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クラシック音楽はブルジョワ文化である。

以下の様なポストが流れてきた。
一芸術家として、この意見には賛同する部分もあるが、反論せざるを得ない論理がある。

「貧しい者には貧しい文化を」という差別——
クラシック音楽と文化的権利をめぐって

ソ連の文化政策と、芸術を「奪い返す」という思想から考える

クラシック音楽はブルジョワ文化である。この命題を、私はまず事実として受け入れる。西洋クラシック音楽の歴史は、貴族や資本家による庇護(パトロネージュ)の歴史でもあり、演奏会場も、楽器も、教育機関も、長く支配階級によって独占されてきた。しかし、だからといって「クラシック音楽は労働者や困窮者が触れるべき文化ではない」という結論が導けるだろうか。答えは断じて否である。

ある種の言説には——明示されることなく——こんな前提が潜んでいる。「困窮者は貧しい生活をし、貧しい文化のみを享受するべきだ」と。これは偏見ではなく差別である。経済的な困難のなかにある人々が、文学、哲学、音楽、絵画、演劇といった、歴史的に支配階級によって囲い込まれてきた「優れた芸術」に触れる権利はあって当然である。その権利を否定したり、嘲笑することは、文化を通じた階級支配の再生産に加担することに他ならない。

ソ連が証明した「文化的権利の奪還」

この問題を最も鋭く突き詰め、かつ実践した政治体制がソビエト連邦であった——功罪はともかく、この一点においては。

レフ・トロツキーは1920年代の著作(とりわけ『文学と革命』1923年)において、文化と芸術における階級論を展開した。これはレーニンが政治意識について述べた「外部注入論」——労働者は自然発生的に社会主義意識に到達するのではなく、外部から意識を注入される必要があるという論——の芸術版とも言うべき思想であった。トロツキーの文化芸術論は、ブルジョワ文化を単純に否定するのではなく、支配階級が独占してきた「知と美」を労働者が奪還し、それをより高い地平へと昇華させることを目指していた。

ただし、この路線がスターリン政権下で公然と唱えられることはなかった。スターリンは1934年に「社会主義リアリズム」を国家芸術の原則として定め、芸術を政治宣伝の道具として厳格に管理した。トロツキーの名は禁句となり、彼の文化論は地下に潜った。しかし、ソ連が「芸術の民主化」という実践そのものを放棄したわけではなかった。

タルコフスキーの映画と夜間大学の労働者

その証左として、アンドレイ・タルコフスキーの存在がある。タルコフスキーは1970年代のソ連において最も難解かつ詩的な映像作家であり、1986年に刊行された彼の映画論『映像のポエジア(Sculpting in Time)』は、映像を「時間の彫刻」と規定する独自の哲学を展開している。難解な実験的映像と前衛的な精神性を持つ彼の作品が、ソ連国内でどのように受容されたかは西側ではあまり語られない。

事実、夜間大学に通いながら工場や農場で働く労働者たちが、タルコフスキーの映画を鑑賞し、その感想や批評を監督本人に書き送っていた。タルコフスキー自身がそうした手紙を大切に保管し、観客との精神的な対話として重視していたことが、彼の日記や証言から確認できる。これは単なるエピソードではない。ソ連の文化政策が、芸術の高みを大衆に「解放」しようとする制度的な意志を持っていたことの、生きた証拠である。

「文化資本」の独占という問題

社会学者ピエール・ブルデューは「文化資本」という概念によって、芸術的教養が社会的な階級再生産の装置として機能することを明らかにした。クラシック音楽を「知っている」こと、美術館に通う習慣があること、哲学書を読んでいること——これらは単なる趣味ではなく、経済資本とは別の形で社会的優位を生み出す資本として機能する。問題は、この文化資本へのアクセス自体が、出自・所得・教育環境によって著しく不平等であるという現実だ。

だからこそ、困窮者や労働者がクラシック音楽に触れることには、単なる娯楽を超えた意義がある。それは奪われてきた文化的権利の回復であり、ブルデューが言う「文化資本の再分配」でもある。図書館の無料開放、公共放送での芸術番組、廉価な公演チケット制度——こうした施策は単なる福祉ではなく、文化的な民主主義の実践である。

芸術家として、人間として

私は芸術に携わる者として、「貧しい者には貧しい文化を」という暗黙の論理に、根本的な怒りを覚える。芸術の力は、まさにそのような分断を超えるところにある。バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて耳にした若い工場労働者が、その音楽に打ちのめされる瞬間——そこに「正しい聴衆」も「ふさわしくない聴衆」もない。

文化は本来、特定の階級の所有物ではなく、人類の共有財産である。それを「あなたには分不相応だ」という態度で遠ざけることは、歴史的な収奪の継続に加担することだ。クラシック音楽がブルジョワ文化の産物であるなら、なおのこと——それを万人のものへと開いていくことが、芸術に関わるすべての人間の使命ではないだろうか。

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