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馬上精彦(空間プロデューサー)『新宿・風月堂とビート族とフーテンとヒッピー』|アナログレコード紳士録 #3-2


1回目の【学生時代】だけでも相当な内容でしたが、実は新宿にあった伝説の喫茶店「新宿・風月堂」に通われていたというお話しを聞き、サブカルチャー史的に非常に重要な「新宿・風月堂」と、そこに入り浸っていたビート族、そしてヒッピー、フーテンとの関係など“わかっているようで本質をわかっていなかった関係性”についてお話しを聞き、じっくりと深掘りさせていただきました!


新宿・風月堂とビート族とフーテンとヒッピー

------学生時代の60年代に新宿にも通われていたそうですが、60年代の新宿って、どんな雰囲気だったんですか?
馬上  60年代の新宿は、さまざまな若者文化が一気に押し寄せては入れ替わっていく本当にカオスな場所でした。だから時間軸と視点をきちんと整理しないと、自分の記憶も混ざってしまうほどです。僕が実体験として語れるのは、大学に入った1964年から、日本を離れる1969年までの“60年代後半の新宿”です。若者カルチャーに絞って言えば、やはり最大のトピックは「フーテン族」でしょうね。

当時のフーテンの人達 深作光貞 著. 新宿考現学, 角川書店, 1968年 より

フーテン、瘋癲

------それでは「フーテン」とはどんな人達だったのでしょうか?

馬上  新宿で“フーテン”と呼ばれる若者が注目されたのは1967年の頃のことです。翌1968年の映画『男はつらいよ』で“フーテンの寅さん”が登場します。ですから“フーテン”という言葉は明らかに当時の新宿フーテンから取ったものでしょうね。一般の人が“フーテン”という言葉を耳にしたのは、谷崎潤一郎の小説『瘋癲老人日記』が初めてだと思います。1961年に小説が発表され1962年に映画化されました。「瘋癲」という文字はとても読めないのでカタカナ化したんでしょうね。「瘋癲」とは「定職を持たず街をふらつく人」、「気がふれている」、「無職」などの意味があります。英語で言えば「クレージー」でしょうね。新宿に集まって来たクレージーなファッションの若者の呼称として転用されていったように思います。高度成長期のただ中なのに、仕事にも就かず学校にも行かない若者たちが新宿に集まり、ただぶらぶらしていたわけです。路上で睡眠薬やシンナーを吸ったり、地方から家出して来て公園で野宿する若者の姿を目にしました。遊び場と言えば「ゴーゴー喫茶」や「サイケ・バー」と名乗る小規模な店で、踊っていたのはゴーゴーやモンキーダンスでした。「ジ・アザー」、「らせん階段」、「LSD」などなど結構な数はあったと思います。まだディスコという言葉はありませんでしたから通称「踊り場」と呼ばれていました。日本初のディスコと言われる「ムゲン」が赤坂にオープンしたのが1968年ですがディスコとは言わず「ゴーゴークラブ」と呼ばれました。同年、同じビルにオープンした「ビブロス」が初めて「ディスコ」と名乗りました。両店ともセレブ御用達なのでフーテンとは無縁の店でした。ディスコブームが起きたのは70年代以降のことです。
「フーテンは和風ヒッピーだ」と言う人もいますが、当時は情報が乏しく本物のヒッピーを知るフーテンはいなかったと思います。マリファナやLSDの体験者など皆無だし、サイケデリック体験やヨガ、瞑想などしていたフーテンは一人もいませんでしたよ(笑)。確かに長髪やパンタロンなど外見はヒッピー風の者もいましたが、中身はまったく空っぽでした。フーテンは67年〜70年の束の間に出現した時代のあだ花的な若者たちだったと思います。
新宿には紀伊國屋書店と画材店の世界堂があったので、インテリ系やアート系の若者も多くいました。彼らは主にジャズ喫茶に溜まっていた。ただしジャズ喫茶は私語禁止で会話が出来ないので一人客が多かった。難解な前衛ジャズを聴きながら、薄暗い店内で本を読むふりをしている客が多かった。険しい表情で何時間も粘る姿は、ストイックな修行僧のようでした(笑)
60年代末の新宿の街には、学生運動の活動家もいましたし、アングラ演劇や前衛芸術家の卵もいました。そうした多種多様な若者がフーテンと渾然一体となりカオスを生んでいました。60年代後半はサブカルチャーの揺籃期であり、その中心地が新宿だったのは確かです。

フーテン族 登場 1967年 NHKアーカイブスより

ジャズ喫茶

------ 新宿というとジャズ喫茶のイメージも強いです。
馬上  新宿には紀伊國屋書店と画材店の世界堂がありましたから、インテリ系やアート系の若者もいました。彼らの主な溜まり場はジャズ喫茶ですが、私語禁止がルールでしたから店内で会話ができません。薄暗い店内で難解な前衛ジャズの大音量に浸るだけですから、本でも読むフリしなけりゃ手持ち無沙汰でいられません。しかめ面して額に手をかざし、コーヒー1杯で何時間もネバる若者の姿はストイックな修行僧のように見えました。常連は近視と難聴が進んだと思いますよ(笑)。


【新宿のジャズ喫茶】

新宿におけるジャズ喫茶の広がりを知るために、雑誌『スイングジャーナル』の広告欄などに、いつ、どの店が掲載していたかを調べてみた。確認できる限り、最も早い掲載は1956年4月の「コーヒー&モダンジャズ ダット」である。同年11月には「モダン・ジャズとコーヒー DOTTS」が続き、1950年代半ばにはすでに新宿にモダンジャズを前面に掲げる喫茶店が現れ始めていたことがわかる。1958年に入ると動きは加速し、6月に「きーよ」、11月には「新宿ジャズ・コーナー」が誌面に登場する。12月には「新宿ACB」が開店*。1959年の5月には「汀」、7月には「木馬」、11月には「ポニー」と、立て続けに複数の店名が広告に掲載、またはお店が紹介されている。1960年5月には「アカシア」と「ヨット」が登場、1961年11月には「DIG」が開店する。ここまでを見ると、1956年から1961年にかけてのわずか数年間で、新宿にはジャズ喫茶が連続的に生まれていた。もちろん広告を掲載していなかった店もあっただろうがジャズ喫茶を語る書籍などに掲載された店はほぼ広告を掲載されていたようだ。さらにジャズ喫茶が所在していた場所は新宿駅東口〜歌舞伎町~新宿2丁目の範囲に限られていたこともわかった。
*新宿ACB / 井上達彦×寺内タケシ 監修 講談社 2003年より


新宿風月堂

新宿歴史博物館 特別展「琥珀色の記憶~新宿の喫茶店」から


かつて風月堂があった場所に建つビルの銘板に風月堂の銘が

------日本のカウンターカルチャーの歴史を調べると風月堂という店の名前をよく見かけます。そこにも通われていたとか。
馬上  足繁く通う常連ではありませんでしたがチラホラ行っていました。新宿三越裏にあった風月堂は、1946年から1973年まで営業していた喫茶店です。ゴーフルで有名な上野風月堂や東京風月堂(銀座)と混同されましたが、まったく無関係です。時折、勘違いして「お茶でも」と入って来た奥様方が、客層の違いに驚いて飛び出すような喫茶店でした。外観はガラス張りのモダンなデザインで、“FUGETSUDO”と横文字のネオンサインも洒落ていましたが、店名や外観と客層があまりにもミスマッチなので、知らない客は驚いたと思います。新宿風月堂は、戦時中禁止されていたクラシックレコードをかける戦後初の名曲喫茶として焼け跡の新宿の街に誕生しました。開業当初は上品なクラシック音楽ファンが集っていたと思いますが、経営者の意図に反して時期毎に客層が大きく変遷しました。ジャズ喫茶とは対照的に、店内は明るく静かに音楽が流れる空間でした。会話がしやすく客同士の交流が生まれる場所でしたね。

------風月堂にはどんな人たちが集まっていたんでしょうか?

馬上  この店は戦後のカルチャーを代表する文化人が集まる伝説的なサロンでした。そこには、滝口修造白石かずこ山﨑朋子三枝成章三國連太郎野坂昭如五木寛之岡本太郎岸田今日子長沢節朝倉摂谷川俊太郎唐十郎寺山修司若松孝二……といった、詩人、作家、俳優、画家など多くの文化人が若き日に集っていました。彼らは僕より上の、戦前生まれの世代ですね。1964年の東京オリンピックの頃には、イギリス人のジョン・ウイルコックによるベストセラー・ガイドブック「1日5ドル乃至10ドルの日本」で「日本のグリニッジ・ヴィレッジ」と紹介されるほどで、海外でも“Fugetsudo”は東京の代名詞のように語られ、若者文化の聖地とまで呼ばれました。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジはビート・ジェネレーションの中心地でしたから、“Fugetsudo”にはビートニック詩人も出入りしていました。ヒッピーの元祖のような人たちです。しかし60年代後半になると、フーテンや学生運動の活動家が出入りするようになり、公安の監視対象にもなっていきます。かつての名曲喫茶とは客層が大きく変わり、1973年に27年間の歴史に幕を閉じます。僕がヨーロッパから帰国した1975年には、すでに跡形もなく消えていました。開業が僕の生まれた年なので、時間軸の目安となります。
------新宿に集まっていた「感度の高い」若者を大まかに時系列的に言うと、ビートニック1965年→フーテン1967年→ヒッピー 1970年みたいな感じでしょうか??
馬上  そうですね、フーテンは実体不明のオマケのような気もしますが、時系列はその流れでいいと思います。

ビート・ジェネレーション、ビートニック、ビート族

日本のビート族


------ビート族、ビートニックとの関係についても教えて下さい。
馬上  僕が風月堂に行っていた頃には、ビートニック詩人のサカキ・ナナオや、おおえまさのりといった、日本における“ヒッピーの元祖”のような人たちがいました。サカキ・ナナオはのちに渡米し、アメリカの代表的ビート詩人のひとりとして知られます。風月堂の常連だった友人が二人います。一人は、当時“ガリバー”の名で知られた安土修三。今では「シュウゾウ・アヅチ・ガリバー」として、ニューヨーク近代美術館に作品が所蔵されるほどの世界的なコンセプチュアル・アーティストになりました。もう一人は“ミヤイちゃん”こと宮井陸郎。前衛映画作家で、「赤坂ムゲン」のオープンにも関わり、アンディ・ウォーホールとの親交があった人物です。70年以降はインドに渡り、バグワン・シュリ・ラジニーシの弟子となり、“スワミ・アナンド・シャンタン”というサニヤス名を授かります。その後の人生のほとんどを“シャンタン”として生きた精神世界の先駆的なヒッピーでした。後に世界的に広がる“ニューエイジ”と呼ばれるスピリチュアル・ムーブメントも、その萌芽はビートニックであり、日本では風月堂にあった 。そんなふうに考えることもできますね。

諏訪優 ビート・ジェネレーション 1965年

------ビートニックとヒッピーの関係って、どうつながっているんでしょうか?
馬上   ビートニックは、日本では「ビート族」と略称されてます。風月堂のインテリ層の間でバイブルのように読まれていたのは、ウィリアム・S・バロウズアレン・ギンズバーグの『麻薬書簡(The Yage Letters)』と、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』の二冊でした。『麻薬書簡』は、アマゾン奥地の幻覚植物“究極のブツ”であるYageについて二人の手紙を綴ったものです。当時謎だったYage(アヤオアスカのこと)については、後年思わぬ出会いがありますが、その話は後にします。『オン・ザ・ロード』はケルアックのアメリカ大陸青春放浪記です。二冊の本のテーマは「ドラッグ」と「旅」であり、このテーマは若者たちを惹きつけ、東洋へと旅立つヒッピーのスピリチュアル・トリップのきっかけとなりました。

ウィリアム・S・バロウズとアレン・ギンズバーグの『麻薬書簡(The Yage Letters)』1966年

翻訳者の諏訪優は詩人でもあり、風月堂のシンパサイザーでした。詩人山尾三省らとともにビート・ジェネレーションを日本に紹介し、ヒッピー・ジェネレーションを産み出した立役者です。禅やインドへの関心はビート詩人から始まっています。僕も欧州への旅には二冊のバイブルを携行しました。
僕の中では個性の異なる4人のビート詩人のイメージがあります。

4人のビート詩人

アレン・ギンズバーグ

Allen Ginsberg – Reads Kaddish 1966年 discogsから

1人目は、外見と行動が最もビートニックらしいアレン・ギンズバーグ。ビート髭にもじゃもじゃの長髪、そしてゲイでした。

William Burroughs* – Call Me Burroughs 1965 discogsから

ウィリアム・S・バロウズ

2人目は、ウィリアム・S・バロウズ。スーツに黒ブチ眼鏡の生真面目な学者タイプ。ハーバード出身のインテリです。しかし彼こそが最も行動が過激なビートニックでした。ウィリアム・テルごっこ遊びで、奥さんの頭にグラスを乗せ標的にしますが誤って射殺してしまいます。裁判では無罪となったが、アメリカにいられなくなり、一時期モロッコのタンジールに隠れ住んでいました。

Jack Kerouac – Readings By Jack Kerouac On The Beat Generation 1960年 dicogsから

ジャック・ケルアック

3人目はジャック・ケルアック。マサチューセッツ出身のアイビーボーイ。ハイスクールのフットボール選手で爽やかなスポーツマンタイプ。女性にモテる明るめのジェームズ・ディーンのようなイケメンです。

Conversations With Gary Snyder Amazonから

ゲーリー・スナイダー

4人目はゲーリー・スナイダー。彼はサンフランシスコ出身で、長髪の風貌も生き方も間違いなくヒッピーの元祖ですね。スナイダーは日本に12年間滞在し、京都大徳寺で臨済禅の修行をしています。彼の奥さんは日本人です。日本のヒッピー「部族」の仲間たちと諏訪之瀬島に移住してコミューンを作ります。アメリカ帰国後はカリフォルニア山中に禅堂を建て住み、環境保護運動の活動を展開します。スナイダーの作品は、あの名著「ウォールデン 森の生活」のヘンリー・ソローと同じ「ネイチャーライティング(自然文学)」です。

ヒッピーとは

------ヒッピーって、そもそもどういう人たちなんですか?
馬上   「60年代後半のアメリカの大学生は、すべてがヒッピーだった。」と言っても過言ではないでしょうね。言い方を変えると「強弱の差や時間差はあるがアメリカの大学生の100%がヒッピー・ムーブメントの影響を受けた。」と言えます。ヒッピーの発祥地であり中心地だったのはサンフランシスコですから、UCバークレー(カリフルニア大学バークレー校)やスタンフォード大学など名門校の大学生たちがムーブメントの中核になっていました。ヒッピーのリーダー的存在で、雑誌「ホール・アース・カタログ」の発刊者であるスチュアート・ブランドやエサレン研究所を作ったマイケル・マーフィーとリチャード・プライスなど。彼らは皆ハーバードに次ぐ全米第2位の私立校スタンフォード出身の典型的なエリート学生です。ムーブメントはすぐに全米各地の大都市に広がりましたから、都市部では大学生以外の若者もその渦に巻き込みました。特に大学生は徴兵されベトナムの戦場に送られ危惧があったので反戦活動に熱心だったと思います。


WHOLE EARTH CATALOG(ホール・アース・カタログ)

Whole Earth Catalog(ホール・アース・カタログ), Fall 1968 創刊号表紙
Whole Earth Index Here lies a nearly-complete archive of Whole Earth publicatio wholeearth.info
Whole Earth Epilog, October 1974 裏表紙

*WHOLE EARTH CATALOG(ホール・アース・カタログ)とは
(『Whole Earth Catalog』は“Access to Tools(道具へのアクセス)”を掲げ、カウンターカルチャーや自給自足志向の人々に向けた「道具の百科事典」であり、ヒッピーやコミューン文化のバイブルとなった。最終号の裏表紙には、後にスティーブ・ジョブズも引用した「Stay Hungry, Stay Foolish」が記されている。)全地球カタログ。


馬上   僕が初めてサンフランシスコに行ったのは1975年、アメリカ建国200年祭の年でした。ヒッピー・ムーブメントのピークは過ぎてましたが、バークレー周辺は“ヒッピー観光地”になって賑わっていました。BARTの駅前からバークレー校までの通りには、マリファナ用品を売るヘッドショップや手作りクラフト、ファッションなどの露店がずらりと並び竹下通りのようでした。この旅はコシノミチコさんと英国人のパートナーとの3人旅でした。ロスアンジェルスで合流して、僕がレンタルしていた黒のシボレーカマロでサンフランシスコまで片道600kmの距離を往復しました。皆サンフランシスコは初めてでしたが、友人が案内役として60代のオールドヒッピーを付けてくれました。彼は禅の修行者であり、インド哲学にも造詣が深い最高のキャラクターガイドでした。連日ストーンしながら彼好みのユニークなスポットをガイドしてくれました。本物のヒッピー導きで本場のヒッピーカルチャーを体験することが出来ました。帰路サンフランシスコの南100kmほどのサンタクルーズの友人宅に滞在しました。この町はカリフォルニア大学サンタクルーズ校のキャンパスタウンなので、典型的なヒッピーライフを体験しました。友人は大学講師ですが、20人ほどの学生たちと大きなファームハウスで共同生活をしていました。ハウスの周囲には大麻畑があり、近くには最高のサーフビーチがあります。リビングで一人の学生が大麻を吸いながら読書しているので問いかけると、タイトルが“アメリカ建国200年の侵略の歴史”というコミック本でした。「ネイティブアメリカンの視点から見た白人による侵略の歴史に怒りを覚え、ネイティブにシンパシーを感じる。」と言いました。こんな若者たちがカウンター・カルチャーの基盤になりヒッピー文化が進化して行くんだなと予感しました。サンタクルーズ市はリベラルで、全米で最初に医療マリファナの使用を認めた都市です。まさに“夢のカリフォルニア”とはこんな土地を言うんだろうと実感しました。この旅の翌年、1976年にスティーブ・ジョブズがアップル社を創業しました。アメリカの建国200年目にコンピューターが登場することになりますね。その後ヒッピーは、「シティ・ヒッピー(都市派)」と「カントリー・ヒッピー(自然派)」に分かれていきました。

シティー・ヒッピーとカントリー・ヒッピー

------都市派と自然派って、どう違ったんですか?
馬上   シティー・ヒッピーは、1969年のチャールズ・マンソンによる連続殺人事件を境に急速に衰退していきました。マンソンが作ったヒッピー・コミューン「マンソン・ファミリー」は、次第にカルト教団化して行き、教祖マンソンの指図で連続9件の殺人を犯します。中でも有名人である映画監督ロマン・ポランスキーの妻で女優のシャロン・テート殺害事件は衝撃的で、世間の目は一気に「ヒッピー イコール 危険なやつら」と見られるようになってしまった。都市のヒッピーは、「ドラッグとセックスに溺れる犯罪者」というネガティブイメージで終焉します。

LIFE Magazine December 19, 1969 チャールズ・マンソンが表紙になっている。
Charles Manson – LIE: The Love And Terror Cult discogsから。以前は米国ebayでは出品禁止だったLP。

残ったのは平和なカントリー・ヒッピーで、自然環境に恵まれた郊外や田舎に移住し、オーガニックで自給自足なライフスタイルを目指してヒッピー文化を育てていきました。サンフランシスコ・ベイエリアではそこからシリコンバレーのコンピューター文化が生まれたと言っても、あながち間違いではないと思いますね。

スティーブ・ジョブズとヒッピーの関係

------スティーブ・ジョブズもヒッピーに傾倒していたとよく言われていますね。
馬上   スティーブ・ジョブズは1955年生まれですから、古参のヒッピーから見ればネクスト・ジェネレーションと言えるかもしれません。でも僕は彼をラストヒッピーだと思っています。彼は17歳でLSDを体験し、大学は半年で中退し1年近くもキャンパス内でフーテン生活を送っています。そして19歳の時に“グル”を求めてインドへと向かう。しかし到着早々赤痢にかかってしまい、インドの現実に失望して早々に帰国する。ここまでの人生軌跡は完全にヒッピーですよね。もし彼がインドで旅を続けていたら、グルに出会って求道者の道を歩み、テクノロジーとは縁のない人生だったかもしれない。彼の帰国が早まったことでAppleが誕生した。そう考えると、人生の偶然って本当に面白いですね。Appleロゴの由来にも面白いエピソードがあります。ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが自宅ガレージでパソコンを手作りしていた時期、マリファナを吸いながら『トムとジェリー』のアニメーションを見ていた。ウォズニアックがネズミのジェリーにかじられたリンゴをロゴマークにしようと思いついた。そしてパソコンの操作をするコードの付いた装置をネズミの尻尾に見立てマウスと命名した。猫のトムは巨大企業IBMです。自分たちはネズミのジェリーで、体は小さいが頭脳明晰でトムとの喧嘩では高い確率で勝利する。こんな発想は頭の固いビジネスマンからは出て来ませんよね(笑)。

apple logo りんごの欠けている意味が…

Appleのロゴの由来もけっこうユニークで、「トムとジェリー」の映画を観ながらマリファナを吸ってたとき、一緒にいたスティーブ・ウォズニアックが、リンゴをかじってるキャラクターを見てそこからあのりんごを齧っているアイデア浮かんだんだそうだよ。マウスの発明はネズミのジェリーがヒントだしね(笑)


編集後記

わかっているようで全くわかっていなかった「ビート族」と「ヒッピー」そして「フーテン」のこと、話には聞いたことがある程度の「新宿風月堂」・・・など実際に体験された方のお話しは凄みがあります。そして「光は新宿より」ならぬ「カウンターカルチャーは新宿より」を実感しました。次回は欧州編です。次回も目眩を感じる凄さです。


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