音のからだ|Co.山田うん《楽興の時》|2026年2月28日の日記
Co.山田うんの新作ダンス《楽興の時》を鑑賞するため、世田谷パブリックシアターに足を運ぶ。
この踊りを
視られるものではなく
聴かれるものとして捧げたい
振付家・山田うんの、そんな願いがあふれ出た作品だった。

もともと山田の作品には、視覚芸術としての踊りの枠組みに揺さぶりをかけ、観客の視線を惑わせてくるところがあった。
2010年の「ショーメン」では舞台芸術のもつ正面性が幾何学的に解体され、翌々年「季節のない街」の頃からだろうか、シンクロナイゼーションに禁欲的になった山田の振り付けは、ダンサーの体を同期させて単一巨大な視覚オブジェクトを作り出そうとするよりは、舞台のそこかしこに踊りという現象を非同期的に生起させる向きに傾いた。
観客は、舞台のあちこちから沸き立つ踊りのすべてを、一挙に見詰めることはできない。目を凝らせば凝らすほど、そのことで絞られていく視野の周縁において、Co.山田うんの踊りは踊られる。それは、対象を一点に見定めようとするまなざしの権力から、たえず逸れていくような踊りだ。
その踊りを前に、観客の視線はしばしば惑乱し、意識は目に見えない外へとひらかれ、いつしか聴覚的なモードでその踊りに向き合っている自分に気づく。
────というのは、本作の経験を踏まえて Co.山田うんのこれまでを振り返った末の「後付け」の解釈だ。それほどまでに今日の僕は、舞台上で踊るダンサーたちの体を「聴いて」いた。
ラフマニノフが作曲し、ヲノサトルが演奏する音楽の海原で、ダンサーが揺らめき、揺蕩い、ときおり波濤をなして浜辺に押し寄せては、大きなうねりをなし、飛沫となって飛び跳ねる。その体が音の海に溶け込むこともあれば、海面をつたう波となることもあり、ときには音の粒となって海中からふいに浮かび上がることもあった。
今作では、舞台のスポットを照らす光が使われていなかった(と思う)。正面をもたず、焦点を結ばせず、輪郭さだかならぬ音の塊として舞台上に響動く踊り。それは、観客の目を一所に釘付けにするよりは、全方位に向けて耳をそばだてさせる踊りだった。

自らの詩を吟じる諷詠者・志人が参入してからの後半は、翻って彼の放つ言葉の意味作用が舞台上に焦点を結び、観客の意識をそこへと収斂させていった。
ダンサーの「体を聴く」体験に対置するなら、そこに生じていたのは、志人の「声を視る」とでも呼ぶべき体験だ。
会場に満溢するヲノサトルの音楽の只中で、志人の言葉が核をなし、かたちなき音を引き寄せては、その場に音の結晶体を析出させていく。
詩的言語が織り込まれた音楽は、その輪郭を際立たせ、意識の中心にひとつの像を結ばせる。それまで自分を取り巻いていた音の広がりに焦点がもたらされることで、そこに擬似的な視覚体験が立ち上がる。
終盤、志人の周りにダンサーが集結し、一つの肉塊となったそのど真ん中から声が放たれたとき、ぼくは彼の口腔から発せられる音を、確かにこの目に「視て」いたように思う。
言葉と身体と音楽と──山田うんの錯綜する思いがあふれ出たような作品だった。

意味ではない、
と言い続ける
理解ではない、
と動き続ける
ひとりが
ひとりをノックする
その音は壁を超えない
わからないまま
耳を澄ます
出来事の「あと」ではなく
「まえ」にしか現れないもの
小さな
気配
それが主役になる世界を
まだ、見ていない
