一首31番の作者)が読んだ歌があります。

 美濃信濃の両国の界、園原伏屋というところにある木なり、
遠くて見れば、帚木を立てたる様にて立り、近くて見れば、それに似たる木もなし。
 園原や伏屋に生える帚木のありとて行けどもあわぬ君かな

「新古今和歌集」

 園原の炭焼き・喜藤次に嫁してきた京都の在原の息女容女姫が夕空を眺めて、遠く都の空を懐かしんでいると、母が手招きする姿が見えたため駆け寄ると、帚木の風に揺れる姿だったので、以後「母木木」と呼んだという伝説があります(謡曲史跡保存会)。これを受けて、坂上是則が帚木とは「人の心の移ろい、迷い、不確かなもの」として歌に詠みこんだのでした。  
 そして帚木で最も有名なのは、やはり『源氏物語』第二帖「帚木」ですね。学校で習った時は、「帚木とは箒に似た形の木だよ」という雅の欠片もないことしか教えてもらえなかったのですが、古くからの歌にちなんでいるとは。全く知らなかったです。
 「帚木」から「空蝉」にかけての章は光源氏と空蝉の話ですが、源氏の行動があまりにも気持ち悪すぎて私は大嫌いです。友達の自慢話を聞いて女を漁りに来るような男が来たら、おちおち家で寝てられませんよね。いかにイケメンで、地位のある男でもお断わりです。私はその後の空蝉の対応が「何をやっても許されるんですよ」という源氏に対して、「調子こくなよ」と肘鉄を食らわせたことに好感を持っています。

 光源氏
  帚木の心をしらて 園原の道にあやなくまどいぬるかな
 空蝉
  数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに あるにもあらず消ゆる帚木

『源氏物語』

 二人のやり取りを素直に読めば、「遠くからは見えるが、近くでは見えないものである」箒木を読み込むことで、源氏は空蝉を「決して手にはいらない女」として扱っているのに対して、空蝉は源氏にとっての自分は身分違いであるので、と返しているように見えます。それが徹底的な拒否につながったのだ、と。
 しかし、箒木の詳しい話を知るにつけ、空蝉もまた「源氏は遠くで見ている分には良いけど、近づいて見ると(それほどいいとは思えない)」という思いが少なからずあるような気もしてきました(やっていることは最悪だし)。そうやって見るとさらに空蝉の印象が変わりますね。
 
 ビジターセンターでは園原の里を「帚木の地」としてアピールし、『源氏物語』にちなんだいろいろなイベントが開かれているようです。

 さて、空蝉の歌の中の「伏屋」とは何でしょうか。これもやはり園原にちなんだ枕詞で、伝教大師・最澄に関わりがあるようです。

信濃比叡広拯院
布教のために神坂峠を越えてきた最澄が、東山道最大の難所神坂峠を越える旅人たちの苦難を見かね、無料の宿泊所(臥屋/布施屋)「広拯院」を設けたことに由来している。
旅の宿り「伏屋/布施屋」の枕言葉として歌に詠まれる
*後ろに見えるのは門前屋さん。やっぱり休みだった…
境内には伝教大師像がある。十六羅漢像も
まだ新しい
神坂峠はこっちの方向?なのかな…
古代東山道を歩こう!という看板があり辿ってみる

 少し坂を上がっていくと、広拯院跡といわれる「月見堂」があります。
 源仲正の歌
 木賊かる 園原山の木の間より みがきいでぬる秋の夜の月
 
をもとに「月見堂」と呼ばれるようになりました。

月見堂

 帰ってきてから知ったのですが、写真の右隣にあるのは、園原の人たちが建てた能楽堂なのだそうです。
 そうこの園原は謡曲『木賊』の舞台でもあるのです。

能『木賊』は現行曲、四番もの。狂女ものと呼ばれる人買いに奪われた子を求めてさまよい歩く「母」の物語に対して、『木賊』は父が子を懐かしんで半狂乱になる物語。
能にちなんだ展示があるとのこと。この企画展はぜひ見たかったなあ…まだ行く機会があるかな…
展示内容
月見堂の裏に木賊らしきものが生えていました。木賊は「砥草」で、研磨用に使われたそうです。漢方薬にも使われるそうですが、効能はよく知りません…

 能『木賊』は世阿弥作と言われ、こんなお話です。

 都の僧が、信濃出身の若い僧松若の、今一度父に対面したいとの願いを聞いて信濃国園原山を訪れた。そこでは老人が若者をつれて木賊を刈っていた。老人に園原山の謂われや「園原や伏屋に生うる帚木のありとは見えて合わぬ君かな」の歌の謂われを尋ねたりする。僧たちは老人に勧められるままに一夜の宿を借りた。老人はかつて僧に連れ去られた自分の子の消息を知りたくて旅人を泊めたと語り、子を懐かしみ物狂おしくなり舞を舞う。それが自分の父だと気付いた若松は、自ら名乗り出てあらためて親子の再会を果たした。そして、その伏屋を寺院として仏法流布の寺としたのであった。

『金春の能』中
金春安明
金春円満井会発行  クレオ発売

 え?連れ去ったのは、僧なの…?それとも、最終的に僧のところに預けられたってことなのかな?能で子供がいなくなるケースのほとんどは、僧になっていることが多いのはなぜなんでしょうか?
 謡曲としては宝生流のものが一番古いそうです。私はまだ能では見たことがありません。いつかこの園原の地で見てみたいですねえ…
 詞章の中には、源仲正の歌も使われていますが、一番老人の心境を示すのはやはり坂上是則の帚木の歌です。
 一行を泊めた老人は、息子の形見の衣を纏い昔を偲ぶ宴です、と僧たちに酒をすすめます。戒律だから…と勧められた酒を断ろうとすると

飲酒は仏の御戒めは去ることなれども。彼廬山の恵遠禅師。虎渓を去らぬ禁足にだに。陶淵明が志にて飲酒を破りしぞかし。まして我子のもて遊びし。舞曲の酒宴の戯ぶれにて。老生を慰む志をば。などかあはれみ給はざらん。

『木賊』詞章

と言って飲ませます。ここでも能『三笑』の元となった虎渓三笑のお話が出てきますね。よほど知られていたのでしょう。
 息子は舞が好きでしたと、老人は狂おしく舞い始めます。そして最後は「もう一目、姿を見せて欲しい」と嘆きます。ようやく若松は自分こそが息子であると名乗り出るのでした。もっと早く名乗り出てあげて…

万葉浪漫コースの看板は上へ

 さて、万葉浪漫コースの看板の矢印は階段の上を指しているのですが…

え、ホントにここ…?
上には園原社がある
ここからどうするの?
と思ったら、更に矢印が。え?この中を行くの???
駒つなぎの桜まで徒歩15分…
山道というか…道ですらないんだが…
やっぱり看板がある…いや、無理…

 ちょっとこの「浪漫」コースを歩いていく自信はなかったので、今回は諦めて帰りました。神坂峠へも行きたかったのですが、車で行くことができるのかわからなかったので、ビジターセンターが開いている時にまた来たいと思います。


恵那のサービスエリアから

 何回となく来ていた昼神温泉郷でしたが、その周辺は古来からの伝承の地でした。うれしい発見でしたが、全部を回り切れなかったのが残念です。また近いうちに来たいです。もちろん、おいしいご飯と気持ちのよいお風呂付で!!

 これで今年の旅行は終わりです。よいお年をお迎えください。
     2025年12月29日